11.19
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の38 どうしてコンサルなんかを使うんですか?
そろそろ、田淵さんの話を終わられねばならない。
田淵さんを追い回していた証券担当のころ、私はカバンに小さなノートを入れていた。田淵さんの言葉を記録するためである。書き込むのは田淵邸を辞して帰宅するハイヤーの中である。1時間、2時間雑談したあと、心に残った言葉をメモした。
もっとも、田淵さんのお宅に上がり込めば、必ず酒が出る。お互いに男気が表面に出るタイプだ。勢い、酒のピッチが上がる。できるだけ多量の酒を飲み、酔ってみせるのも男気のなせる業である。
だから、メモを取るときはかなり酔っている。
「あれ、何だか大事なことを聞いた記憶があるが、何だっけ?」
と酔眼をこすりながら考え込むこともしばしばだった。だから、本当に記憶に刻まれたことしかメモはできなかった。
その上、いまそのノートが手元にない。いつか、どこかで紛失したためである。だから、これまで書いてきた田淵さんの話は、すべて私の脳裏に刻み込まれた記憶に頼っている。
「大切な話をもっと聞いたはずだ」
と思うのだが、74歳の頭脳は働きが悪く、記憶装置にはかなりがたが来ている。だから、もっともっと書きたいが、これ以上書くことが思い出せない、というのが残念ながら実情なのだ。
今回は、最後の絞りかすの記憶を並べてみたい。
「田淵さん。野村證券はどうしてコンサルなんかを使うんですか?」
と聞いたのも、ある夜回りの日だった。野村證券が確か3000万円という大金で企業コンサルタントにアドバイスを依頼した、という話を聞き込んだからだ。
「だって、コンサルなんて、報告書のひな形を持っていて、そのどれかに依頼企業をあてはめて報告書を書くだけでしょう。あなたみたいな経営者がいる会社にそんなものは必要ないと思うんですが」
田淵さんは正面から応えてくれた。
「あのなあ、企業という組織は、社長が右向け右、といってもなかなか右を向いてくれないものなんだ。社長がいってもなかなか右を向かない連中も、外部の、コンサルが言えば、『そうなのか』と右を向く。それが日本の企業の習性だ。困ったものだと思うが、それが組織の実情だから大きな金を使ってコンサルを頼まねばならない」
でも、あなたが右を向かせいたと思っているのに、コンサルが「左を向け」という報告書を書いてきたらどうするんですか?
「大道君、頭を使えよ。俺がそんなことをさせると思うか?」
というと、報告書の結論はあなたが指示をするのですか?
「当たり前だ。俺が社員に徹底させたいことをコンサルに説明し、その趣旨に沿った報告書を書いてもらうんだ。大枚の金を払うんだから当たり前だろう? そうやって野村證券を右に向かせるんだ」
様々な話を田淵さんにうかがった。緊急の取材で車載電話に連絡を入れれば、必ず質問に答えてくれた。役員人事を聞いたこともある。いずれにしても、電話で情報が取れるようにはなったが、田淵さんの話でたいした記事を書いたことはない。損失補填など野村證券を巻き込んだ大きな事件が起きたのは私が証券担当を卒業した後である。私が担当したのは相対的に穏やかな時期だった。バブルに浮かれて問題が覆い隠されていた時代ともいえるかもしれない。だから、田淵さんとの仲を取材に活用できたことはほとんどなかった。
それにしても、田淵さんは何故私に、そこまで心を開いてくれたのだろう? そんなことを何度か考えた。
私の擦り寄り方が上手かったのか? だが私にはゴマをすれない人間である。田淵さんに心酔してからは、あるいは第3者が見たら
「何をゴマすってんだよ」
という言動があったかもしれないが、それは私が心かそう思って言ったりやったりしたことに過ぎない。
そももも、前にも書いたが、田淵さんはゴマすりを嫌った人である。私がゴマをすって擦り寄ろうとしたら、きっとはねつけられていたに違いない。
