06.30
私と朝日新聞 津支局の17 恥ずかしいキャンペーン
いま横浜に来ている。この連載の参考にしようと昔の切り抜きを引っ張り出した。私が記者として初めて書いた記事が出てきた。日付は1974年9月7日。記者になって4日目だ。
乗用車とバイク衝突
7日午後1時15分ごろ、津市長岡町の津公園西団地内の十字路で、バイクの同市広明町、滋賀大1年A(19)と同市白塚、建築技師〇〇〇〇さん(25)運転の乗用車が出会い頭に衝突した。このため、Aは、頭の骨などを折って重体。
津署の調べでは、双方が見通しの悪い十字路で十分注意しなかったのが原因らしい。Aは無免許だった。
わずか150字程度の文章である。どこといって工夫を要する文章でもない。それなにのに、私の筆跡が残ったのは固有名詞だけ!
あのときの屈辱を再び思い出してしまった。
三重県警担当といえば、もう一つ忘れられないことがある。
その年、なぜか三重県で交通事故死が増えた。それを見た支局長が
「大道、交通事故を減らすキャンペーンをやれ」
と私に命じた。
その日その日の記事はなんとか書けるようになっていた私だが、キャンペーン? それって、何を、どんな風に書いたらいいの?
全く見当がつかない。とはいえ、支局で支局長の命令は絶対である。何しろ、線路のボルト抜き事件で
「荷物をまとめて帰れ!」
と私に言い放った支局長なのである。ここは
「わかりました」
というしかない。
わかりました、と口にはしたが、実は全くわかっていない。どうすればいい?
数日後、私は名古屋本社の調査部を訪ねた。新聞が展開するキャンペーンのモデルを探すためだ。親切なお姉さんが私の話を聞いてくれ、
「だったら、これを読んでみなさい」
と取り出した連載記事があった。名古屋社会部が手がけ、日本ジャーナリスト会議賞を受賞した「企業都市」である。トヨタ自動車の城下町である豊田市(その前は挙母=ころも=町だった)を綿密に取材した中身の濃い連載だ。コピーをとってもらい、津に戻る近鉄電車で読みながら、
「これは大変なことになった!」
とため息をついた。読めば読むほど素晴らしさがしみこんでくる記事ばかりである。私に、こんなに優れた取材、執筆ができるはずがないではないか!
だが、わかりましたといった以上、キャンペーンは始めなければならない。過去の事故の分析を試み、交通事故問題、交通政策を取り上げた本を読み、県警交通部、道路を管理する県、市の担当者に話を聞き、ついには警察庁科学警察研究所にまで取材の足を伸ばした。そうして17回の連載「なくせ交通死」を書き上げた。
三重県の交通事故の現状から始め、シートベルトの着用率、飲酒運転がなくならない社会事情、安全と利便性の相克、安全が確保されないスクールゾーン……。私のキャンペーン記事は毎週日曜日の紙面を飾った。1回ざっと120行。当時は1行15字だから約1800字である。16回目は県知事、津市長、県警本部長の3人にそれぞれの立場からの交通事故対策を聞いた。
そこまでは何とかなった。いま思い出しても赤面するのは最終回の第17回である。
それまで16回にわたって交通事故をなくすための規制のあり方、中央分離帯を作る必要性、飲酒運転の危険性など思いつくことをほとんど書いてきた。最終回はそのまとめである。何を書こう? と思案したあげく、書くことができたのは
「なくせない交通死」
でしかなかったからだ。
やや恥ずかしいが、その記事をここに転載する。日本語に乱れがあるが、当時の支局長、デスクの日本語能力の限界と思って読み飛ばしていただきたい。
いつの日か 悲劇の終幕
交通事故の問題を考え始めると、ほとんどが絶望的になる。「環境の整備や警官の増強など、思い切った投資をすれば、死者をピーク時の4割までは減らせる。あとは教育だ。でも、どうしても救いようのないのが1,2割は残るわね」ーこのシリーズの取材で、いろいろの人に会って話を聞いたが、愛知県警交通部のある幹部がこう語ったことが、強く印象に残っている。19世紀末に発明されて順調に育ってきた自動車は、「車社会」と言われるように今日の社会の仕組みを大きく変えた。しかし、もたらす繁栄の裏に交通事故、環境破壊、資源浪費などがいま、大きな社会問題になっている。
