2023
07.14

私と朝日新聞 岐阜支局の8 徳山ダム—増山たづ子さんのこと

らかす日誌

私の岐阜時代を書くのなら、徳山ダを避けては通れない。何しろ、岐阜への転勤が決まった後、「砦に拠る」(松下竜一著)を購入し、熟読した私である。すっかり感銘して「豆腐屋の四季」「風成の女たち」など松下さんの本を次々と読み、ついには全集まで勝ってしまった私である。
そして想定通り、私は「徳山ダム」の担当になった。私は、徳山村の室原知幸を探さねばならない。

ところが、私が徳山ダムを書いた記事の切り抜きが見付からない。そんなはずはないと思うのだが、見付からないものは仕方がない。あまり頼りにならなくなった記憶に頼るしかない。

岐阜県揖斐郡徳山村。揖斐川の最上流部で、お隣はもう富山県である。この地に日本最大の貯水量を持つダムを建設する計画が姿を現したのは1976年のことだ。ダムができれば、徳山村はすっぽりと水底に沈む。無論、村を挙げての反対運動が起きた。

その程度の知識を仕入れると、私は徳山村を目指した。私の担当である。現地を知らねば記事の書きようがない。

「あのね、ここに行ったらいい」

とアドバイスを暮れたのは松下下デスクだった。

「徳山村の戸入というところで、増山たづ子さんというおばあちゃんが民宿をやっている。そこに泊まって取材をすればいい」

徳山村までは、揖斐川沿いの道をたどって、確か3時間ほどかかった。当時の愛車は、ある取材先に煽られてフォルクスワーゲン・ビートルになっていた。空冷エンジン独特のバタバタという音を振りまきながら、一路徳山村に向かう。
突然、看板が現れた。

「熊に注意」

へえ、このあたり、熊が出るんだ。だけどさ、熊に注意といったって、どう注意すればいいんだ? いま目の前に熊が現れたら、アクセルを踏めってか、それとも踏むのはブレーキか。止まった車の中で熊が立ち去るのを待つ? そこまで書いてくれなきゃ不親切ではないか。

などと考えながら徳山村めがけてひた走る。

増山さんが営む民宿は藁葺き屋根の古い家だった。庭先まで車を乗り入れる。増山さんはニコニコしながら近づいてくると

「いらっしゃい。可愛らしい車だな」

といった。その一言で、初対面だという緊張がスッと消えた。まるで10年も前からの知り合いか、あるいは血のつながった祖母のような気がした。増山たづ子さんは人の心をふっと和らげる名人だった。以来、私は増山さんとすっかり仲良しになる。

何度も徳山村に通った。そのたびに増山さんの民宿に泊めてもらった。

「ああ、今日はな、隣の〇〇さんが川でマスを捕まえてきたから、囲炉裏で焼くわ。美味いよー」

昔話も聞いた。

「うらの旦那さんは戦争にとられてな。まだ帰って来ん。でもな、きっと帰ってくると信じとる。だからうらは、この村を出て行けん。旦那さんが帰ってきた時、うらがここで、この家で待っていなかったら困らっしゃるからな」

大量の写真が出て来た。1枚1枚見る。徳山村の人たちが四角い枠の中に収まっている。こちらを見る目はみんな笑っている。

「これ、どうしたの?」

と聞くと、

「ああ、この村もダムに沈むんだろ。だったら、せめて写真ぐらい残しておかんと、寂しいやろ。だからな、いらが自分のカメラで撮っとるんよ」

と、バカチョンカメラを見せられた。それにしても膨大な数の写真である。

「これ、何枚ぐらいあるの?」

「そうやなあ。3万枚にはならんやろうが、2万枚は超えとるな」

ダムに沈む村の人々を1人のおばあちゃんが撮り続けた2万枚以上の写真。これはニュースである。
私は力を込めて記事を書いた。増山さんの昔話。カメラを手にしたきっかけ。そして、小学校の運動会を撮った時の思い出。村祭り。何より、増山さんが撮った被写体は運動会や村祭りに興じる人だけでなく、これから畑仕事に出かける人も、家の手入れをしている人もみんな笑っていること。写す人と写される人の間に深いつながりがなければ、こんな笑顔は撮れないこと。これから湖底に沈む村に、それでも笑顔が溢れていること……。

社会面のトップ記事になった。
それがきっかけだった。増山さんが急に有名人になったのである。こんなストーリーが大好きな文化人が全国に溢れているらしい。あ、きっかけの記事を書いた私も、その1人かもしれないが……。

