05.28
私と朝日新聞 記者以前の8 ほびっとへ
私が通った大学は、最初の1年半を教養部で過ごし、2学年の後半から専門課程(私の場合は法学部)に進むシステムだった。そして私にも、専門課程に進む時期が近づいてきた。
弁護士になるには法律を勉強しなければならない。いよいよ受験勉強の始まりだ。というのに、私に迷いが生まれたのである。
いや、弁護士になることへの迷いではない。
「俺、このまま進んで、本当に法律の勉強に身を入れることができるか?」
という迷いである。
何しろ、入学して1年半、ほとんどまともな授業を受けたことがない。相変わらず本は読んでいたが、授業を中核にして予習、復習で知識を身につけていく勉強から離れて1年半近いのである。司法試験は天下の難関だと言われる。それなのに、そんな勉強の習慣が途絶えているのは不安材料である。
いや、不安だけならいずれは乗り越えなければならない。加えて私には、前回書いたように、弁護士という職業への小さな迷いもあった。迷いながら勉強に取り組めるか?
それに、自分では弱い人、貧しい人を支えるために弁護士になると思ってきたのだが、その気持ちはどこまで本物なのかにも確信が薄らいだ。
さらに、友人たちと議論をかわすなかで
「革命の主体は労働者である」
といわれ続け、学生でしかない私の中に労働者と呼ばれる人々へのコンプレックスが育っていた。いまから想えば笑い話に過ぎないが、革命は遠くないと想っていた(多分、思いたがっていた、というのが正しいといまは思う)私は、
「だったら、主体じゃない俺たち学生は何をしたらいいのよ?」
という問題を抱えていたのである。
なぜ、そんなことを思いついたのかは分からない。ある日突然、
「そうか、休学するという手があるわ」
と私は膝を打ったのである。
このまま専門課程に進んだら、まともに勉強に取り組めないのではないか。本当に弁護士という職業を選ぶのか。1年代学を離れれば、そんなことを考える時間が持てる。労働者コンプレックス? だったら、労働者になってみればいい。また、専門課程で勉強に取り組むとなればアルバイトの時間も惜しくなるだろう。その間の生活費を先に稼いでおくのもいいのではないか?
1年間の休学。私にはいいことずくめに思えた。大学の事務局で1年間休学の手続きをとった。
労働者になる。向かったのは下宿からほど近い運送会社だった。
「1年間、アルバイトではなく正社員として働きたい」
かなり無茶なお願いかも知れない。しかし、社長さんはなぜか受け入れてくれた。翌日から私はトラックの助手席に乗り、やがて2t車の運転手になって、福岡でロッテのガムやチョコレートの配送を始めた。
その年の夏に免許を取ったばかりである。自宅に車はなく、もちろん私も車なんて持っていない。だから、免許は取ったものの、運転経験はほとんどない。それが突然、2tトラックを運転する。常識で考えれば無茶だ。
無茶の結果はすぐに現れた。狭い道で左折しようとしたら、トラックのボディー左側が電柱に触れた。これはいかんとバックしたらゴツンと音がした。トラックのすぐ後ろにタクシーがいたのである。
配送先で荷下ろしを終え、トラックを発進させたら左にいたトラックに接触した。止める時にハンドルを左いっぱいに切っていたため、発進と同時にトラックは左折を始め、隣のトラックにぶつかったのである。
ま、こんな失敗は数えれば限りない。私はとんでもない人生の過ごし方をしてきたと自分でもあきれるほかない。
だが、1年休学してトラックの運転手になっていなければ、私は新聞記者にはなっていない。人生は何が起きるか分からないから面白いのだろう。
きっかけのきっかけのきっかけ、とでもいうものをもたらしたのは、仕事で毎日通っていたロッテ福岡支店に務めていた女性だった。私より5つほど年上で、何かと私を可愛がってくれた。もっとも、男としての私を可愛がったのではなく、弟みたいに想ってくれていたらしい。
その彼女が結婚した。相手は、私が務めていた運送会社の運転手である。Yさんという。私と同じようにロッテの荷物を運んでおり、いつの間にか、2人がくっついたらしい。このYさんもなぜか私を可愛がってくれた。仕事が終わると酒に連れだし、私の知らない世界を沢山見せてくれた(除く:女性)。いい男であった。
そして、くだんの女性はぽっちゃり型で目はあくまでも細く、お世辞にも美人とは言えなかった。素敵だったのは人間性である。Yさんは彼女の外見ではなく、中身に惚れたのだ。私のYさんへの評価が一段と跳ね上がった。
そんな2人の結婚。私は嬉しかった。
やがて1年が過ぎ、私は大学に戻った。1年間教室から遠ざかっていたためだろうか、何となく
「勉強しなくちゃ!」
という気分になっていた。やはり目指すの弁護士だ。他の道はありえない。慣れない法律専門書を読み出した。あれこれあった迷いはどこかに消えていた。このあたりは私の単純さの現れである。読んでも読んでも、法律書は面白くない。ちっとも心が躍らない。しかし、それが勉強なんだろう。
金はあまり貯まらなかった。少し金にゆとりが出来て、ロッテで知り合った女の子たちに馳走したり、たまに友人と酒をのみんでるようになったためだ。あ、ロッテの女の子たちに悪戯はしていないので、念の為。何も、私の人間性が人並み優れていたわけではない。悪戯をしたくなる女性がいなかっただけである。
労働者と同じ暮らし方をしてみて、労働者コンプレックスは消えた。私とちっとも変わらない人たちが運送会社でもロッテでも働いていた。ん、革命ね。いつ来るのかな?
