2024
01.13

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の68 宮路年雄という人

らかす日誌

足繁く、とまではいわないが、私は結構頻繁に城南電機を訪ねた。宮路社長がいればすぐに社長室に入って雑談を始めるが、たまに社長が外出中のことがある。そんな機会を重ねるうちに、事務方の女の子たちとも仲良くなった。

「ねえ、大道さん」

と、宮路社長のあまり知られない一面を語ってくれたのは誰だったろう。

「社長が、何度もクラブの女性を2号さんにしたことはご存知ですよね」

ああ、その程度のことは知ってるよ。金の力に惹かれる女って結構いるものなんだね。

「社長は2号さんを作ると、すごいんですよ。ブランドもののバッグや服をいくらでも買ってやるんです」

お金持ちだからねえ。羨ましい。

「ところが、そのうち上手く行かなくなって別れるでしょう。その時、社長はどうするか知ってます?」

いや、知りません。普通は手切れ金を渡すんじゃないかな。

「あのね、社長はいざ別れとなると帳簿を出すんです。その帳簿には上手く行っていた時に社長が買ってやったものがずらりと書いてあるんです。そしてね、『お前には〇〇万円使った。ほら、ここに計算してある。それを返せとはいわない。だが、お前にやった〇〇万円分、うちの店で働け』って、その女性を店員にするんです。もちろん、その間は無給ですよ。例えば買ってやったものが90万円で、店員の月給が30万円だとすると、3ヵ月のただ働きなんですよ。私、そんな女性を何人も見ました」

…………。
そこまでしなければ金というものはたまらないものなのか……。

城南電機の創業何周年だったか忘れたが、宮路社長に相談を持ちかけられたことがある。

「何か、いい引き出物はないやろか。何せ、うちの店の記念品やからな。そんじょそこらのものやったら面白うない。いい知恵はないかな」

聞かれて、ふと思いついたのは、ウイークエンド経済で連載した「ビジネス戦記」である。

「社長、あれを元にあなたの一代記を本にしたらどう度だろう。そうしたら、あなたが築き上げたものをみんなに知ってもらえるじゃないですか」

「おお、それはいいわ。だったら、あんた、書いてくれんか。ワシには講談社にコネがある。講談社から本を出せばいい」

こうして私は新聞に書いた原稿をもとに、本を書くことになった。もちろん、新聞連載用に取材したデータだけでは本には足りない。 改めて細部にわたって話を聞き、「僕の安売り商法―家電品安売り日本一社長の『商いの極意』」という本にまとめた。私はゴーストライターである。名古屋に単身赴任している時のことだ。しばらくの間、休日は電話による取材と執筆に費やした。
原稿が書き上がるとFAXで城南電機に送った。そのうち、講談社の担当編集者が名古屋までやって来て私の原稿を受け取った。

『新聞記者さんの原稿だから、あまり朱を入れずに済んで助かりました」

といって貰えたのが救いである。
その本は、Amazonで見ると1991年9月1日の出版である。そして1人だけが5つ星の評価をしてくれている。ひょっとしたら投稿者はサクラか? 現在は絶版のようで、古本で377円の価格がついている。

Amazonには、宮路社長の著書が「僕の安売り商法―家電品安売り日本一社長の『商いの極意』」を含めて6冊掲載されている。最初の本が私が書いたヤツだから、その本を見て2匹目のドジョウを狙ったゴーストライターが湧いてきたらしい。おだてに弱い宮路社長だから、

「ああ、ええわ」

と乗ったのではないか。
確か原稿料を頂いたはずだが、いくらだったか記憶にない。20、30万円程度ではなかったか。私に続いたゴーストライター諸氏は、さていくらぐらいの金をせびり取ったのだろう?

そして私も、その城南電機創業〇〇周年記念のパーティに招かれて出席した。それに、確か宮路社長の息子さんの結婚式にも招かれた覚えがあるから、私は宮路社長に可愛がられた記者であったことは間違いない。

宮路社長が公言するライバルは、ダイエーの中内功さんだった。2人は同じ関西出身、価格破壊で一世を風靡したのだから、ライバル視するのも頷けた。だが、中内さんは全国にスーパーダイエーを展開して大企業に育てた。それに対して宮路社長の城南電機は最盛期にも東京都内に6店舗を持つだけだった。ライバル視するには規模が違いすぎたともいえる。

宮路社長と親交を重ねるにつれて、私には城南電機が全国企業になれなかった原因が見えてきた。宮路社長は人を信用することが出来なかったのだ。安売りの原点である仕入れは、宮路社長の独壇場である。誰にも学ぶことも真似ることもできない特殊な仕入れだから仕方ないともいえる。だが、それだけでなく、日々の金勘定まで人に任せることが出来ないのが宮路社長だった。従業員が数十人の中小企業ならそれでも運営できただろう。だが、大企業になるには仕事を社員に任せる必要がある。そうしたなければ数千人、数万人の社員を抱える大企業にはなれない。宮路社長のように毎日全店舗を回って売上を集めるなんて出来ないのだ。城南電機は宮路社長の個人商店としてしか存在できなかったのだ。

1998年5月、宮路社長が亡くなった。69歳だった。息子が経営を引き継いだが、あの独特の仕入れが出来るわけがない。宮路社長の死去からわずか1ヶ月後、城南電機は廃業した。

「おい、城南電機の宮路社長ってどんな人だったんだ?」

と聞いてきた同僚がいた。私の「ビジネス戦記」をきっかけに、すっかりメディアの寵児なった宮路社長に感心を持ったらしい。私はしばらく考えて、こんな答をした。

「家電の安売りで時代を拓き、やがて時代に乗り越えられた経営者だったのだと思う」

やがて家電の安売りはネットが担うようになる。 価格.comが登場したのは1997年5月である。宮路社長が元気であっても、さて、価格.comに対抗できるような安売りが出来ただろうか?

家庭電化製品は安く売ることが出来る。そんな時代を宮路社長は先頭にたって切り拓いた。だが、安売りが当たり前になると価格.comが一世を風靡し、最初は

「とても価格.comと同じ値段では売れません」

といっていた量販店も、店頭でスマホを操作して価格.comの最安値を見せると、それと同じか、それに近いところまで値引きをするようになった。この時代に宮路社長はついて行けただろうか? 難しかった、というのが私の見立てである。

だが、家電安売りの時代を築いた名誉は宮路社長のものである。戦国の乱世に生まれ、天下布武を目指しながら途中で倒れた織田信長にも似た経営者だったと私は尊敬しているのである。