10.07
私と朝日新聞 北海道報道部の18 道東を旅したの2
道東旅行3日目。何事もなくバンガローで目覚めた。手近なもので朝食を済ませると、私たちは車に乗り込んだ。今日の目的地はサロマ湖畔にある民宿である。
根室半島の根っこを北東から南西に横切って峠を越える。坂道を上りつつあった時、1枚の看板が目にとまった。確か「熊の湯」とあった。入浴自由、つまり無料の露天風呂である。道路からは見えないが、案内はある。細い道を辿れば行き着けそうだ。
そういえばもう2日も風呂に入っていない。ここで天然温泉に入るのも気持ちよかろう。路肩に車を止め、5人で入浴道具を持ち、露天風呂への道を辿り始めた。1、2分も歩かないうちに到着した。男女に分かれており、脱衣場もある。そして、誰もいない。勝手にはいっていいらしい。
温泉につかる。自然が一望できる。うち続く木、また木。川が流れ、遠くに山が見える。自然にどっぷり浸かる。心地よいことこの上ない。
オシンコシンの滝に行こうというプランは、確か妻女殿が旅行ガイドで見て立てたものだった。根室半島の付け根から半島の北側にある道を辿る。今のようにカーナビなどない時代だから、すべて道路マップ便りである。
到着すると、まあ、中くらいの滝があった。ああ、これが観光資源? という程度のものである。
しかし、我がファミリーにとっては別の意味があった。長男の名を「シン」という。その「シン」がこの滝の名に2つ入っているところが味噌だ。
「お兄ちゃん、この滝はオシンコシンの滝なんだよね」
娘たちはそういってゲラゲラ笑った。
私も、
「そうか、オシンコシンか。お前、このあたりで生まれたのかな?」
と笑った。
長男は仏頂面をしていた。
昼食は網走で取った。さて、ここまで来て何を食べよう? やっぱり海産物か?
とある食堂に入ると、「オホーツク丼」(だったと思う)というメニューがあった。そうか、ここはオホーツク海に面しているんだ。よし、これにしよう。5つ頼んだ。
いってみれば、ほかの土地で食べる海鮮丼である。ご飯の上に魚介類が並べられ、タレがかかっている。違いは、海産物がオホーツク海で採れたもの、という程度だろう。美味かった。そして、高かった。確か1人前900円。こんな小さなことが記憶にこびりついているのは、
「こんな田舎で、この値段で、注文する客はいるのか?」
という思いが頭をよぎったからである。
網走からサロマ湖まではさしたる距離ではない。時間にゆとりがある。網走で遊ばなくては。
こんな時、皆様はどこを選ばれるだろうか? 恐らく、「網走刑務所」に向かわれる方が多いのではないか?
我が家は違った。そのころ、網走刑務所に入る予定がある家族はいなかった。いや、網走だけでなく、刑務所という所に行かねばならないメンバーは皆無だった。であれば、網走刑務所なんかを見ておく必要はない。その判断はいまだに正しく、幸いなことに、これまで刑務所のご厄介になった家族はいない。
では、どこで時間をつぶしたか。
「お父さん、釣りに行こうよ」
といったのは長男である。釣り仲間である私と長男は、4泊5日道東の旅に釣り道具を持参していた。
「お、いいな。オホーツク海で釣りをするか」
近くにあるという堤防を目指したのである。
何をエサにしたのかの記憶はない。だが、そこそこ釣れた。オタマジャクシを大きくしたような魚である。近くで糸を垂れていた釣り人に聞くと、これはカジカという魚で、みそ汁に入れると美味いのだという。
「そうか、おい、クーラーに入れておけ。氷は入っているな」
もっとも、札幌に帰り着くのは2日後である。それまで持つか? とは思ったが、我らは卑しい釣り人であった。釣れた魚は自分のものである。人にあげたり、リリースしたりしてなるものか! ま、夏である。結局札幌で廃棄することになるのだが。
釣ったカジカは腐らせてしまったが、しばらくのち、前出の炉端焼き屋「憩」でカジカのみそ汁を食べた。コクのある出しが出ていて美味かった。捨てたカジカが惜しくなった。
かなり迷いながらサロマ湖畔の民宿にたどり着いた。おかしなことに、ここでの記憶はほとんどない。3日ぶりに布団で寝てホッとしたことぐらいだ。ひょっとしたら悪天候に災いされて屋内で過ごすしかなく、思い出作りが出来なかったか。
翌日の目的地は層雲峡だった。名前は忘れたが、結構大きなホテルであった。最上階に大きな温泉がある。ほかに入浴者がいないのを見て、私は子どもたちにいった。
「おい、泳いでいいぞ」
3人は待ちかねたように水しぶきを上げ始めた。
泳ぐだけではない。滑り台のような遊具もあったような気がするが、確かではない。いずれにしても、子どもたちはこの広い風呂を存分に楽しんでいた。そして全員、ふかふかの布団(ベッドだったか?)で夢の世界に入った。
以上が4泊5日、道東の旅の概要である。走行距離1500㎞。
この間、車の中では「チェッカーズ」が絶えず歌っていた。そのころ、我が家の子ども3人は、チェッカーズにはまっていたのである。父親である私は情操教育としてThe Beatles、岡林信康を聞かせ続けていたのに、彼らは親の目を盗んでチェッカーズにのめり込んでいた。
旅に出る前、私には仕事があった。チェッカーズのレコードを、カセットテープにダビングすることだ。まだCDは普及しておらず、車にある音響設備はカセットテープにしか対応していなかった。
・涙のリクエスト
・ギザギザハートの子守歌
・ジュリアにハートブレイク
・Song for U.S.A.
何度聞かされたことか。
無論、The Beatlesも岡林信康もカセットテープになっていた。もういいだろうと、その1本を取り出そうとすると、子どもの1人が
「お父さん、ダメ! 今度はこれなんだから」
とすりきれそうになった(やや大げさだが)チェッカーズのテープを私に渡すのである。ええ、またかよ!
もっとも、物事はマイナス面だけで見るものではない。その後、チェッカーズの曲は、カラオケでの私の持ち歌になった。「涙のリクエスト」は何度歌ったことか。桐生に来てからもやった。60過ぎたおっさん(いまでは70過ぎたじいさんだが)が、激しいロックを歌う違和感が、結構受けた。
私が長年、チェッカーズにとっ捕まっているのとは対照的に、子どもたちは成長した。
間もなく50歳に手が届く長男は、Tha Beatlesを基礎にしながら、洋楽を聴く。先日はEric Clapton日本公演に行き、来年1月はビリー・ジョエルだ。Queen、U2もお好みである。
長女もTha Beatlesがベースであることには変わりないが、20代から30代にかけてサザン・オールスターズにはまっていた。まだよちよち歩きの啓樹を連れてコンサートに行っていたから、はまり方は半端ではなかった。
次女は学生時代、DREAMS COME TRUEのファンだった。Red Hot Chili Peppersにはまっていた時期もあったようだが、最近は音楽はご無沙汰のようである。主婦業、母親業が忙しく、ゆとりがないらしい。
誰からも、チェッカーズの話題は出ない。
そうそう、次の夏に実行する予定だった道北旅行は、実現しなかった。仕事が忙しかったのか、金が尽きたのか、それともほかに事情があったのか。どうしても思い起こすことができない。