11.02
「安全」には誰が責任を負うべきなのだろうか?
韓国・ソウルで155人が亡くなった。ハロウィンを楽しもうという若者たちが1箇所に詰めかけた雑踏で、恐らく多くが押しつぶされるように死んだ。悲惨ないことというしかない。
ハロウィンの楽しみを、開放感を、ちょっとばかりのアドベンチャーを求めて我も我もと足を運んだ群衆が、否応なく押しくらまんじゅうを強いられた。一度足を踏み入れると、
「もう押しくらまんじゅうは飽きたからやめよ」
とはいえない。後から後から人の波が押し寄せるからである。
「どいてよ! 何とかしてよ」
と叫んでも、
「もっと離れてよ! 何とかしなさいよ」
と大声を出しても、誰も訊いてくれない。いや、その声が耳に届いていたとしても、聞いた本人が身体の自由を奪われ、ますます勢いを増す人波に流されているのだから、何とかしたくても何ともできない。
混乱の中で155人の命が奪われた。2度と起きて欲しくない悲劇である。
「この惨劇を繰り返すな!」
メディアは一斉にそう声を合わせた。それに異論はない。だが、どうしたら繰り返さずに済むのか。
メディアのペンが向かう方向は、どこかに責任者を見つけ出すことである。責任者を特定できれば一件落着、というのがメディアの特性である。
まず矛先は政府、自治体に向かった。警備は十分だったか。群衆を整理して事故を起こさない計画はあったのか。現場にいた警官は職務をまっとうしたのか?
続いて出て来たのが、この通りに不法構築物がなかったか、という視点である。通り沿いのどこかの店が、通りに違法に何かを作っていたら、それが邪魔になってパニックの引き金を引いたかも知れない、というのである。
そして、とうとうイベントに明確な実施主体がなく、そのため安全対策を計画し、実行する主体がなかったのが原因、という指摘も出て来た。
私はこのような責任追及に大きな違和感を持つ。まず、政府や自治体にこの事故を防ぐ責任はあっただろうか?
そもそもハロウィンで人混みができるのは規制できないことである。ハロウィンには町に出よう、と煽る商店街もあるだろうが、煽りに乗るかどうかは個々人の判断である。その集まりが、人を圧死させるほどの大群衆になるとは、参加者も煽った側も考えもしなかったろう。ましてや、行政にそれを予見しろというのは無い物ねだりに近い。予見しなかった行政を避難できるほどの予見力を私たちは持ち合わせているか? 行政も、私たちと同じような人々が担っているのである。
もちろん、これまでのハロウィンで今回の惨事に近いことが起きていたら、準備のしようもあったかもしれない。神戸の経験がある日本では、昨日の渋谷のように多数の警官が取り締まりに立ち、
「立ち止まるな。歩け!」
と群衆を叱咤する。政府や自治体にできる防止策は、せいぜいそんなものである。だが、お巡りさんに身体の動かし方まで指示され、違反すると叱られるカーニバルが楽しいか? テレビで渋谷のハロウィンを見る度に、
「この子たち、なんでこんなところにわざわざ集まるんだろう? 何が楽しいのか?」
と私が思ってしまうのは、年齢のせいだけではない。カーニバルとは、お祭りとは日常の規制、制約から自由になるから楽しいのではないか? 日常以上に規制に従わねば参加できないお祭りが、本当に楽しいか?
メディアは何かが起きると責任者を捜し回る。その時、最も捕まりやすいのが役所である。役所がまともに仕事をしていないからこんなことが起きる。メディアはそうはやし立てる。遺憾ながら、かつての私も、そんなパターンの記事を書いた。
だが、役所とはしたたかなものである。
「ごめんなさい」
と下げた頭の中で、
「これで権限が増える」
とニンマリする。ニンマリして、
「同様の事故の愛発を防ぐためには、我が役所に次のような新たな権限と予算が必要なります」
という文章が思い浮かぶ。権限と予算が増えれば天下り先も増える。
というのが役所という生き物の生態である。メディアは役所に
「責任を取れ!」
と迫ることで、お役人の天下り先を増やすお手伝いをしているのが現実である。
違法構築物を探すのもいかがなものかと思う。役所に認められていない花壇がないか。警察の許可を得ずに路上に出していたワゴンがないか。そんなものがあったとしても、今回の惨事と関係づけるのは難しいはずだ。
ましてや、イベントの実施主体が不明確だったという指摘は、
「こんなイベントって、そんなものでしょ」
というしかない。
と考えてくると、結論は1つしかない。
「自分の安全は自分で守る」
である。
もちろん、行政が前に出なければならない安全もある。国際紛争、地球環境保護、河川の氾濫、震災対策、交通安全……。どれも政治・行政が前に出なければ私たちの安全が守れないものは多い。
だが、政治・行政がどれほどのことをしようと、自分を守るのは最終的には自分しかない。
ハロウィンはキリスト教のお祭りである。その祭日に街頭に繰り出したのは、誰にも強制されない、自発的な参加者ばかりである。であれば、自分の安全を守るのは、ハロウィンの日に街頭に繰り出した個々人ではないか。参加しようと思って電車に乗ったが、先にいる群衆を目にして
「これはやばい!」
と引き返す判断力と勇気ではないか。
私にはそう思えるのである。
政府や自治体に責任を認めさせたところで、奴らに出来る事は税金という名目で大衆のポケットから吸い上げた金を、何の痛みも感じず、様々な名目で遺族に配るだけである。
そんなつまらぬ手続きが繰り返されるのを私は見たくない。そして、見たところで、亡くなった人々が戻ってくるはずもない。
亡くなった方々を悔やみつつ、私は
「何故、惨劇が起きる前に現場を離れなかった? あなたを守るのはあなたの判断力と決断しかないのだぞ!」
といいたい気持ちで一杯である。