2023
10.12

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の1 私が国際金融の取材なんて……

らかす日誌

東京に戻ってきた。時は1987年5月である。
横浜の我が家では長男が公立の中学校1年生となり、娘たちは自宅すぐそばの市立小学校に通い始めていた。長女は5年生、次女は1年生である。1ヵ月ぶりに家族が揃った。

2年間空き家にした自宅から出社した私に、新しい持ち場が言い渡された。

「大道君、Ya君と一緒に経済の大型企画をやってくれ」

当時、朝日新聞東京経済部は毎週1回、毎週1回、1ページをまるまる使った連載を続けていた。半年続く大型企画である。

「日本の金融マーケットが大変なことになっている。東京市場から金が湧きだし、それが世界中を回っている。その金がどこに行って何やっているのかを追跡する企画だ」

日本のバブル景気の引き金を引いたのは1985年のプラザ合意だったというのが定説だ。当時アメリカは貿易赤字と財政赤字の双子の赤字に苦しんでおり、貿易赤字を減らすため、輸入を抑制して輸出を増やそうと、ドル相場の修正に乗り出した。各国通貨に対してドルを安くすれば輸入物価は上がるから輸入品消費が減り、輸入が減る。米国産のものは価格競争力がつく。強い通貨は国の威信にも関わるが、そうもいっていられないというのが当時の米国だった。

ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の大蔵大臣が集まって会議を開いた。日本からは宮沢喜一蔵相が参加した。協議した結果、ドル安に向けて各国が協調行動を取ることが合意された。これをプラザ合意という。
合意は市場を大きく動かした。合意前日の東京市場では1ドル=242円だった円—ドル相場が、合意が発表されると急速に円高ドル安に動き、85年末には1ドル=200円を突破。私が東京に戻った87年5月には1ドル=140円台にまで円高が進んでいた。

円高になれば日本企業の輸出競争力が落ちる。資源小国の日本は輸出で外貨を稼がなければ資源を輸入できない。それどころか、食糧自給率が低い日本は、足りない食べ物も輸入しなければならないから、外貨を稼がねば民が飢えて国ががつぶれる。だから国際市場で強い競争力を持つ車やバイク、カメラ、家電品などの製造業を強くしなければならない、急速な円高に対応して日銀は5回に渡って公定歩合を引き下げた。つまり、企業が安い金利で金を借りることができる環境を作り、製造業に設備投資—コストダウンによる国際競争力維持をを促した。

一方で、それまでは1ドルを日本円に替えれば240円になっていたのが、200円,140円にしかならなくなった。このため、余剰資金を米国債などに投資していた企業には大きな為替差損が発生した。放っては置けない事態である。企業などの運用資金は続々と米国債を離れ、国内の金融市場に還流した。金余りの発生である。
小さな日本の株式市場に大量の投資資金が流れ込む。需要が膨らみ、供給はもとのままとなった株、債権の価格が上昇する。これを見て、金利が下がって借りやすくなった金を使って株式を買う動きが広がった。ますます株、債権価格は上がる。金融市場をあふれ出した金は不動産市場にも流れ込んだ。地価が急騰した。自己資金だけでなく、銀行から融資を受けて土地を買う動きも強まった。銀行は目一杯貸し出した。
いわゆるネーゲームである。日本中がバブル景気に沸いた。右から左に金を動かせば、巨額の利益を手にできるのである。濡れ手に粟。多くの企業、人が我が世の春を謳歌した。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

などと「平家物語」を思い出し、山があれば谷があることを思い出す人はほとんどいなかった。

バブルとは、泡、泡沫のことである。中身は空気だけなのに、どんどん大きくなる。そして大きくなりすぎていずれは破裂する。
歴史上有名なのは17世紀に起きたチューリップ・バブルである。オスマン帝国からヨーロッパへチューリップが伝わったのは16世紀中頃のことだ。まずオーストリア・ウイーンに持ち込まれ、やがて各地に広がった。これに異常な反応を示したのが、黄金時代にあったオランダだった。17世紀、チューリップの球根が異様な高値で取引されるようになったのである。ピーク時(1637年)には、1つの球根に職人の年収の10倍以上、というから、今なら6000万円〜8000万円もの値がつけられた。
ところが、ピークをつけた後、チューリップ価格は急落する。それはそうだろう。正気に戻れば、チューリップの球根1つを億ションと交換する人がいるはずはない。
まともに考えれば誰でも同じ結論に達するはずなのだが、その後も姿を変えて繰り返されているのがバブルなのだ。バブルは、バブルを体験した世代が死に絶えると、再び発生する、と書いたのは、確か経済学者のガルブレイスだった。

そのバブルが日本でも発生していた。私が2年ぶりに戻った東京は、日本で発生したバブルの中心地だった。

話を元に戻す。
金融。これは私にとってちんぷんかんぷんの世界である。名古屋時代に金融機関を担当したことはあるが、金融の仕組みなんて

「関心ない。関心を持っても俺に理解できるわけがない。そもそもわかりたいとも思わない」

と放っておいた世界である。
バブル? 札幌での2年間、私は不景気な話ばかり取材して書いていました。炭鉱の閉山でしょ、受注が急減した造船でしょ、出口の見えない林業でしょ、それに……。バブルっていわれても、まったく実感はないんですけど。

とは思った。そんな私に、この取材は無理でしょ、という言葉が喉までせり上がってきた。しかし、これは業務命令である。拒否する自由は、多分ない。困った。

「あのね、今や日本のお金が世界中を駆け回っている。だから、当然海外にも取材に行ってもらう」

ん? 海外取材? それは楽しいかも。会社の金で海を越えて行けるって、ひょっとしたらビッグチャンス?

避けられない運命なら、できるだけ明るい見方をした方がいい。金融? わからない。海外? 私、英語できないんだけど。などと暗い面ばかり見ていたら、人生、楽しくなくなるぞ!

こうして私は、見知らぬ世界、見知らぬ土地へ足を踏み込まねばならないことになってしまった。その連載は「Tokyo Money」というタイトルが決まっていた。