08.25
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の22 特ダネとその波紋
新聞には「早版交換」という習慣がある。印刷所から遠いところに届ける新聞を早版という。早く送り出さねばならないので、締め切りが早く、刷り上がりも早い。この新聞を各社で交換する。だから、特ダネを早版から掲載する新聞はない。
「何版から入れようか」
と検討するのが一般である。
トヨタ工販合併の記事は12月28日夕刻に完成した。あと考えなければならないのは何版からいれるかだけのはずだった。私はわくわくしながら待っていた。
「おい、大道」
とデスクが呼んだ。デスク席に行くと
「合併の記事、1日ま待てるか?」
という。当然1面に掲載される記事だから、東京経済部に紙面の混み具合を聞いたところ、明日の朝刊の1面は国の予算原案の原稿で溢れそうなのだという。2面や3面で良ければ収容するが、1面は無理だというのだ。
「そうですか。これまでどこも書いていないから、確認を取れた社はないはずです。1日ぐらい待ってもいいと思いますよ」
29日になった。今日こそ紙面化されるはずだ。
「おい、大道」
この日もデスクが呼んだ。
「東京が1面をくれって泣いてきたんだよ。何でも、8㎜ビデオテープの規格統一の話を今日なら特ダネに出来るというんだ。1日待つと横並びになりそうだってさ。お前、もう1日待てる?」
いやはや、である。新聞に1面は1ページしかなく、1面トップの記事は1つしかありえない。8㎜か、トヨタか。向こうは今日でなければ特ダネにならないという。じゃあ、待つか。
「はい、大丈夫だと思います」
と答えた私は自信過剰か?
ただ、1つだけ条件をつけた。
「明日は必ず組んでください。明日も組み込まないとすると、元旦の紙面になってしまいます。そうなると、他紙が確認が取れないまま打ってくる観測気球と横並びになります。それはいやです。確実に明日組、31日朝刊に掲載するという条件なら、もう1日だけ待ちます」
いよいよ私のスクープが紙面に組み込まれる30日夜、私は会社にいなかった。トヨタ自動車販売の広報課の誘いで麻雀をしていたのである。メンツはトヨタ広報、私、それに日本経済新聞のトヨタ担当だった。
30日組、31日朝刊でトヨタの工販合併の記事を掲載することは、トヨタの広報には通告していた。その日が、たまたま麻雀をする日と重なった。
「ねえ、いくら何でも今日はまずいんじゃない?」
と私はトヨタの広報マンにいった。どうして? といいたそうな彼に
「だってさ。日経からすれば、和やかにチー、ポンをやっていて翌日の朝刊を見たら、前夜目の前で牌をジャラジャラいわせていた朝日の記者が書いた工販合併の記事を目にするんだよ。そりゃあ、あまりにも気の毒じゃないの」
が、広報マンは気にもとめなかった。
「いいんじゃないですか? だって、記者という仕事はそんなものでしょう。やりましょうよ」
その日の麻雀に勝ったのか負けたのかは忘れた。しかしなあ、雀卓を囲んでいるメンツで、翌日の朝日新聞に工販合併の記事が載ることを唯一知らなかった日経の記者は、翌日、どんな思いを抱いたのだろう……。
「トヨタ自工・自販合併へ 82年中にも具体化 小型車戦争に対処 新車名「トヨタ自動車」か」
1981年12月31日の朝日新聞朝刊は1面トップに4本の見出しをつけて工販合併を報じた。名古屋本社が印刷する紙面ではもちろん1面トップである。大阪本社も西部本社も1面トップだった。だが、何故か東京本社の紙面は1面4段。あとで聞いた話だと、両社長の談話が合併を否定しているように読め、
「何だか腰が据わらないなあ。本当に合併するのかよ」
と判断されたのだと聞いた。やっぱり、談話はいらなかった……。
だが、その東京本社版を見て休みが吹っ飛んだ記者がいたとは、ずっと後で聞いたことだ。毎日新聞のトヨタ担当である。
「いや、俺さ、どう取材しても合併の確証がつかめないものだから、えーい、年末に取材しても同じことだろうと腹を決め、年末に横浜の実家に戻っていたのよ。そしたら大晦日の大ちゃんの記事だろ。休み気分が吹っ飛んじゃってさ。やってくれたな、このヤロー!」
それは申し訳なかった。ねえ当初の予定通り、29日の朝刊だったら、そこまで迷惑はかけなかっただっろうにねえ。
年が明けてすぐ、私はトヨタ自動車工業の花井正八会長宅に夜回りに行った。何度も合併の話を聴きに行き、そのたびに何にも答えていただけなかった方である。正月早々夜回りをかけたのは、およそ2ヶ月の間何度も夜間に押しかけてご迷惑をかけたお詫び、工販合併を書くことが出来たあいさつのつもりだった。
この日、花井さんのひ表情が険しかった。睨みつけるような目で私を見た。
「お陰様で工販合併の記事を書くことが出来ました」
とあいさつすると、厳しい言葉が飛んできた。
「あんな記事を書いて、君は嬉しいのかね!」
えらく不機嫌である。
「はい、やっぱり嬉しいですね」
「そうか、君は嬉しいかも知れないが、こっちは大迷惑だ」
けんか腰ともいえる語調である。私も少々カチンと来た。それでも
「しかし、ちゃんと確認が取れたので記事にしました。それとも、あの記事のどこかに間違いがあってご迷惑をかけましたか? それだったら、間違っているところを指摘してください」
丁重に申し上げたはずである。
「何だ? そんな言い方をして、私から何かを取材しようというのか?」
花井さんは尊敬できる経営者だった。ずっと経理畑で、トヨタの金庫番といわれた。若い頃の話を聞いたことがある。
トヨタの経営が行き詰まった1950年頃、花井さんは経理の係長だった。人員整理をしなければ経営が維持できないまでに落ち込んでいたトヨタ自動車は、指名解雇に踏み切る。誰を解雇するか。選別する仕事が花井さんに任された。
「辛いよ、あれは。だからねえ、企業は従業員の首を切っちゃいかんのだよ」
という一言は、あのときの何ともいえぬ苦しみから生まれたものだろう。
そんな一言が出て来たので、私はもう一歩踏み込んでみた。
「花井さん、そのとき首を切った人たちの名前はご記憶ですか?」
花井さんはプイと横を向いていった。
「覚えてないよ、そんなもの」
だが、言葉とは裏腹に、私は
「花井さんはきっと覚えている」
と感じたのである。私の思い入れが過ぎたのかも知れないが……。
花井さんはそんな方だった。私の記事は、その花井さんをたいそう怒らせてしまったようだった。何か社内で、花井さんが困った立場になるようなことがあったのだろうか?
たった1つの記事が、様々な波紋を起こしたようだった。
1982年1月25日。両社は7月1日付で合併することを発表した。新社名は「トヨタ自動車」、本社は豊田市、手続き上はトヨタ自動車工業が存続会社になった。売上高4兆円超、従業員数5万4000人の巨大企業が誕生することになった。