08.03
私と朝日新聞 岐阜支局の28 私は岐阜が大好きでした。
「松本さんから電話があったわよ」
夜10時半頃帰宅すると、妻女殿がそういった。1978年の暮れか79年はじめのことである。
松本さん? つい5分か10分前まで、支局で松本デスクと一緒だったんだがな。おかしいな、何か緊急に伝えておかねばならないことを言い忘れていたのかな?
「電話番号を書いて電話機のところに置いておいたから」
電話番号? 支局の電話番号は頭の中に入っている。わざわざ書き留めておくまでもない。ますます不思議である。
そのメモを見た。052で始まっている。これは名古屋の市外局番だ。
「名古屋に知り合いなんかいないはずだが……」
いぶかりながらダイヤルを回した。
「松本ですが」
聞き慣れない声が受話器から流れた。いや、ひょっとしたらどこかで聞いたことがあるかも。
「大道と申します。お電話を頂いたようですが、申しわけありません、どちらの松本さんでしょうか?」
「経済部長の松本です」
!!
経済部長が岐阜支局員である私の自宅に直接伝をしてくる。いったい何事が起きたのか? そうか、ひょっとしたらどこかで聞いたかもしれないと思ったのは、しばらく前の通信会議で話したことがあったからか。
「どういうご用件でしょうか?」
まず、それを聞かねば話は始まらない。
「大道君、経済部に来ないか」
!!!
私が経済部に?
「君がウンと言ってくれれば、僕が責任を持って君を経済部員にする」
ちょ、ちょっと待って下さい。私は経済部なんて考えたこともありません。岐阜県庁の記者クラブに経済統計、企業関係の報道資料が投げ込まれると、面倒くさいし書きたくもないので、いつも経済部に送っています。そもそも私は法学部を出ており、経済のことはちっとも分かりません。マルクス経済学ならいくらか本も読みましたが、近代経済学となるとからきしちんぷんかんぷんです。そんな私が経済部で務まるとは思えません。何故私が経済部なんですか?
言葉を尽くして、私は適任ではないと訴えた。私の人生プランでは、私は社会部に行き、教育担当への道を歩き、いつかは「いま学校で」のライターの一員になるのである。企業のお先棒担ぎのような記事は書きたくない。
「実はね、僕がほしいのは事件に強い記者なんだ。経済部というとパイプを咥えて経済政策なんぞを口角泡を飛ばして議論している集団のように思われているし、そんな経済部員がいることも確かだが、経済のニュースって事件なんだよ。いい経済面をつくるには、事件に強い記者が必要なんだ。だから、君が欲しい。どうだろう、経済部に来てくれないか」
とんでもないことになってきた。私が事件に強い? ご冗談でしょ。事件の取材は嫌いだし、岐阜でやって来たのは、自分で面白いと思うことを書いてきただけである。そもそも、岐阜では事件取材などしていないのに、どうして私が事件に強いなどと。それにしても、私の仕事ぶりを高く評価してくれる人もいたんだ!
「まあ、いい。考えてくれ。そして、結論が出たら、私に電話をくれ。そうだな、夜の8時すぎなら自宅にいるから、この番号にに電話をして貰えばいい。じゃあ、よろしく」
いってみれば、これはスカウトである。愛知、三重、岐阜の支局員の中から私を見出していただいたことは名誉である。
しかし、だ。よりによって経済部?
「大道さんね、名古屋本社に行った時、経済部の人たちを見たでしょう。みんな高そうななスーツを着ていて、ネクタイもいかにも高級そうですよね。僕たちにはとても買えません。あれはみんな、取材先の企業に貰ってるんです。スーツもシャツもネクタイも靴も、自分で買う必要がないくらい貰うんですよ、経済部の人たちは。けしからんでしょう?!」
そんな話をしていたのは、「子ども見つけた」でチームを組んだ松田さんだった。なるほど、そんな目で名古屋本社編集局内を見回したことはなかったが、経済部とはそんなところなのか、そんな企業と癒着した部が朝日新聞にあっていいのか?
経済部にはその程度の認識しかなかった。
それに、学生時代に多少関わった学生運動では、企業は社会悪だった。企業をつぶせ、資本主義を倒せ、とみんなで議論したものだ。
それなのに、経済部? 困った、実に困った。考えたがまたっく結論が見えない。だが、部長さんから声をかけられたのだ。何らかの返事をしなければならない。どうする?
