2023
10.18

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の6 同文同種の話

らかす日誌

もちろん、香港では買い物ばかりしていたのではない。ちゃんと取材もした。
ところが、どんな人に会って、どんな話を聞いたのか、トンと思い出せない。私の記憶はホントに頼りにならない。

ただ、香港で書いたらしい記事はスクラップしてある。9月28日付だから、香港で取材を終わり、原稿にしたものらしい。1987年、まだインターネットなんて普及していない。それどころか、まだワープロも使っておらず、原稿はすべて手書きの時代である。香港から東京へ、どうやって原稿を送り届けたのだろう? 電話で吹き込んだか。

パンダとクマ」の表題がついた記事は、こんな書き出しだ。

「中国政府直属機関で、香港を舞台に総合商社的な活動をしている光大実業の王光英会長(69)は9月5日、たまたま立ち寄った経済特別区、厦門市空港で鄒爾康・厦門市長の出迎えを受けた。中国人民政治協商会副主席でもある王会長が、行く先々で市長らの出迎えを受けるのはいつものことなので、王会長は「単なる表敬か」と思いつつ空港待合室に入った。
その王会長に鄒市長は『飛行機を買いたい。いいアイデアはありませんか』と切り出した。けげんな顔をする王会長に、鄒市長は「厦門市がつくった地方航空会社の仕事を広げるため、ボーイング737が欲しい。ボーイング社と話したら、1機5000万米ドルもする。買う金がないのです」と説明した。しばらく考えをめぐらせた王会長は「リースにしなさい」と答えた。
光大実業が日本の信託銀行と組んで設立準備を進めているリース会社のことが、王会長の頭にひらめいたのだ。出資比率を五分五分にするところまで話が進んでおり、「その第1号の事業になる」と考えついた。香港に帰ると、王会長は早速、相手の信託銀行に採算性の調査を頼んだ。うまくいけば10月にも、ボーイング737のリース事業が動き出す」

いやはや、お恥ずかしい話だが王光英会長も鄒爾康・厦門市長もお目にかかった記憶が全くない。しかし、記述は妙に具体的だ。この後を読むと、」私はどうやら、王会長にインタビューしたらしい。だとすれば、お目にかかったのは香港島にある金融街にそびえる「遠東金融中心(ファー・イースト・ファイナンス・センター)」である。多分私は、表側の一部がめくれしまったアタッシュケースを下げて、妙にヒョロヒョロという感じで突っ立っている高層ビルに出かけたのである。

「パンダとクマ」とは、国際金融市場での中国とソ連の愛称である。社会主義体制を取っていたソ連も、実はずっと前から国際金融市場での有力なプレーヤーだった。やはり社会主義を標榜する中国は文化大革命を経て毛沢東が死去し、江青ら4人組みが失脚して1978年、鄧小平政権が成立した。鄧小平は「改革開放」を唱えて資本主義を一部取り入れる路線を推し進め、国際金融市場では有力プレーヤーに育っていった。
金融取引とは、資本主義の根幹の1つだろう。そこに曲がりなりにも社会主義を標榜し、計画経済を進めているはずの国も有力プレーヤーとして参画しており、中でも中国が大きな存在になりつつある。それを伝える記事だった。いまから振り返れば、いまの中国の経済発展を先取りしたような記事である。
もちろん、当時の私がそんな見通しを持っていたはずはない。ただただ、国際金融市場に社会主義国も参加しいてる、だったらあんたたちのいう「社会主義」って何? という「違和感」を読者に届けようと思っただけであったのはいうまでもない。

この記事には、ほかにも香港在住の中国人が登場しているから、数人にインタビューしたはずだ。英語も中国語も話せない私である。お金を払って通訳をお願いした(もちろん、費用は会社持ち!)のであった。

確か、その通訳さんに誘われたのだと思う。私は、中国が「改革開放路線」に沿って設けた経済特区、広州から来た中国人と食事をした。これもお恥ずかしい話だが、当時の私に、中国・経済特区についての知識はゼロ。だから、関心もなかった。

「会ってみませんか?」

といわれたから、時間もあるし、会ってみようかと思っただけである。
どこかのレストランで会った。どんな話をしたかは忘却の彼方なのだが、1つだけ記憶にこびりついていることがある。小1時間もすると、頼りの通訳さんが

「済みません。私、これから少し用事がありまして」

とその場をいなくなってしまったのである。えっ、言葉が通じ合わない2人を残していくって! 俺、中国語なんてまったくわからないぞ! どうすりゃいいんだ?

残された2人は顔を見合わせた。

「Do you speak English?」

といったのは、私だったか、それとも広州から来たという中国人だったか。
私だったら、

「Yes, I do.」

という返事が戻ってきたはずである。
彼がいったのなら、

「Only a little.」

と私は答えたはずだ。a little。少しはある、という英語表現である。私が答えた際、「少し」は本当に少し、ゼロに近い少し、という意味を持っていた。

私たちは英語で会話を始めた。しかし、私の英語力はa littleなのである。話が少し複雑になると、理解できなくなる。彼は違った英語表現で私に理解を促すが、

「I can’t understand.」

と答えるしかない。

2人はしばし無言。やがて彼がいった。

「Do you have a notebook?」

おう、それなら商売道具である。いつも身近に持ち歩いておる。私はノートをアタッシュケースから取り出した。すると、、彼はそのノートを開き、漢字を書き始めた。私が英語で理解できないことを漢字で伝えようとしてくれたのだ。同文同種とはありがたいものである。それで何となく、彼がいわんとしていることが、私にわかり始めたではないか!

とい苦労をしながらの会話は、それから1時間ほど続いた。それなのに、あの時何をテーマに、どんな話をしたのかをまったく記憶していない。

話はひょっとしたら、いまに繋がる中国の経済発展をうかがわせるものだったのかもしれない。それなら日本に帰国して、

「中国経済が変わり始めた。その実情を知るため取材に行きたい」

と上司にアピールして、中国に乗り込むこともできたはずである。
いま思えば、我ながら

「お前はバカか?!

といいいたくなってしまう香港の思い出である。