12.05
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の54 実力部長と喧嘩をしてしまった……
記者会見が始まった。経済部長の友人は大学教授(確か、筑波大学だった)を連れていた。この教授の研究を発表するらしい。
地価を引き下げる方策——それは、不動産を小口の証券にすることだった。土地であれビルであれ、細かく分けて証券化し、一般に売りに出す。こうすれば不動産価格が下がるというのだ。
聞きながら、
「何故?」
と思った。証券化して売り出せば、なぜ価格が下がるのか? そのメカニズムがさっぱりわからない。
理解できないことは何度も繰り返し聞かねばならない。何しろ、こちらは読者に情報を届けるのが仕事だ。自分で理解できない情報は届けようがない。
そんな繰り返しの中で、教授の論が少しづつずれ始めた。
「下がりますよ」
がいつの間にか
「ええ、下がらなくてもいいんです」
に突然変わった。唖然とする私たち記者に、彼は言い放った。
「いいじゃないですか、不動産価格が上がっても。小口の証券にして多くの人に買ってもらえばみんなが値上がり益を受け取れるわけですから」
おいおい、地価を、不動産価格を引き下げる方策を考え出したのではなかったのか? それが
「価格が上がっても、みんなが値上がり益を受け取れるからいい」
とは。あんた、本当に大学で学生にものごとを教える先生なのか?
記者会見は1時間ほどで終わった。最後は水掛け論になり、これ以上続けても無駄だと判断して打ち切った。発表団が部屋を出ると、私は回りに聞こえるように独り言を言った。
「こんなアホな話を記事に出来るわけないじゃないの。俺、書かないからな。変なものを引きずり込んで悪かったわ」
あちこちで賛同する声が上がった。そう、これは記事にはならない。
ところが、である。翌朝、日本経済新聞にこの記事が掲載された。
「何だ、君は書いたんだ」
「いや、ごめん。ほかに書く記事がなかったから、つい」
ほかに記事にするネタがないから生まれた記事。そうか、この日経記者もサラリーマン記者の端くれか。日経にはいい記者が揃っていると思っていたのだが。
だが、これで一件落着のはずだった。そんな思いでいた私に、経済部長から電話がかかってきたのは昼過ぎのことだったと思う。
「大道君、あの件だが、昨日発表があったんだね」
「はい、昨日発表してもらいました」
「それなのに、朝日の今朝の朝刊には記事が載っていない。日経にはあったが」
「とても記事になるような話ではないと判断して没にしました」
「どういうことかね」
「最初の触れ込みは、地価、不動産価格を引き下げる方策を提言するとのことでした。それなら面白いと聞いていると、彼らは不動産を小口の証券にして一般に売り出せば価格が下がるというんです。証券化で価格が下がるメカニズムを聞いても、答えてくれませんでした。そもそも、値下がりが見込まれる不動産を小口証券にして、いったい誰が買うというんです? そんなことを追求していたら、『下がらなくても、みんなが値が利益を手にできるからいいではないか』というんです。もうメチャクチャな説明で、だから没にしました」
「それで君は、原稿を書かなかったというのかね」
このあたりから、部長の声に苛立ちが混じり始めた。いや、怒りだったのかもしれない。
「はい、そうですが」
「君は、君の考えにそれほど自信があるのか?」
はっきり、怒りが前面に出たようだった。俺、何か怒らせることをいったか?
「はい、私の方がまっとうだと思います」
「そうかね、だったら筑波まで行ってその教授と議論して来いよ、君!」
何で俺が怒られねばならない?
「はい、わかりました。行ってきます」
電話が突然切れた。
「何なんだ、この電話?」
最初はその程度のことしか考えなかった。むしろ、むかついていたといっていい。私にとって重大な意味を持つ電話だったと気が付いたのは1時間ほどした頃だった。
「えっ、俺、部長と喧嘩した?」
その頃の部長は、将来社長になるといわれていた。そして、現に社長になっちゃった。そんな実力部長と言い合い、喧嘩をしてしまった!? 発表を書かなかったことで、友人に対する部長のメンツを通してしまった?
この部長、福岡の出身で、私の大学の先輩だった。それもあってか、時々飲みに誘われた。あまり楽しい酒ではなかったが、誘われれば断れない。
そんな付き合いが続いていたからだろう、
「大道は贔屓されている」
というやっかみにも似た陰口が経済部内でささやかれていたことも知っていた。冗談じゃない、大学の先輩の贔屓を当てにするような私ではないぞ、とは思っていたが、人の口に戸は立てられない。そう、野村證券の社長か会長から電話1本で情報を撮れるようにしろと無理難題を命じたのもこの部長さんだった。
「その部長を怒らせてしまった?」
この言い合いも、理は私にあるとは思っていた。部長が言うことはどう考えてもおかしい。第一、取材の前線にいる記者に判断の自由を与えずに、単なるライティングマシンにしてしまったら朝日新聞に未来はないだろう、とも思った。
しかし、何をどう考えても、私は実力部長の怒りを買ってしまったようなのだ。
「…………」
胃が痛くなった。これで朝日新聞記者生活の先も見えたか?
胃痛は翌日も続いた。翌々日も痛かった。だが、3日目。
「悩んだって、覆水盆に返らず、というではないか。いっちゃったことはどうやったって取り消せないんだから、悩むだけ無駄じゃない?」
胃の痛みがなくなった。私はどうやら、こんな性格なのである。いつまでもウジウジと後悔を引きずるのは私ににあわない。仕方ないじゃん、どんな扱いを受けようと。殺されることはないさ。
私は元気を取り戻したのである。
そうそう、筑波まで出かけてあの教授と論争することもなかった。論争なら記者会見の席で散々やったのである。あれ以上論争しても無駄ではないか。
部長さんにいってしまったことを平気で実行しない。その程度の図々しさも私は持ち合わせているようである。