気が合ったのか。田淵さんは私より17歳年上だった。お互い70歳を超えてしまえば皆同年代になるが、当時田淵さんは50歳代、私は30代の終わりである。17歳の年の差は大きい。そんな先輩—後輩の間で、本当に気が合うということがあるだろうか? 田淵さんから私を見れば、せいぜい
「知恵も知識も足りないが、それでも向かってくる可愛い弟子」
程度のことだろう。気があったから心を開いたとは思えない。
恐らく、田淵さんはマスメディア界に自分を理解してくれる人物を求めていたのではなかろうか。大タブと呼ばれた田淵節也さんは人垂らしで、マスメディア界には日本経済新聞のNa、朝日新聞のTsuという窓口を持っていた。社長になって以来、野村證券を率いる立場としてメディアと付き合う上で、信頼できる記者を得たい、という思いがあったのではなかろうか。
そこに、ノーテンキな私が接触を始めた。なんだこいつ、いろいろといちゃもんをつけてくる割に、何にも知らないんだなあ。そんな第一印象から始まった私との接触が、毎週1回顔を合わせることで深まる。そして、ほかには私に匹敵するほど通って来る記者はいない。
「ま、こいつを鍛えるしかないか」
と田淵さんが観念したとしても、私はありがたく思い、光栄に感じるばかりである。
スペインに出張した田淵さんが、私と我が妻女殿にスペイン土産を持って来てくれたことがあった。LOEWE(ロエベ)のネクタイと女性用のバッグである。自分では手が出ない高級品だが、私はもうネクタイが必要な服とはほとんどおさらばしたから、ネクタイはどこかにしまってあるだけ。バッグは妻女殿が大事に保管されている。
この時もお返しを考えた。確か、田淵さんに何かの祝い事があったときである。私はネーム刺繍入りのネクタイを贈ろうと思った。ネクタイの下の方に、斜めにY. Tabuchiと刺繍が入っていれば格好いいではないか。
日本橋の高島屋に出かけ、Dunhillのネクタイを買い求め、
「これに刺繍を入れて欲しいんだが」
と頼んだが、
「ネクタイは生地を斜めに裁断しているので、刺繍を入れると全体が捩れてしまいます」
といわれ、刺繍は諦めてネクタイだけを贈った。あのネクタイ、田淵さんはしてくれたのかな?
私がデジタルキャスト・インターナショナルに出向中、田淵さんから電話をもらった。
「実は孫娘が、テレビ局に入りたいといいだしてな。君、確かいまの仕事はテレビの連中と一緒にやってるんだろう。誰かに話を聞けないだろうか」
孫娘、Maちゃんはまだ幼い頃から知っていた。御次男の娘で、人形のように可愛かった。「おじいちゃま」が大好きでまとわりついている姿を何度も見たのだから、私は休日も田淵邸を襲っていたのかもしれない。田淵さんも目に入れても痛くないほどの可愛がりようだった。そうか、あの可愛らしい子がもう大学を卒業する年齢か。
仲が良かったテレビ朝日の社員に頼み、私と一緒にMaちゃんに会ってもらった。あの可愛い子がすっかり娘になり、テレビ局の仕事、入社試験を受けるについての注意点、テレビ局が求める人間像などについて熱心に質問を重ねていた。
「この子、テレビ朝日に入るのかな?」
と思っていたら、後日田淵さんから
「おかげでフジテレビに採用が決まった」
との電話を頂いた。そうか、それは良かった。私がテレビ朝日社員に引き合わせたことが多少なりとも役にたったのなら幸いである。
ただ、当時は高視聴率を誇って常勝であったフジテレビはこのところどん底にあるといわれる。逆に低迷していたテレビ朝日は、いまや日テレと並ぶ勝ち組になった。Maちゃんももう中年婦人だろう。士気が落ちたと思われるフジテレビで、それでも元気にやっているだろうか。
というわけで、私の頭に残っている田淵さんはほぼ書き尽くしたようである。かき混ぜればもっと出てくるかもしれないが、まあ、それは出て来たときに任せて、とりあえず田淵さんから離れることにしよう。
最後に、あらためて田淵さんのご冥福を祈りたい。