12.18
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の12 技術者の率直さ
「あ、みんな気が付いてはいるんだ」
技術者たちとの、まずは名刺交換、おずおずとした自己紹介で始まり徐々に熱が高まって約2時間ににもわたった懇談を一言に要約すれば、そうなる。私がトヨタ自動車の車に持つ不満は、懇談に出てきた技術者たちにも共通していたのだ 。私が指摘するトヨタの車の問題点のことごとくに、みんな頷いたのである。
こういう、技術者ならではの率直さを、私は大好きである。
では、なぜそれが解決できないのか? 記憶は曖昧だが、技術の制約、コストの制約、日本の消費者の好みなど、様々な「出来ない」理由が挙がったのではなかったか。そして、その課題を何とか解決していい車を作りたいという思いは、私に十分伝わってきた。
だが、彼らの熱気がその後のトヨタ車に活かされているかとなると、疑問点は沢山残るような気がする。
「レクサスも含めて、トヨタ車はトヨタ車ですよ。確かに故障はトヨタ車が一番少ない。なんで壊れないんだろうと思うほどです。でも、高速安定性とか、運転の楽しさとかになると、やっぱり昔ながらのトヨタ車でね」
とは、桐生の自動車修理工場社長の話である。
トヨタ自動車の別の技術者も
「車って違った方向に進んでいるような気がしてならない。初代のソアラは実に気持ちがいい車だった。燃費もよかった。それがモデルチェンジのたびに車重が増え、キビキビ感がなくなって燃費も悪くなった。いろんな新しい装備がつけ加わったためですよ」
ひょっとしたら、技術陣が思い描く「いい車」と、経営陣が思い描く「いい車」が違っているのかもしれないとも思うが、私には詳しいことは分からない。
懇談が終わったのは午後6時頃だった。再び渡辺さんが顔を出し、食事に誘われた。
「どうでした?」
と聞かれて、
「みんな、私と同じような思い、不満を持ってるんですね。トヨタもこれからいい車が出てくるんじゃないですか?」
と答えたように思う。
こうして、渡辺さんとのお付き合いは続いた。といっても、トヨタ自動車の担当記者はほかにいる。私がトヨタ自動車の記事を書くことはない。それでも渡辺さんとのお付き合いを続け、トヨタの記者会見があれば出来るかぎり参加したのは、名古屋の経済記者にとってはトヨタ自動車が最大の取材先だったからだ。ほかの名古屋企業についてのニュースは、おおむね中部ローカルの経済記事になる。しかし、トヨタ自動車なら鼻風邪を引いても全国ニュースになる。肺炎にでもなれば世界に飛び出すニュースにもなりかねない。名古屋経済部の兵隊頭である以上、トヨタ自動車の動向は頭に入れておく必要がある。肺炎にでもなれば、取材を手伝わねばならない。日常の付き合いは欠かせないのである。
渡辺さんとは、私が東京に転勤するまで、ほぼ3ヵ月に1回の割で酒席を持った。1年に4回。私たちはこれを
四季の会
と名付けた。
その後渡辺さんはトヨタ自動車の社長になられた。誰に質問しても同じ答しか返ってこないことから、当時のトヨタ自動車は「金太郎飴」と悪口を言われることが多かった。記者である私の質問に、率直に答えて下さる姿勢は、その中では特異だった。
「渡辺さんなら金太郎飴体質を変えてくれるのではないか」
と期待したが、あれこれの報道を見る限り、社長としての評価はあまり高くなかったようである。
「渡辺さんでも、トヨタというあの大組織を取り仕切るのは難しいのか」
読みながら、そんな思いにとらわれた私であった。