1ヵ月ほど考え続けた。だが、一向に光明が見えない。困った時は、信頼できる人に相談するに限る。ある日、私は松本デスクに、支局近くの喫茶店までご足労願った。相談したいことがある、とお願いしたのだ。
「実は1ヶ月ほど前、松本経済部長から自宅に電話を貰いました。経済部に来ないかというんです。ご存知の通り、私は社会部に行って教育担当になりたい。経済部なんて考えたこともありません。しかし、部長から直々に電話を貰ってしまって、迷っているんです。どうしたらいいと思いますか?」
松本デスクはしばし腕組みして考え込んだ。やがて口が開いた。
「大道君、高く売れる時に売っておいた方がいいと思うよ。君は経済部長に高く評価された。だったら、その誘いに乗った方がいいと思う」
予想外のアドバイスだった。高く売れる時に売ったがいい? 松本デスクからは
「僕もいつまでも岐阜にいるわけじゃあない。いずれは社会部に戻るはずだ。君も社会部に行って、また僕と仕事をしようよ」
という言葉を、私は期待していたような記憶がある。その言葉をテコに、経済部長の申し出を断ろうと。
「僕はね、こう思うんだ。どのセクションに行っても、朝日新聞の記者としてやらなきゃならないことはみんな同じ、だってね。ほら、僕たちは、総合点でプラスになる記事を書こうって話し合っただろ? 世の中を悪くするようなマイナスの記事は絶対書かない。社業として紙面を埋めなければならないのでの+−ゼロの記事は書く。そうしながら、社会をより良くするプラスの記事を書き続けようってね。それは社会部も経済部も同じはずだ。行けよ、君、経済部へ」
そのアドバイスで、揺れ動いていた考えが固まった。名古屋の松本部長に電話をした。
「ありがとう。あとは任せてくれ。ただ、人事が発表されるまでは、黙っていてほしい」
といわれた。
4月になって、人事異動が発表された。私は名古屋経済部員になると書いてあった。
それから、異動の準備に追われた。
私が新聞記者という仕事を選んだ理由の1つに、服装が自由である、ということがあった。どうせブン屋なのである。スーツにネクタイなんて必要ない。私は岐阜県知事にインタビューするために知事室に入る時も、冬場はセーター、夏場はポロシャツか、その上にサファリジャケットを羽織るぐらいだった。スーツとネクタイで身をかためたことは1度もない。
記者風を吹かせて粋がっていたとも言える。あるいは、世の中への抵抗の姿勢を服装で表現しようとしていたとも解釈できる。ひょっとしたら、若気の至り、思い上がりだったのかもしれない。だけど、服装で人の本質が変わるか?
そのいずれでもいいが、だから私はスーツの持ち合わせがなかった。結婚した時、金がない私を憐れんだのか、妻女殿の父がスーツを1着仕立ててくれた。西日本鉄道時代に来ていたスーツは安物で、もう廃棄処分されている。
ところが、経済部というところは、スーツにネクタイがユニフォームらしい。そうえいば、ネクタイだって何本あったか。日常、全く使わないのだから、買い足すはずもないのである。
岐阜の高島屋に行って、スーツを3着買った。高島屋がピエール・カルダンもライセンスを受けて作っていた、いわゆる高島屋カルダンである。私は、カルダンのスーツデザインが好きだった。胸は絞る。肋骨が終わったあたりからふわりと膨らませセル。丈は長めだ。ネクタイも、確か2本買った。そうそう、スーツで履ける皮靴も1足もなかった。これも買った。面白いように金に羽が生えて飛んでいった。
「大道君、おめでとう」
とネクタイをプレゼントしてくれた支局の先輩がいた。
「これから君にはネクタイは必需品だ。それに、ネクタイをしない君は知らないかもしれないが、ネクタイって寒暖の調整が出来るんだぜ。寒い時はきちっと締めればいい。暑ければ結び目を緩めて風を入れるんだ」
ネクタイ嫌いを公言していた私への、先輩の心遣いだった。小竹さんといった。
ここで1つお断りをしておく。経済部員となった私に、スーツをプレゼントしてくれた企業は1社もなかった。ネクタイは数人に頂いた。靴? そんなものをくれた企業は皆無である。経済部員で安物のスーツを着ている人は結構いた。
あの松田さんが、そういう目で経済部を見ていた。朝日新聞のような組織でも、部門間のコミュニケーションはその程度のものである。
しかし、である。私は岐阜という町が心から気に入っていた。まず都会である。日常生活に何の不便もない。それなのに、自然が豊かだ。長良川沿いの我が家からは長良川と金華山を望むことができた。
休日、2人の子どもを連れて金華山に登った。金華山にはいくつもの登り道があるが、その日選んだのは、急峻な道だった。途中で長男がアゴを出した。
「お父さん、もう登れないよ」
父に向かって泣き言をいっている兄のそばで、長女は雑木生い茂る坂に挑み始めた。あちらの低木をつかみ、こちらの雑草を握りしめ、1歩ずつ登る。
「おい、妹ががんばっているのに、お兄ちゃんはもうダメなのか?」
ぐずる長男をあおり、山頂に着くと岐阜城に入る。そこを出ると、リスを飼った檻があり、リスのえさを売っている。それを買って檻の中に入り、リスにえさをやる。ここでも一歩前に出て先陣を取るのは長女だった。お兄ちゃんは恐々手を延ばした。意気地なしのままである。
山を下りて長良川の河原に出る。子どもたちの衣服を剥ぎ取って
「さあ、思いっきり遊んでこい!」
2人は素っ裸で川に入り、山登りで汗ばんだ肌を水で冷やし、やがて水の掛け合いを始めた……。
都会の中の自然だけではない。車で2時間も走れば、岐阜では圧倒的な自然に浸ることができる。何度か家族を連れて行った徳山村だって、たかだか3時間のドライブなのだ。
私は、岐阜という町が心から好きだった。だから、
「少なくとも3年は、ここで仕事をしたい」
と願っていた。長男をわずか半年で幼稚園を転園させたのは
「小学校に進むまでは、この素晴らしい幼稚園に通わせることが出来る」
と思ったからである。
ところが、たった1年で名古屋に転じることになった。
企業人としては、認められて階段を上るのは喜びであろう。だが、生活人としてはいかがなものか。私は名古屋に転勤したくなかった。
結果的に見て、長男は3つの幼稚園に通い、4つの小学校に通った。その過程で、いじめに遭ったという話を聞いたのは、長男が中年に達したころである。
私は1979年5月、名古屋経済部員になった。4月1日付でなかったのは、その年、統一地方選挙があったからである。