2023
10.25

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の13 キャピタル・フライト

らかす日誌

次の目的地は、アメリカ・サンディエゴである。ここでは「キャピタル・フライト」を取材する。キャピタル・フライトとは、お金がより有利な投資先を求めて国境を出入りすることをいう。

サンディエゴはメキシコとの国教にある都市だ。ここにメキシコのお金が流れ込んでいるというのだ。原因はペソ相場の値下がりである。当時書いた記事を引用すると、こんな具合だ。

「メキシコと国境を接する米カリフォルニア州サンジエゴのサンイシドロの大通りは、スペイン語の看板が氾濫していた。「1ドル=1575-1585ペソ」などと交換レートを書いた両替商が林立し、米国の銀行支店も7つあった。その1つ、ウェルズ・ファーゴ銀行の支店には「ティファナ支店」の看板が掲げられていた。ティファナは国境の向こうにあるメキシコの都市名だ。両替商も銀行も、国境を越えてくるメキシコのドルの『キャピタル・フライト』(資本逃避)にピタリと照準を合わせている。
サンジエゴの隣、チュラピスタの銀行支店で10月5日午後、メキシコ系米国人の顧客サービス係(40)に会った。彼は『今朝もメキシコ人が来た』と話し始めた。15、6歳の娘を連れた40歳前後の女性が、メキシコのバンコメール銀行振り出しの1万2000ドルの小切手をカウンターに出し、定期預金口座を開いた。ティファナの農園主の妻という女性は、メキシコ人がこの銀行に勤めていることを知人から教えられて来たのだそうだ。メキシコと米国の国境は厳しい検問もなく、メキシコ人は簡単にドルを持って来られる」

これがアメリカとメキシコとの間で起きている「キャピタル・フライト」の現実である。なぜこんなことが起きるのか。再び記事を引用する。

「(中略)父が医者、母が弁護士という豊かな階層に属するエルナンデス一家は、ペソ相場が1ドル=12.5ペソで安定していた1976年初めまでは、メキシコの銀行にペソで預金していた。母の名義分だけでも数百万ペソに上っていた、とルピーさんは記憶している。その年ペソが1ドル=20ペソに下がると、一家は国内の銀行でのドル預金に切り換えた。
ペソの対ドルレートはそれから年々下がり、1ドル=70ペソになった82年9月、政府はドル流出を食い止めようと、ペソとドルの交換を一時停止し、ドル預金の引き出しも禁止した。このとき、エルナンデス一家は、やみ両替商を通じてドルを買い、米国の銀行へのドル預金を始めた。メキシコ政府が為替市場を再開した85年7月以降は、やみドルを手当てする必要はなくなったが、一家は引き続き米国でのドル預金に励んでいる」

私がサンディエゴに行ったときのペソ相場は、引用した記事にある通り、1ドル=1575-1585ペソだった。ということは、1ドル=20ペソだった1976年に1万ペソをドルにすれば500ドルになった。これを米国の銀行に預金しておけば、1987年には78万7500ー79万2500ペソになっている計算である。実に80倍近い増え方だ。
国が累積債務にあえぐようになると、為替相場で自国通貨の価値が下がる。自国の通貨が下がれば輸入物価が押し上げられ、国内は激しいインフレに見舞われる。インフレとはお金の価値が下がることだ。だから資産価値を守ろうと、外国の強い通貨に替える動きが起きるのである。
目端の利く1人や2人がそうするのならたいした影響はない。しかし、国民の多くが自分の資産を守ろうと外国通貨を買うキャピタル・フライトに手を染めれば、キャピタル・フライトとは自国通貨を売ることだから、外国為替市場で自国通貨はさらに下落し、それが新たなキャピタル・フライトを招き寄せる悪循環に陥ってしまう。こうして、富める国はますます富み、貧しい国はさらに貧しさを募らせることになる。こんな動きが起きるのが国際金融市場なのだ。

というのが私の書いた記事の趣旨である。
しかし、である。この記事には現地に住む人の財布の中を覗き込むような記述がいくつも出てくる。さて私は、どうやってこんな人たちを見出し、あまり表沙汰にはしたくないだろう話を聞くことが出来たのだろう?

本当かどうか知らないが、朝日新聞には、海外に取材に出ると、現地の電話帳を手に入れるた後は遊びほうけて帰国の日を待った剛の者がいたという。なぜ電話帳なのか。現地の人の名前を知るためである。その名前を使って、名前だけは実在の人だが、その他は全て記者の想像が生み出した記事を書く。

「どの名前を借用しても、その人が日本語で書かれている朝日新聞を読むことは絶対にない。だから、何を書いても文句を言われることはありえない」

と言い放ったというが、さて、本当にそんな剛の者がいたのかどうか。

私は剛の者ではない。だから、紙面に出した名前、お金の動きは、全てインタビューで聞きだしたものだ。本当に、どうやったらそんなことができたのだろう? まったく記憶にないのが不思議である。
ただ、現地では東京銀行の方々に大変御世話になった。とすれば、東京銀行のネットワークをお借りしたはずであり、

「日本から朝日新聞の記者が来て、キャピタル・フライトの実体を取材したいといっている。あなた、話してくれませんか?」

と現地の人々を説得してくれたはずである。もう遅いかもしれないが、当時御世話になった方々に深くお礼を申し上げたい。