01.19
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の1 妻女殿が入院した
さて、3度目となった私の東京での仕事は、悲惨な話から始めなければならない。私が東京に帰任した直後、妻女殿が入院されたのである。膠原病の症状が急激に悪化したのだ。
私の車を使ったのか、それとも救急車を要請したのかは記憶にないが、とにかく、寝室で起き上がれなくなっていた妻女殿を川崎市民病院に運び込んだ。検査が行われ、直ちに入院が決まった。それが半年も続くなどとは、予想も出来なかったことだった。夏の初めだった。
妻女殿は病院に任せるしかない。取り組まねばならないのは、家事一切を引き受けていた主婦がいなくなった家庭をどう維持するかだった。
衣・食・住という。人間が生きていくのに最低限必要なものを並べた言葉だが、順序が違っていると私は思う。まず必要なのは「食」である。家があっても、服を着ても、食べ物がなければ生きてはいけない。「食」に続くのが「衣」であり、最後に来るのが「住」だろう。食べ物と衣服があれば、路上生活者を見れば分かるように、なんとか生きては行けるものだ。食・衣・住では語呂が悪いので順序を変えたのだろう。
妻女殿が入院しても、我が家には「衣」も「住」もあった。だが、肝心要の「食」はこれまで、妻女殿に頼り切っていた。
「我々4人の毎日のご飯、どうする?」
それが最大の課題だった。
私には、単身赴任中に身に着けた調理技術があった。だが、仕事がある。平日は家事に費やす時間はとれない。私に食事作りは無理である。
長男は大学浪人中である。加えて、家事などしたことがない。
幸い、長女が国立音楽大学附属高校の2年生だった。普通高校に通っていればそろそろ受験勉強に身を入れなければならない年頃だが、付属高校だから、そこそこの成績を残せば大学に進める。平日の朝食、夕食は長女が受け持った。
「女だから飯ぐらいは作れるだろう」
という決めつけは、いまなら女性蔑視になるのかもしれない。が、とにかく他に選択肢はなかった。中学1年だった次女も多少は手伝ったかもしれない。
だが、長女にも、完全な母親代わりは無理だった。
「平日は私が朝と夜のご飯はつくるけどさ、土日はいやだよ。お父さんがやってよ」
こうして私は、土曜、日曜は食事当番となった。
およそ半年間である。土日だけを数えても50日ほどある。その、朝・昼・夜の食事。
まあ、朝は比較的楽である。煮干しで出汁を取ってみそ汁を作る。悩むのは具を何にするか、程度である。そしてアジの開きや塩鮭を焼く。あとはホウレンソウのお浸し、漬物などを並べればよい。
昼? さて、昼はどうしたろう? 外食に頼ることが多かったか……。
考えなければならないのは夕食である。さすがに、朝と同じアジの開き、というわけにはいかない。名古屋で覚えた様々な料理を作ったはずだ。もやしの上に豚のバラ肉を乗せ、下から湯気をあてて蒸し煮する。生のアジを同様に調理する。パエリアも作った。カレーも大量に作ったのではなかったか。困れば野菜炒め。最期に少量の醤油を差して香りをつけるのがコツである。とにかく、「グルメらかす」で紹介したようなレシピを駆使し、何とか乗り切った。
一方で、週に1、2回は病院に見舞いに行かねばならない。ある時は、
「お寿司が食べたい」
という妻女殿のリクエストに応えるべく、病院近くの寿司屋まで走って1人前握ってもらう。アイスクリームが欲しいといわれれば、売っている店を探す。必要なもののメモを渡され、次回に届ける。顔を合わせても別に話すこともなく、淡々と必要とされる仕事をこなした。
その年、日本を猛暑が襲った。暑い。自宅でエアコンをフルに動かしても汗が流れ落ちる。あまりの暑さに耐えかねて、
「これはエアコンが寿命を迎えたのではないか」
と買い換えたのも確かこの夏である。
子どもたちは冷房の効きが一番いい私の寝室に寄り集まって寝るようになった。私の寝室に取り付けたのは、1回目の名古屋勤務の際、7月に生まれたばかりの次女が暑さのため全身にアセモが出来、
「これは可愛そうだ」
と思って初めて買った東芝製のクーラーだった。暖房機能がない単純な構造のためかすこぶる長持ちし、15年ほどたったこの夏も、我が家で一番効きのいい冷房機であった。その部屋で雑魚寝。
こうして、私たちは何とか、主婦のいない半年間を乗り切ったのだった。
半年間の入院。普通なら患者はめげるところである。しかし妻女殿は何故か元気で、やがて入院のプロになり、入院病棟で大きな顔をしておられた。不思議な性格の持ち主である。