2023
09.03

私と朝日新聞 東京経済部の3 またまた引っ越しました

らかす日誌

ちょっと脇道に逸れる。私の住まいである。

浦安に引っ越した我がファミリーは、しばしば横浜市鶴見区にある妻女殿の実家を訪ねるようになった。名古屋時代は年に数回だったが、いまま1時間も車で走ればすむ距離である。一家5人で行けば、義父・義母も孫が可愛いのだろう、歓迎してくれた。

ある日、義父が言った。

「せっかく近くに来たんだ。どうだろう、こっちに引っ越してこないか?」

義父は非鉄金属の回収業を営んでいた。銅を中心に、工場の解体などに伴って廃棄される非鉄金属を集め、リサイクルする仕事である。集めた非鉄金属を保管しておく倉庫が2棟あり、そのうちの1棟は2階にアパートがあった。妻女殿の弟が結婚した際、3部屋あったアパートをまとめて1部屋にし、弟夫妻の住まいにしていたが、弟夫婦が離婚して当時は弟が1人で住んでいた。

「あいつも離婚したから、俺たちと住めばいい。あそこに引っ越してこないか」

親とスープの冷めない距離に住むのは親孝行の1つだろう。生まれ故郷を飛び出して全国どこに行くか知れたものではない仕事を選び取った私は、自分の親には孝行できそうにない。であれば、妻女殿に親孝行してもらってもいいか。

「分かりました。こっちに引っ越しましょう」

名古屋時代、何度も東京に出張取材し、そのたびに義父の家を宿舎とした。バス、国鉄(現JR)を乗り継いで会社まで、あるいは霞ヶ関まで約1時間。帰りはタクシーやハイヤーを使うことが多いので、都心から30分もあれば帰宅できる。浦安に比べれば通勤が楽になるとの思いも後押しした。

子どもの夏休みを待って引っ越した。だから、私の子どもたちが、浦安での最下層階級「賃貸の子」であったのは1学期だけである。鶴見にはそんな階級はなかった。

新しい住まいは2LDK。12畳のリビング・ダイニングと、6畳、4.5畳の和室である。最も奥の4.5畳が私の寝室で、帰宅時間が遅い私は寝乱れた子どもたちを踏みつけないように気をつけながら、寝室に歩を運んだものだ。

子どもの成長は早い。6畳に3人寝かせても、初めは空間にゆとりがあった。だが、半年、1年とたつうちに、狭さが目立つようになった。夜戻ると、子ども3人が折り重なって寝ているのである。長男の足が長女の腹の上に、長女の手が次女の胸に、次女の足は長男の足にからんでいる。

「どうしたものかな。俺はマンションは嫌いだが、やっぱりマンションを買うしかないか。しかし、金がないなあ……」

夫婦でそんな相談を始めた。
恐らく、妻女殿がそんな話を義父に伝えたのだろう。ある日、義父が言った。

「下の倉庫は壊していい。今のところに家を建てて住まないか?」

考えたこともなかった。義父の敷地内に私の家を建てる。なるほど、それも1つの解決法である。
しかし、と躊躇した。私は婿養子に入ったのではない。義父の敷地内に家を持つということは、限りなく婿養子に近づくのではないか? 大牟田にいる私の母は、気分を悪くするのではないか?
迷った。確か、数日考えたと思う。迷うのはいい。しかし、義父の提案を退けた場合、私は首都圏で家を持てるか?

当時私は建設省を担当していた。住都公団も取材先の1つである。記者クラブに宅地分譲の資料が投げ込まれた。横浜市で造成中だった宅地が完成し、分譲を始めるという。首都圏最後の住宅団地ともいわれた港北ニュータウンである。民間デベロッパーの開発ではない。公団が開発した宅地だから、割安なはずだ。
記者クラブに来た公団の広報担当者に聞いてみた。

「いくらぐらいで分譲するのかね」

「おおむね、坪30万円ぐらいですね。ただ、良好な環境をつくるため、敷地は70坪が原則になっています」

30万円×70=2100万円

それは土地だけの価格である。住むにはそこに家を建てなければならない。1000万円ではペコペコだろう。少なくとも1500万円か。合わせて3600万円。住宅ローンの金利を加えると……。

とてもじゃないが、朝日新聞の給料では手が出ない!