憲法、民法、刑法、刑事訴訟法、会社法……。授業には真面目に出た。
翌年の3月、私は大阪に引っ越したYさん夫婦を訪ねた。何でも、夫婦間で問題が起き、私に話を聞いて欲しいといってきたのは彼女の方だった。私が話を聞いても出来ることはまずないと思うが、まあ、いいか。大阪っていったことないし、大阪見物でもしてくるか。
福岡のベ平連事務所に顔を出し、
「今度、大阪に行くんだわ」
と何気なく話した。
「あ、いいね、大道君。どれくらい?」
「1週間ぐらいかな」
「だったらさ」
と私に話を持ちかけたのは、たしか同じ大学で工学部にいるK君だったと想う。
「帰りでいいから、岩国のほびっとに寄ってちょっと汗を流してきてくれないかな」
「ほびっと」。ひょっとしたらご記憶の方もあるかもしれない。ベ平連が岩国市に作った喫茶店である。
岩国には米軍の海兵隊航空基地がある。ベトナム戦争に嫌気がさした米兵がここから脱走している。その脱走兵の手助けしてベトナムに平和をもたらそうというのが「ほびっと」開店の狙いだった。
「いいけど、何するの?」
脱走米兵を法律的にサポートするため、近々アメリカから弁護士が来ることになっている。妻帯者で、2人でほびっとに住み込むことになっている。
「それでね、あいつらさ、ところ構わずあれをやっちゃうんだって。だから奴らの部屋を作らないと目の前で『くんずほづれつ』をやられることになるから、壁を作って奴らの部屋を1室新作るんだと。その手伝いさ」
「ということは大工?」
「そうそう」
ま、いいか。アルバイトで大工の手伝いもしたことはあるし(あの時は、古釘を踏み抜いてエライ目に遭ったが)。
大阪ではやはり私は役に立たなかった。
「2人は離婚しちゃうのかなあ……」
と想いながら国鉄大阪駅で岩国行きの汽車を探していた私に、突然声をかけてきた男がいた。
「あんさん、どこ生きはりまんねん?」
ボサボサのロングヘアーにサングラス。米軍払い下げのようなジャンパーを着て、下はGパン。サングラスを除けば私と同じような格好だ。年もそれほど離れてはいない。
だが、である。もう夜だ。サングラスってありか? それに、こんなところで突然声をかけてくるなんて、こいつ、何だ? 俺にたかろうってか? たかられるほどの金は持ってないぞ!
「これから岩国まで行くんだが」
「ほなら、私も一緒に行ってよろしいか?」
いや、よろしいかと言われても困るし、やや気持ちも悪い。だが、が拒否する理由も思いつかない。拒否したところで、勝手に同じ列車に乗り込まれたら結果は同じである。
「それなら」
確か缶ビールか何かを飲みながら、2人で夜汽車の客となった。初対面だが、顔を突き合わせていれば自然に会話も生まれる。
「僕は大道というんだけど、あなたは?」
「マヤリモのドン、いうんですわ」
はあ? それ、名前?
「もう夜だけど、サングラスがいるのかなあ」
「わて、目が悪いんですわ。もうすぐ失明します。だから、少しでも見えるうちに日本を見ておきたくて旅してるんです」
ああ、そうだったのか。それは気が付かなかった。うん、悪い奴ではなさそうだ。
「でも、なんで私に声をかけてきたの?」
「目が良く見えんでっしゃろ。だから1人旅はやや怖いんですわ。だから、あちこちで連れになってくれる人を探しながらの旅ですわ。でも、背広着てはる人たちはみんな嘘つきや。あんさんはわてと同じような格好だったんで、あ、この人だったら信用できる、想いましてな」
そんな会話を交わしながら、私たちは岩国に向かった。
そして到着した岩国のほびっとでの出来事が、私を朝日新聞に結びつけることになる。もちろん、マヤリモのドンと夜汽車の旅をし、すっかり打ち解けた当時の私が、そんな先のことを知るよしもなかった。