12.10
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の4 東海銀行の不正融資事件
それにしても、私は東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)とは、何か不思議な縁で結ばれていたようである。1回目の名古屋勤務では札幌支店長が外国銀行に頼まれ、融資の紹介状を書いた事件を追いかけた。そして2回目の勤務では、秋葉原支店の不正融資事件を追いかけることになった。
東海銀行からすれば、銀行の不祥事を先頭に立って暴き立てる厄介な記者だったろう。しかし、こちらから見れば
「なんで俺がいる時にばかり事件を起こしてくれるんだ」
といいたいところである。
事件の概要はもうほとんど忘れてしまった。ネットで検索すると、1990年秋から91年6月にかけての事件である。東海銀行秋葉原支店の支店長代理が預金証券を担保に入れるための質権設定承諾を偽造、ノンバンクから630億円の融資を不正に引き出した。
これも確か、第1報は東京経済部だった。しかし、その記事が紙面に出た日から、主戦場は名古屋になった。私は金融担当ではなかったが、兵隊頭はこのような大事件では取材前線の指揮を執ることになる。
東京発の第1報では、金融取引にからむ不正があったらしいが、いったい何が起きたのかは要領を得なかった。私たちの取材は、
「何が起きたのか」
を知ることから始まった。
詳細が分からなかったのは、名古屋市の東海銀行本店も同じだった。それが分からないことには後始末もやりようがない。そのためだろう、当初は東海銀行への取材は「情報交換」だった。朝日新聞が入手した情報を教え、東海銀行の内部調査で分かった話を教えてもらう。頭取宅に夜回りに行って
「こんなことが分かったのですが、頭取はご存知でしたか?」
「いや、そうですか。そんなことがあったのですか。知りませんでした」
などの会話を繰り返した。
広報担当者が
「いま会えませんか?」
と電話をよこし、指定場所に行くと
「こんな話があるのですが、朝日さんでは確認されていますか?」
と聞いてくることもあった。広報として行内を取材したが、聞いた話に確信が持てない。朝日新聞だったら、この件に関して裏付けのある情報を持っているのではないか、と考えたらしい。
いってみれば、この段階では東海銀行本店と朝日新聞は蜜月関係にあった。お互いの情報を持ち寄ることで事件の全体像を明らかにし、東海銀行は後始末をし、朝日新聞は記事にする。それぞれの狙いは別だが、どちらも正確な情報が欲しかった。
そんな具合だから、朝日新聞は特ダネを書き続けた。
新しい内閣が発足してからの100日間は、メディアは批判報道を控えるという習慣があるそうだ。この期間を「ハネムーン」と呼ぶ。だが、その「ハネムーン」もたかだか100日間である。東海銀行と朝日新聞の「ハネムーン」は、事件の全体像が見え始め、東海銀行の事後処置が問題になりはじめると終わりを迎えた。そもそも、立場が違うのだ。遠い記憶だが、銀行は一部の不心得者が起こした事件ということで処置しようとしたのに対し、
「いや、それは違うんじゃないの? 銀行の体質に事件を引き起こす根っこがあったんじゃないのか?」
という迫り方をしたのが私たちである。銀行の体質が事件を引き起こしたのなら、ほかにも同じような事件があるはずだ。私たちは大阪の証券会社にまで足を伸ばし、同種の事件があったことを記事にした。朝日新聞があまりに先行し、東海銀行の恥部とも呼べる部分を掘り出すので、東海銀行の幹部が朝日新聞名古屋本社のトップ(名古屋本社代表、といった)に
「何とかなりませんか」
と泣きを入れてきたとも聞いた。しかし、何ともなるわけはない。正確な情報をいち早く読者に届けるのが新聞の使命なのだ。
そんな取材を続けながら、私は不思議な感覚に囚われた。一刻も早く事件に幕を引きたいのだろう、弥縫策としか思えない手を打ち続ける東海銀行に対し、私たちは
「膿を全部出さねば健康体には戻れない」
と取材に力を入れた。そしていつの間にか、
「東海銀行の再生を心から願っているのは、取材している私たちではないか? 東海銀行は根本治療を避けて対処療法にばかり力を入れている。どちらが東海銀行をより大切に思っているのだろう?」
と考えるようになったのである。思い上がりかも知れないが。
取材記者が不祥事を起こした銀行を、銀行経営者、銀行員以上に心底心配する。
「私は記者だ。それでいいのか?」
何となく、不思議な気分になった。