11.18
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の37 次女の結婚式に参列していただいた
東京・駒沢の田淵さんのマンションに我がファミリーが初めてお招きいただいたのは、確か正月だったと思う。
「大道君、先日は御世話になった。家族の皆さんでうちに来てくれないか」
私たちがお招きしたのは2人だけだが、我がファミリーは5人全員で押しかけた。
これも「割り勘」と同じ結果になった。私が招いたのは1回だけ、2人だけだが、お招きに預かって家族全員で出かけたのは数回に上る。やはり8割程度はこちらが御世話になった。
あるときは、カルロスを連れて行った。
「彼の料理が食いたいな」
と田淵さんが言ったからである。カルロスは生ハムを持参し、パエリアを作り、スペイン風サラダもテーブルに並べた。
「これだったらワインがいいな。あっちにワインセラーがあるから、適当なのを出してきてくれないか」
田淵さんの一声で、カルロスはワインセラーを探しに行った。しばらくするとカルロスが
「大道さん、ちょっと」
と私を呼ぶ。ワインの選択に迷ったか? しかし、私はアマチュア、君はプロだぞ、と思いながら足を運ぶと、
「ちょっと、これば見てみんね」
とカルロスは1本のワインを差し出した。えっ、そんなにいいワインがあるのか?
「違う。よー見てみんね。こりゃあ10年もののボジョレー・ヌーボーたい!」
ボジョレー・ヌーボーとはできたてのワインの別命である。あちこちでもてはやされているが、使うブドウの品種が良くなく、5年、10年という時間の熟成に耐えない。だから、新しくて傷んでいないうちに飲むワインだ。その10年もの?
「おい、ヌーボーを10年もとっておいて、飲めるのか?」
「知らん。俺も飲んだことはなかけん。ばってん田淵さんは、いかにもワイン通らしいことばいうけど、ヌーボーを10年も仕舞い込んでおくとは……」
「きっと、誰かにもらって忘れていたんだろう。頂き物はいっぱいあるだろうからな」
カルロスはそのヌーボーを含め、数本のワインをテーブルに運んだ。まずヌーボーを抜いた。味は……。これは書かぬが花、である。ただ、食卓に笑いを運ぶ材料にはなってくれた。
田淵さんご夫妻とそんな付き合いが深まるうちに、次女の結婚が決まった。
ある日、次女がいった。
「お父さん、田淵さんを結婚式にお招きしたいんだけど、いいかな?」
次女も、父親が心酔する田淵さんに何か感じるところがあったらしい。多分、一生に一回しかない結婚式に、田淵さんに臨席していただきたいという。場所は東京・六本木のホテル、グランド・ハイアット。
「わかった。頼んでみよう」
田淵さんは
「おお、あの綺麗な子が結婚するのか。それはおめでとう。喜んで出席させてもらう」
と言ってくれた。
奥様は
「ああ、良かったわね。あの子、友だちの広末涼子さんより美人だものね」
とお世辞まで付け加えていただいた。タレントの広末涼子は次女の高校時代のクラスメートである。意気投合したらしく、4、5人の友だちと一緒に我が家に泊まりに来たこともある。さすがに一世を風靡した人気者で、それほどの美人とは思わなかったが、全身からオーラが出て輝いて見えた。人々の熱い視線を浴び続ける仕事を続けているとそうなるものらしい。
結婚式当日、田淵さんは祝辞を述べてくれた。私も新婦の父として挨拶に立った。
式が終わると、田淵さんが
「大道君」
と私を呼び止め、
「君のあいさつは長すぎたぞ」
私はとんだところでお小言をいた。そうかあ? 15分か20分だったと思うけど……。男の子しかいない田淵さんには、娘を嫁に出す親の心が分からなかったのか?
それから数日して
「お父さん」
と次女が言った。
「大変なのよ」
大変? まだ結婚して数日だぞ。何があった? そもそも間違った結婚だったってか?
「そうじゃないのよ。田淵さんから頂いたご祝儀の袋を開けたら10万円も入っていたのよ。これ、どう考えてももらいすぎじゃない?」
結婚の祝儀に10万円!? 確かにそれはもらいすぎである。私の感覚では普通3万円(偶数は割れるから嫌われるといわれ、1万円、3万円、5万円などが選ばれる。しかし、これ、全て偶数なんだが、誰もそうは考えないのか? 2万円もあってもいいと思うが……)、張り込んで5万円というのが相場だろう。確かに多すぎる。
だが、一度頂いたものを、多すぎるからと半額お返しするなどというのも失礼である。
「確かに多すぎるが、お返しすることもできないだろう。お前たちの心を込めたお返しをしておきなさい」
と言うしかなかった。
それから数年後、今度は長男が結婚した。長男は田淵さんを招きたいとは言わなかった。
「どうして? お前だって結構御世話になったろう」
と聞くと、
「だってあの人、お祝いの袋に10万円入れた人だろう? 来て欲しいけどさ、ご迷惑を考えるととても声はかけられないよ」
と応えた。
なるほど、我が家の子どもたちは多少常識は持ち合わせているようである。親としては嬉しいことである。