日本の車産業は輸出の花形。外貨をかせぎまくって経済の高度成長を支えてきた。政府も、戦略産業として車メーカーを“過保護”に育ててきた一面がある。交通評論家の玉井義臣さんによるとこうだ。「たくさん売るためには、ユーザーにとって安いことが必要だ。国がずいぶん協力してますよ。例えば強制保険。西ドイツでは保険金が年間15万円、フランスでも10万円です。ところが日本の場合は2万円ほど。ユーザーはその分だけ安く車が買える。逆に、その分だけ人の命が安く見積もられているわけです」
速度でもそうだ。一般道路の最高速度は60キロ。高速道路でも100キロ。だが、どこでどう走るのか150キロ、180キロと、とてつもないスピードが出る車が多い。100キロ以上は出ないようにしろという法律はない。「そのスピードが死を招く」。だが、高速性能はメーカーにとって重要な商品価値だ。
目まぐるしいほどのモデルチェンジ、次々と生まれる新型車、豪華さやスポーツ性を競うPR……。メーカーはあの手この手で車を売り込む。排ガス規制が適用される直前、ある大メーカーが未対策車を大幅な値引きで駆け込み乱売したのは有名だ。そして、車が道路から人間を追い出した。それなら買わなければいい。が、「仕事に必要」という以上に、「車が好きだ。運転は楽しい」というドライバーがほとんどである限り、それも机上の空論だ。
このシリーズではじめ交通事故の悲惨さを探った。取材前、「交通遺児や事故の被害者に会えば、そうした話がたっぷり聞ける」と思った。ところが、探しても探しても、そういう人は見つからない。「車は便利だし、私も乗っています」「いま車がなくなったらどうなります。車をうらんではいません」という遺児。事故でせき髄、けい随をやられて全身が動かず、動ける見込みもないという男性(23)も「もう絶対に無理やけどさ、それでももしできるんやったらもう一度車に乗りたい」と言った。車社会はこれほど根を深く下ろしている。
メーカーの売らんかな主義が幅をきかせ、政府がそれを援助し、消費者が乗っかる。こういう図式で車が増え、同時に事故も増えるのなら、少なくとも事故を減らすための環境整備が必要だ。しかし、これまでの道路行政は産業優先、車優先だった。例えば、南勢バイパスも伊勢湾沿岸の産業開発がねらい。安全よりも、まず車を走らせよう、なのである。もともと車用には造られていなかった我が国の道路に、戦後爆発的に車が増え、それを追いかけるようにして造られた道路が安全無視。遅ればせながらの安全施設への投資も、特に三重県は不十分。とすれば、事故が多発するのは、ある意味では当然といえる。
取材の中で、宇治山田商高の安全指導が印象的だった。「無謀運転と非行は同じ根から出たもの。安全運転の必要性を100万べん唱えるより、その根を掘り起こさなければ安全を身につけたドライバーはつくれない」。乗せない、買わない、取らせない、という3ない主義はとらない。必要のある生徒は乗せる。乗せる以上は生活の基本から指導して安全なドライバーを育てる、という教育方針は、安全教育の必要性を説きながら、実は「ルールを守ろう」と繰り返すだけの行政の対応より、よほど説得力がある。もちろん、否応なくふくらみ続ける車社会では、これも根本的な解決にはならないだろう。だが、好ましい方向への1つの芽ではあると思う。
育ち盛りの子供が交通事故で手や足を切断した。ところが、切断したところから骨だけが伸びる。伸びると邪魔だから、年1回、手術をして切り取る。これが成長が止まるまで続く。ある病院で聞いた悲惨な話である。この悲劇の終了はいつになるのか。分厚くなった取材ノートを読み返すと、「なくせない交通死」のデータばかりが目についた。
いかがだろう。大変にお恥ずかしい文章をお目にかけた。データを示さないままでの断定、おかしな言葉遣い、視野狭窄、思考不足がてんこ盛りの文章である。多分このころ、私は入社3年目。それでもこの程度の文章しか書けていない。
私は成長の遅い記者であったようだ。