2023
09.30

私と朝日新聞 北海道報道部の11 札幌では風邪をひかず、東京で風邪をひいた話

らかす日誌

何度か東京に出張した。そのたびに、人の感覚の不思議さを思った。

札幌は大都会だと言われる。しかし、東京から札幌に転勤して、初めて見る札幌の街は田舎じみて見えた。ビルが低い。まだ根雪が残っている時期だったからかも知れないが、まち全体が薄汚れている。街を行く人の数も、東京とは比べものにならない。東京で3年過ごした私の目にはそう見えた。

数ヶ月たって、東京に出張した。JR新橋駅で降りて霞ヶ関方面に歩く。歩きながら私は東京に圧倒された。

「俺はこんな凄い大都会で仕事をしていたのか? 夢じゃないよな?」

そう、わずか数ヶ月の札幌暮らしで、私の感覚はすっかり札幌風になっていた。札幌の感覚で東京を見れば、これは比べようもない化け物都市である。その一角でウロチョロし、いっぱしの仕事をしている気になっていた自分がいたとは、とても信じられなかったのだ。おれはこんな街を相手にできるほどの記者じゃないぞ!

東京から札幌に戻ると、何となくホッとした。自分の住処に戻ってきたような安心感に包まれた。
それでも、である。2年1ヵ月で私は札幌勤務から東京勤務に戻るのだが、数ヶ月もすると東京の全てを知り尽くし、使い倒しているような気分になった。まったく、人の感覚とはコロコロ変わる不思議なものである。

1985年か86年の年末、私は東京出張を命じられた。国の予算の「北海道分」を取材するのである。目的地は大蔵省。
東京出張の宿は、横浜の我が家である。貸すことを断念して空き家になっており、隣に住む義父一家に

「時々風を入れておいて下さい」

と頼んであった。出張の際は

「〇日から△日まで行きますからよろしく」

と電話を入れた。

この日、羽田に着いた私はその足で大蔵省に取材に出向き、自宅に戻ったのは午後11時頃だった。酒と食事は外で済ませてある。自宅にたどり着くと、6畳間に布団が延べてあった。隣の誰かがやってくれていたらしい。
さあ、寝よう。服を脱いだ。脱いで気が付いた。

「あ、パジャマを忘れてきたわ」

義父一家もそこまでは気が付かなかったのだろう。パジャマの用意はしてない。

「ま、いいか。今日はやや寒いが、厳寒の札幌から来たんだ。札幌に比べれば横浜はハワイのようなものだ」

私はパンツと下着姿で布団に潜り込んだ。

激しい頭痛に迎えられたのは翌朝である。目を覚ましたら頭がガンガンした。え、俺、風邪をひいた?
風邪なのかインフルエンザなのかは不明である。とにかく頭が痛い。隣の義父の家に行き、体温計を借りた。38℃を越える発熱だった。ヤバい。

北海道から政府予算を取材に来ているのは私だけなのである。ここで私が病床に伏せっては北海道関連の国の施策が朝日新聞には載らないことになってしまう。
私は熱を押して出かけた。医者に行く時間はない。途中で市販薬を買い。すぐに服用した。記者クラブ(どこの記者クラブだったかは記憶にない。大蔵省の記者クラブ(通称「財研」でなかったことは確かだ)に到着すると、ソファーでうずくまった。毛布をかぶって熱が下がるのを待つ。だが、一向に下がってくれる気配はない。レクチャーの時間が来れば、重い体を引きずって会見場所に向かい、メモを取った。
昼。食欲はない。が、無理にでも押し込まねば体力が衰える。食事を済ませたら服薬である。熱よ、下がれ!

下がらない。クスリの選択を誤ったか? 仕事を終えて横浜に戻る途中、再び薬局を訪れ

「このクスリを飲んでいるが、一向に熱が下がらない。もっと強い薬を」

と別の薬を買った。
自宅に戻る。相変わらずパジャマはない。仕方がない。下着姿で寝たのが風邪をひいた原因だろう。だったら、服を着たまま寝るか。
翌朝、まだ体調は優れない。それでも取材に行く。そして翌日も……。

あの病体でどんな取材をし、どんな記事を書いたかは忘却の彼方である。ただ、最低限の仕事はしたはずだ。
何となく熱が下がりだしたのは、さて、何日目だったか。札幌に戻る飛行機でも体調は優れなかったと記憶にある。

この取材で

「世の中、そんなものか」

と思ったことがある。大蔵官僚による地方差別である。
霞ヶ関で予算の取材をしたことがある私はこの時、霞ヶ関の記者ではなく、地方記者として取材をした。そうすると、対応が違うのである。
霞ヶ関の記者だった時は、日本で一番頭がいいといわれる大蔵官僚は普通に対応してくれた。課長、課長補佐が主な相手だった。ところが、

「札幌から来ました」

というとまったく対応が違うのである。課長や課長補佐は取材相手ではなかった。もっと低いランクの役人が、さも面倒くさそうに応対する。そうか、地方から取材に来るとはそのようなものか。
記者の方にも問題はあるのだろう。霞ヶ関で取材をしていれば、記者側の知識もある水準に達する。自分の担当する省庁がどの政策に重きを置き、それは何故か、障害は何か、などを頭に入れた上で質問するから、大蔵官僚もそれなりの対応をする。会話が成立する。
だが、私が一緒に取材を宇する事になった地方記者にはそんな知識がない。そのためだろう、

「〇〇ダムはどうなりました?」

「国道△△号の工事にはいくらつきましたか?」

などという、結論さえあればいいという質問がほとんどなのだ。聞かれた役人は手元の書類をめくり、

「ダムには▢▢円です。国道は今回は見送りになりました」

などと数字をあげるだけ。記者はそれを必死にメモする。

「どうしてあの国道に予算が付かないのか。国道整備は地元の経済力を上げるために是非必要なのだ。予算が配分されなかったのは何故なのか?」

などという再質問はほとんど耳にしなかった。つまり、官僚氏との間に会話が成り立たず、単なる1問1答に終わっているのである。官僚氏も会話にまで発展させようという気にならないのも仕方ないのかも知れない。

取材とは鐘を鳴らすようなものだ。小さく叩けば小さく鳴る。大きく叩けば大きく鳴る(もっとも、取材相手にもよるが)。

などと偉そうなことを書いたが、それは今だからいえることで、あの時の私は、単なる地方記者の1人に過ぎなかったことを、恥ずかしながら付け加えておく。

「風邪をひいて高熱を発していたんだから、仕方なかった」

という自己弁護をしながら……。