12.03
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の52 高天原景気
民間出身初の女性閣僚として高原須美子さんが経済企画庁長官に就任したのは、記録を調べると1989年8月のことである。記者クラブでの就任会見に出た記憶があるから、当時はすでに経済企画庁担当になっていたらしい。
高原さんは元毎日新聞記者。結婚を機に退社するが、その後経済評論家として活躍していた。もっとも、当時は女性であることだけで実力以上の評価が集まる時代だったから、本当の実力のほどはよくわからない。
だが、元新聞記者、民間出身ということで注目を集めた。そして、何故か私と仲良くなった。一緒に飲みに行ったこともある。行き先は「グルメらかす」の監修をしてくれたあのカルロス=児玉徹君の店、「ラ・プラーヤ」である。当時は新宿にあった。
2人でスペイン料理とワインを楽しんだ。
「おいおい、まだ飲むのかよ」
と内心でつぶやくほどの酒豪だった。ここの料金、俺のポケットマネーから出るんだわ。もう少し遠慮してくれない? この店、そこそこ高いんだから。という言葉がせり上がってくるような飲みっぷりだった。
そんな付き合いがあったからだろう。高原さんが自宅で開くパーティに何度も招かれた。記者として、評論家として親交があった人々が寄り集まって飲む。大臣になってから付き合いだした人も幾分かは混じっていたかも知れないが、どういうわけか、どんな人がいたのかは全く記憶にない。
1989年。バブル真っ盛りである。その時代の経済企画庁長官。恐らく、高原さんは舞い上がったのだろう。ある記者会見で失言をしてしまう。
「この景気上昇局面に名前をつけたい。戦後の日本経済には神武景気(1954〜1957)、岩戸景気(1958〜1961)、オリンピック景気(1962〜1964)、いざなぎ景気(1965〜1970)といった上昇局面がありました。今回は1986年から始まっています。まだまだ続いて戦後最長の上昇局面になりそうです。何かいい名前はありませんかね」
さて、突然そんなこと入れても、と私を含む記者たちは沈黙を決め込んだ。
「そうですか。だったら、私、考えたんですけど、高天原景気はどうでしょう? これまでも神話に執った名前が結構あるでしょ。神武景気(神武天皇が即位して以来の景気)、岩戸景気(天照大神が天岩戸に隠れて以来の景気)、いざなぎ景気(日本列島を作ったといわれる伊弉諾尊=いざなぎのみこと=にちなむ)ね。だから、神様が生まれた高天原にちなんでもいいのかなあ、と思って」
おずおずと質問したのは誰だったろう? 私だったような気もするし、そうではなかったという気もする。
「あのう、それは高原さんにちなんでもいるんですか? 高原の間に天を入れれば高天原ですから」
「あれ、ばれちゃった?」
と彼女が笑ってごまかしたかどうかも記憶から消えている。あの時彼女はどんな反応を示したのだっけ?
ただ、彼女の発言を揶揄する記事を書いたような記憶がある。仲の良さと何を書くかは別なのだ。舞い上がった大臣には、あなた、舞い上がりすぎじゃない? 程度の記事を書かねば新聞記者をやっている甲斐がない、
結局は1986年に始まり、1991年に終局したといわれる景気上昇局面はいま、バブル景気と呼ばれているようだ。
それでも彼女は、記者たちには評判がよかった。いわゆる政治家臭も官僚臭もなかったからだろう。
高原さんの在任は短かった。わずか半年後の1990年2月、時の海部政権の内閣改造で相澤英之氏に交替した。
「高原さんの追い出しコンパをやろうか?」
と言い出したのは誰だったか。誰が言い出したにせよ、その時のクラブ幹事は朝日新聞の私だった。やるのなら思い出深いものにしなければならない。私は記者クラブの事務を担当している女性に問い合わせた。
「ねえ、いまクラブ費はいくらある?」
クラブ費とは、記者クラブに加盟している各社が毎月納める金である。その金からクラブに必要なものを買う。新聞、週刊誌、コーヒー、お茶などが主な出費となる。
そういう金の使い方はずっと引き継がれてきたものだろう。だが、と私は考えた。クラブに必要なものに出す金だったら、大臣の追い出しコンパに使ってもいいのではないか? そう、クラブ費で追い出しコンパをやろうというのである。
「20万円ほどあります」
その返事を聞いた私は、あのカルロス=児玉徹に連絡を入れた。
「高原さんは知ってるよな、俺が店に連れて行ったから。その高原さんが大臣を辞める。それで、記者クラブで追い出しコンパをしようと思っているのだが、金が20万円ある。この金でお前がやってくれないか?」
やってくれないか、とは料理から酒まで20万円で引き受けてくれということである。何しろ、クラブ員だけで数十人いる。それに高原女史が入り、お付きの役人、経済企画庁の偉いさんたちまで顔を出すだろう。そうすれば50〜60人が飲んで食うことになる。カルロスが用意するのはワインだから、20万円ではとても足りないだろ。そこを何とかしてくれ、というのが私の求めであった。
「冗談じゃなかばい! そんな金で出来訳なかろが!!」
という怒声も覚悟した。しかしカルロスは
「ああ、よかばい」
と2つ返事で引き受けてくれた。持つべきものは友である。
当日、カルロスは開始時間より遙かに前に記者クラブに顔を出し、料理の準備を始めた。パエリアは覚えているが、ほかにはどんな料理があったか? 確か生ハムもあったと思うが……。
私には別のプランがあった。これは一種のパーティである。であれば音楽がなければ寂しい。そう考えて、自宅からクリスキットのプリ、メインアンプ、CDプレーヤー、そして自作の120リットルの箱に入れた16㎝スピーカーを記者クラブに車で運んだのである。自宅でサブシステムとして使っていた一式だ。そして、記者クラブにセットした。
「オープニングの曲は何がよかろうか?」
そんなことも考えた。確か、モーツアルトを選んだはずである。それともベートーベンの「皇帝」だったか。
こうして始まった追い出しコンパは、御想像の通り盛り上がった。次々にワインが抜かれた。酒豪の高原さんはすっかり酔っていたと思う。
しかし、だ。中央官庁の記者クラブで、こんな飲めや歌えやの宴会を仕掛けたヤツが、私以前にいたろうか?
やっぱり私は、何となく変わった記者だったらしい。
高原さんは2001年8月、悪性リンパ腫のため68歳で亡くなった。あの追い出しコンパの想い出をあの世まで持って行ってくれただろうか?