あれこれ考えて、義父の申し出を受けることにした。これも妻女殿の親孝行のため、と割り切った。

使える土地は30坪である。準商業地域で、建ぺい率は60%、容積率は200%。つまり、1フロア18坪(約60㎡)の家しか建たない。しかも、敷地の南側には、境界性ギリギリに2階建ての家が建っている。であれば、隣地との境界線から出来るだけ離れて立てなければならないが、そうすれば駐車場がとれない。

「大道さん、俺に任せてよ」

と声をかけたのは、通産省で知り合った設計事務所経営者だった。通産省の住宅ビジョンをつくる審議会のメンバーである。
提案を聞いてみた。まず、3階建てとする。1階にはほとんど日が差さないので、2階を生活の中心ににし、1階は18坪の半分を使ってリビングルームにする。1階の残り18坪は駐車場である。2階はダイニングキッチン、風呂、夫婦の寝室、大牟田の母と同居する時に備えた和室。子ども部屋は3階に3部屋つくる。

納得できる提案だった。
では、どんな建築方式をとるか。
当時、木造は3階建てが認められていなかった。となれば、鉄骨か鉄筋しかない。私は軽量発泡コンクリートを使おうと決めた。いわゆるヘーベル板である。通産省の取材で、優れた素材だと判断したからだ。となると、鉄骨しかない。しかし、軽量鉄骨は避けた。津時代、軽量鉄骨住宅の火災現場を取材したことがある。火に嘗められた軽量鉄骨は飴のように曲がりくねった哀れな姿をさらしていた。軽量鉄骨はいやだ。

こうして、重量鉄骨3階建ての家が出来上がったのは1984年10月のことだった。建築期間中は、一家5人、義父の家に同居させていただいた。

こうして私の住まいができた。そのローンを払い終わったのは50代半ばである。この家に今、次女一家が住んでいることは何度も書いた通りである。

これもついでだが、釣りのことに触れておこう。
私にはそんな趣味はなかったのだが、まだ名古屋にいたころ、長男が横浜のおじいちゃんから釣りセットを買ってもらった。道具が手元にあれば、大人だって使ってみたくなる。長男にせがまれて私も釣り竿を買い、名古屋港の堤防に一家総出で釣りに行った。
次女が生まれていたかどうかは記憶にない。生まれていたとしたら、妻女殿が堤防の上で抱いていたはずである。そして長男と私は釣り糸を垂らす。処置に困るのが長女である。3歳か4歳。動きたい盛りだ。へたに動いてもらって海に落ちでもしたら、堤防上から海面までは数メートルあり、助けられそうにない。そこで一計を案じた。ロープで長女の腰を縛ったのである。もう一方の端を私にくくりつける。

「さあ、ロープが伸びる範囲は走り回っていいぞ。海に落ちたら、このロープで引き上げてやる!」

そんな遊びをしたから、浦安に引っ越しても、私と長男の釣り熱は一向に衰えなかった。

「おい、黒鯛を釣りに行こう」

と長男を誘ったのは1982年5月ごろだろう。目的地は木更津の離れ堤防。ここで黒鯛があがっているとは釣り新聞の情報だった。

朝4時半、長男を揺り起こす。いつもは7時半に

「学校に遅れるぞ!」

と揺すってもなかなか起きない長男が、この日はすっくと起き上がった。顔を洗い、妻女殿手製の握り飯と釣り道具を車の乗せてゴルフでドライブである。

釣れなかった。私の浮きが1度だけググっと引き込まれたが、合わせたらハリスが切れた。当たりはその一度だけ。

当時の我が家は、そんなファミリーだったのである。