09.25
私と朝日新聞 北海道報道部の6 耳の穴にウイスキーを注ぎ込まれたヤツがいた
Muの話を続ける。
ある朝、Muは私の顔を見るなりいった。
「Ma、あいつはひどいヤツだよ」
聞けば、前夜、彼らは札幌の繁華街、すすきのに飲みに出た。かなり酔ったMuがソファで横になっていると、Maさんがテーブルにあったダルマ(サントリーのオールドは、こう呼び習わされている)と持ち上げ、Muの耳の穴に、ドボドボと注ぎ込んだというのである。
「まだ耳がおかしいわ。あいつ、許せん!」
と怒り収まらぬMuを前に
「Maさん、面白いことをすなあ。それにしても、よくやった!」
とは思いながら、まさかそんなことを正直に口にするわけにはいかない。
「それはそれは」
などと当たり障りのない返答をしてその場を離れた。そしてMaさんを探す。
「あいつの耳の穴にウイスキーを注ぎ込んだんですって?」
彼は平然として答えた。
「うん、やった。分かるよな、大ちゃん、俺がなんでやったかは」
まあ、それは分かりすぎるほど分かる。職場におけるMuの一挙手一投足は、その下にいるしかない我々からすれば許しがたかった。
でも、耳の穴にウイスキー? よくそんな痛快なことを思いつくなあ!
Maさんは快男児であった。過去をふり返れば、彼は私の生誕地、福岡県大牟田市の通信局長を勤めた。時は、労働組合幹部の指名解雇に反対して労働者が立ち上がり、総資本対総労働の対決、といわれた三井三池争議の最中である。
1959年12月、組合側は無期限ストに突入した。取材しなければならない。
Maさんは労働組合側に心情的に傾いたらしい。会社側、いわば総資本にたてつく記事を沢山書いたようだ。かつて朝日ジャーナル最終号を飾った赤瀬川源平の
「アカイ アカイ アサヒ」
の担い手の1人だったわけだ。
Maさんが労働組合の信頼を得たのは自然な成り行きである。そして、その信頼が大スクープを生み出す。組合員が坑内奥深くで繰り広げたハンガーストライキの現場に立ち入ることを許されたのである。他社の記者は1人も入れない現場で、Maさんは写真を撮った。地底で実行中のハンガーストライキの写真は、紙面に大きく掲載されたらしい。惜しいことに、当時の我が生家は朝日新聞の読者ではなかったため、私は目にしていないが。
「いやー、面白かったよ、大ちゃん。そうか、あのころ君は大牟田市の小学生だったのか。そりゃあ縁だね」
そんなMaさんを会社も持て余したのだろう。確か大牟田通信局長の前は福岡総局社会部員だったと聞いた記憶がある。きっとそこで事件を起こし、大牟田通信局に飛ばされたのだろう。そして私が札幌に着任した時は根室通信局長だった。南の九州から北の北海道へ。ご家族はかなりご苦労されたと思う。
「大ちゃん、知ってるか? 根室に朝日新聞の読者は何人いると思う? 240人だよ。俺は240人のための記事を書いてるんだ」
根室通信局長時代、札幌の北海道報道部デスクと電話していて激しい喧嘩になった。Maさんは
「おい、手前、そこで待ってろ。これからお前を殴りに行くから!」
と電話を切った。根室—札幌。一般道で約450㎞の道のりである。まさか本当に殴りに来るはずはない。デスクはそう安心していた。ところが、何時間後かは知らないが、本当にMaさんが報道部に姿を現し、そのデスクを殴ってそのまま消えたというのである。
そして、私が札幌に在任中に北海道報道部に異動になり、私と机を並べた。担当は民営化してJR北海道になる直前の国鉄である。
三井三池の労働組合に絶対的な信頼を得たMaさんだ。国鉄でも労組側に立って民営化反対の論陣を張るのかなと思っていた。ところが
「大ちゃん、あれは民営化するしかないな。今のままじゃどうしようもない」
と予想外の言葉を聞いた。確かそんな視点で連載記事を書き、私も何本か書いて手伝った記憶がある。
ということは、Maさんはゴリゴリの左翼ではないということだ。Maさんは左翼ではなく、常に弱きものの立場に身置き、筋を大切にする男気のある記者だったのではないか。自分の立身出世など考えもしない。曲がったことが許せないから、正論を主張し、時には拳を振るい、社内でもトラブルメーカーになる。
快男児。私はMaさんとすっかり仲良くなり、よく欲みに出た。
ここまで書いてきて、私が心引かれるのは世間的に見れば変わり者と見られる人が多いことに気が付いた。ひょっとしたら、私も変わり者なのだろうか?