2023
07.15

私と朝日新聞 岐阜支局の9 徳山ダム問題で予期せぬ特ダネを書いたこと

らかす日誌

私は、徳山ダム問題の長い歴史の中の、たった1年しか担当していない。その1年の間に、徳山村はダム建設同意へ舵を切った。増山たづ子さんをふくむ徳山村の方々には辛い決断だったに違いない。しかし、記者としては歴史を刻む1場面に立ち合うという幸運を得た。

徳山村が、水資源開発公団の保証基準提示を受ける、と決めたのは1978年9月1日のことだった。1957年にダム建設計画が持ち上がって21年、村は保証基準の提示を拒んできた。提示を受け入れれば、あとは全村が水没することを前提とした条件交渉にならざるを得ないからだ。

しかし、21年という時間は長い。室原知幸さんが率いた蜂の巣城紛争のような騒ぎは徳山村では起きなかったが。当初は

「先祖代々住み続けてきた村を水底に沈めてなるものか」

と反発した。しかし、水資源開発公団は着々と準備を進める。

「お上がやることを押しとどめることができるか?」

という思いは年々募る。やがて、村から未来が消えた。どうせ水の底になるのなら、先に向けた計画なんてたてられない。何をやっても無駄、無駄、無駄……。

村でヤマイモががなかなか掘れなくなった。自然に育ったヤマイモは少し山に入ればいくらでもあったのに、小1時間も山に入らなければ見付からなくなった。

「ヤマイモは根の首の部分を埋め戻しておけばまた育つのに、埋め戻す人がいなくなったんだわ」

とはある村人から聞いた話である。

山肌が荒れた。木を切ったあとの植林もしなくなったのである。かつては巨木が立ち並んでいたのに、低い雑木が覆うだけになった。

そして、1人去り、2人去り、と村から人が消えた。

もう村を維持するのは無理である。だったら、保証金をもらって村を出るしかないではないか。21年の間にそんな意見が多数派を占めるようになったのである。

この歴史の秒針を私は取材した。9月1日、村のダム対策委員会が保証基準の提示を受けると決めた。

「補償額が低ければ反対を貫く」

という但し書きがついたが、公団が敷いたレールに乗ったのである。乗った以上、できるのはブレーキの調整程度しかない。要は条件闘争である。この記事は1面トップになった。

さて、徳山村の姿勢が決まった。次にやって来るのは保証基準の提示を受けることだ。取材を続けていた私は9月14日、小さな記事を書いた。

「徳山ダム 保証基準は18日に提示」

という21行の記事である。ほかの新聞にはなかった。しかし、こんなに小さく扱われる記事を「特ダネ」とは呼ばない。「独自ダネ」という。

徳山村が初めて、水資源開発公団がどの程度の保証を考えているかを知る。村のこれからを知るにも、水資源開発公団、ひいては、1つの村をまるまる水底に沈めてまでダムを造ろうという国の姿勢を知るためにも、必ず取材して報道しなければならないニュースである。

私は「独自ダネ」で予告した。当然、他社の記者も、自分では基準提示の日を取材していないが私の記事を読み、18日は徳山村で保証基準の提示を取材し、報じるはずだと思った。あの「独自ダネ」を書かなければ、保証基準の提示は、ひょっとしたら私の「特ダネ」になったのかも知れない。しかし、そんな細かいことを気にしてどうする? 全国民に知ってもらいたい話なら、すべての新聞、テレビが報じた方がいいではないか。

私は前日の17日、今回も増山さんの民宿にお世話になった。そして18日、基準提示顔行われる集会所に行くと、記者の姿が1人も見えない。現場に発っている記者は私だけである。

「おかしいな。みんな遅れているのかな? それとも道が通行止めになった?」

怪訝に思ったが、他社の動向まで差配する力は私にはない。粛々と取材するだけである。

翌19日の朝日新聞朝刊は、徳山ダムで埋まったといってもいい。1面に

「徳山ダム 水没保証基準を提示 「移住先」より低減 来月にも交渉開始 徳山村側は不満」

という大きな見出しで、

 水資源開発公団は18日、全国最大のロックフィルダム「徳山ダム」の建設予定地である岐阜県揖斐郡徳山村のダム対策委員会に、水没に伴う損失補償基準を提示した。村は今後、内容を検討して早ければ10月にも具体的な交渉に入る意向。これにより、計画以来21年、「幻のダム」と呼ばれた徳山ダムの計画は、着工に向けて動き出した。しかし、基準の内容は宅地価格が集団移住候補地の譲渡価格より低いなどの問題も含んでおり、「保証基準妥結のときがダム建設同意のとき」としている村と公団との交渉は、相当難航することが予想される。

という書き出しの長文の記事、社会面には

「保証提示の徳山ダム計画 未解決の問題山積 村民の移住先、再就職……」

という見出しの解説が載った。どちらも切り抜いているから、私が書いたのである。
そして、ほかの新聞には1行も記事がなかった。そりゃあそうだ。取材に来ていないんだから記事が書けるわけがない。私は意図せざる「特ダネ」を書いてしまったことになる。

しかし、である。読売も毎日もサンケイも日経も、それに地元の岐阜新聞も、水没する村に初めて保証基準が示されるのをニュースだとは考えなかったのか? 読者に知って欲しいとは思わなかったのか?
いや、これはどう考えてもニュースである。だから朝日新聞は大きく紙面をさいて載せたのである。

民主主義とは数の論理である、といわれることがある。1人でも数が多い方が「勝ち」で「正しく」て「正義」である。とすればこの話をニュースと考えた私は「負け」で「誤り」で「不正義」だったのか?
多数決原理は、勝敗や正・不正とは関係ないらしい。

いずれにしろ徳山ダムは2000年に本体工事が始まり、2006年に完成した。供用が開始されたのは2008年9月である。そして、繰り返しなるが徳山のおばあちゃん、増山たづ子さんは2006年3月7日にこの世を去った。