05.19
私と朝日新聞 記者以前の1 ファーストコンタクト
さて、いよいよ過去への旅を始めよう。
私と朝日新聞の出会いは62年前に遡る。当時私は11歳、大牟田市立平原小学校の5年生だった。その年12月、私は新聞配達を始めたのである。
我が家は貧しかった。以前書いたが、父はアルコール中毒である。中学校の教師でありながら職場に着く前に途中の酒屋で焼酎をコップ1杯ひっかける。仕事が終われば同じ酒屋に寄って酔い潰れるまで飲む。教室でも酒の臭いをさせる男にいつまでも教師が務まるはずもなく、この頃は確か養鶏をやっていた。祖父が残した広い地所に鶏小屋を建て、卵を産ませて売るのである。
産み落とした時に殻に傷が入ったり、殻が固まらないまま産み落とされて商品にならない卵は自家消費するしかない。ために私は卵が嫌いになったことも、古い読者の記憶に残っているかも知れない。
わずか600羽ほどの養鶏業で暮らしが支えきれるはずはないと思うが、父が飲む酒のお代も考えると、我が家の家計はいったいどうやって成りたっていたのか。いまもってよく分からない。
が、私が新聞配達を始めたのは、長男として少しでも金を稼いで家計の足しにしようなどという殊勝な動機からではなかった。母もそんなことは私に求めなかったから、まあ、食うだけは何とかなっていたらしい。
私が新聞配達を思い立ったのは、欲しいものがあったからである。トランジスタラジオである。
我が家には真空管式のラジオはあった。まだテレビが我が家などにはやって来ない時代だ。いまでいえば、我が家のエンタメはラジオに頼りっきりだった。
が、真空管式のラジオは、電源がなければ音を出してくれない。家を離れた場所でも聞きたかったのが何だったのか。歌謡曲? 落語? それともプロ野球の中継? そのあたりの記憶は曖昧である。ただ、トランジスタラジオが喉から手が出るほど欲しかったことだけは確かである。
悲しいことだが、食うだけは何とかなっていたとはいえ、息子にトランジスタラジオを買い与えるゆとりなど我が家にないことは子供心にも分かっていた。だが欲しい。少年雑誌に掲載されているトランジスタラジオの広告を穴が空くほど見つめ、ついにはその写真を見ながらボール紙でトランジスタラジオの模型を作る。私はそんな子どもだった。
買ってもらえないのなら、自分で金を稼げばいいではないか? どう考えてもほかに手立てはない。金を稼ぐ? どうやって?
そう考えてたどり着いたのが新聞配達である。俺は新聞少年になる! 当時、新聞配達は子どもの仕事だったのだ。
両親に
「新聞を配りたい」
と話を持ちかけた。どうしても欲しいものがあるので自分で働いて買う。
反対された記憶はないから、私の考えを両親はそっくり受け入れたらしい。ひょっとしたら、息子にそんな苦労をかけるのか、と忸怩たる思いを持ったかも知れないが、私は赦しを得てホッとするばかりで、両親の心の内を詮索した記憶はない。
当時、我が家が購読していたのは地元紙の西日本新聞である。だとすれば、この新聞の配達をするのが自然な流れである。新聞販売店に話してくれたのは、多分母だったろう。
「それがたい、いま空きのなか、っていいよらすとよ」
(それねえ、いまは空きがないというのよ)
思い詰めていた私は、のっけから障害にぶつかった。働き場所がない? トランジスタラジオは夢のまま終わるのか?
そんな時だった。我が家を朝日新聞の勧誘員が訪れた。
「いま何新聞を? ああ西日本ですか。朝日の方が良かですよ。替えてもらえませんか?」
その勧誘員に交換条件を持ちかけたのは父だったと思う。
「息子が新聞ば配りたかといいだしたったい。あんたんとこで使うてくれるんなら、朝日に替えたっちゃよかばい。どげんね?」
(息子が新聞を配りたいと言い出した。お宅の店で使ってくれるのなら朝日に替えてもいい。どうだろう?)
当時私は、朝日新聞より西日本新聞を好む子どもだった。地元意識が強かったわけではない。西日本の方が読みやすかったのだ。朝日は何だか難しい。えっ、うちの新聞が朝日になるの? それは嫌だなあ……。
と思っている私のそばで、大人同士の会話が続いた。
「ああ、そげんですか」
(ああ、そうですか
と父に向かって耐えた勧誘員の顔が私を向いた。
「僕、新聞ば配りたかとね。よかばい。うちの店に来んね。早か方が良かろ。いつからにすんね?」
(僕、新聞を配りたいのかね。いいよ、うちの店に来なさい。早い方がいいだろう。いつからにする?)
その販売員は、新聞販売店のひとつを任されている雇われ店主であった。自分の店で私を雇うという。こうして、読者としての私の西日本新聞への愛着は強制的に断ち切られた。朝日は私を雇用してもいいといっている。だとすれば、我が家の新聞が朝日に替わっても仕方がない。その条件を呑まなければトランジスタラジオが手に入らないのだから。
いま思えば、それが私と朝日新聞のファーストコンタクトだった。
無論、当時の私は、自分が朝日新聞の一員になるなど、爪の先ほども考えたこともない田舎の小学生であった。