「写真展を開きたい」

という申し出が全国から相次いだ。増山さんは

「1人でも多くの人に徳山ダムを知ってもらえるのならありがたいことで」

と律儀に付き合った。
増山さんの写真集が何冊も出た。確か、テレビにも出演した。とうとう、東京・六本木で写真展が開かれた。

それでも、村に行くといつもと同じように私を迎えてくれる。

「あのなあ、わなに熊が引っかかってな。あんた、熊の肉、食くったことあるかい? 食べたきゃおいで」

という電話をもらって

「うん、行く!」

と徳山村まで車を走らせた。

支局の3,4人で家族連れの徳山旅行をしたこともある。宿泊先はもちろん、増山さんの民宿である。
囲炉裏を囲んでイワナの塩焼きを頬ばり、酒を流し込む。酔いが回ると誰かが歌い、誰かが立ち上がって下手な踊りを始める。乱痴気騒ぎを続ける私たちのそばで、増山さんはニコニコ笑っている。

この時の話は、「グルメに行くばい 第8回 山里の味」でも書いた。愛車フォルクスワーゲン・ビートルと私の子どもたち(4人写っていて、そのうちの2人)写真、乱痴気騒ぎの写真もついている。あわせてお読み頂きたい。

その後増山さんの写真はさらに増えて10万枚を超したそうだ。その中にはあの乱痴気騒ぎも、増山さんにいわれてビートルの前でポーズをとった私の写真もあるはずである。

89歳を目前にした2006年3月、増山さんは心筋梗塞で亡くなった。すでに徳山村は1987年に消滅し、村は湖底に沈んだ。増山さんは岐阜市に建設された代替住宅で西方浄土に旅立った。戦地から帰ってくるご主人を徳山の家で迎える願いは、とうとう果たされないままだった。いや、あちらの国でご主人と再会を果たしたのかもしれない。

増山さんが亡くなった時、私は東京勤務だった。お焼香に行きたいが、容易に行ける距離ではない。
四日市に住む長女一家を訪ねることになり、そのついでに岐阜に回って仏前で手を合わせたのは、さて、いつのことだったか。仏壇に、相変わらずニコニコと可愛らしい笑顔で増山さんはいたが、声はかけてもらえなかった。六本木での写真展に家族連れで出かけ、何年かぶりに言葉を交わしたのが最後になった。

いまでも時折徳山村を、野獣の臭いがした熊の肉を、炉端での乱痴気騒ぎを、増山さんの笑顔を思い出す。あの増山さんの藁葺き屋根の民宿は、いまでも徳山ダムの湖底で、あの頃と同じ姿で立ち続けているのだろうか。

おかしなことになった。この原稿をアップしようと思っていたら、見付からなかったこの時期のスクラップが突然姿を現した。妻女殿が保管されていた。開いてみると、「増山たづ子さんをしのぶ会」の案内が挟み込まれていた。恐らく、私以上に増山さんに心酔していた妻女殿が、増山さんをしのぶよすがとして手元に置いていたのだろう。

スクラップが見付かったのはいいのだが、「おかしなこと」はそのために発生した。ないのである。私が書いたと信じ込んでいた、カメラおばあちゃん、増山たづ子さんの記事がない!
代わりにあったのは、徳山村の方言、祭。民謡などを録音し続ける増山さんを書いた記事だった。写真の話はどこにも出てこない。おかしい。

増山さんが徳山村の人々を写真に撮りまくっていたことは事実である。その写真が多くの人の何かに訴えかけ、全国で写真展が開かれたのも事実である。

遠い記憶を呼び覚ましてみた。写真の話は確かに朝日新聞に掲載された。しかし、私が書かなかったとすれば……。

薄らとした記憶が蘇った。私が書いた録音テープの話に刺激されて、確か名古屋社会部の記者が増山さんを取材した。その結果、この写真の記事が生まれたのではなかったか。それを読んだ私は、

「これも私が書きたかった!」

とほぞを噛んだのではなかったか……。

とすれば、どこかで私の記憶が入れ違ったことになる。録音テープでは展覧会は開けない。写真なら多くの人に見てもらうことができる。だから、増山さんブームを引き起こしたのは写真の記事である。いつしか、その手柄を自分のものと思い込んでしまった……。

記憶の頼りなさに唖然とした。そして、「朝日新聞と私」と題した連載は、多くは私の記憶に頼って書くことになる。ひょっとしたら、これからも記憶間違いがあるかもしれない。お許し頂きたい。

折角の機会である。増山さんが集めた徳山村の方言を、ここに再録することにする。

「ここがなくなってしまうんじゃでな。故郷は大切に思っとるの。あとで聴いたら懐かしいじゃろ。死んでも、テープは残るしな……」

「それでな、村のいろんなものを残しておくわけ。役場さんもやらんし、沈んでまってからじゃあ、遅いもんな。新しいとこ行ったら、時々村の衆集めて聴くのよ。懐かしいでな」

「目についたものは大体録音したな」

「みょうにゃ(来年は)ダムになるっていうしなにな(いってる間に)、21年にもなるんじゃーが、いら(私)の同い年の衆が3人も死んだの」

「あの衆はダムができたら、あんごするんじゃ、こんごするんじゃって、やりたいこともやらんかったけどの」

「こんな思いすんのはいらら(私たち)だけでもうええの」

以上、私の書いた記事から転載した。