2024
02.12

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の25 神田取材センター

らかす日誌

少し矛先を変える。

財界を担当している間、私のたまり場は神田取材センターだった。
取材先に部屋と電話を提供されているのがほとんどの記者クラブである。その記者クラブへの批判は年々高まっていた。たしかに、取材対象の一角に居を定めれば、取材に便利である。しかし、これだけの便宜を提供されてまともな取材が出来るか? 市民目線の記事が書けるか? 情報独占ではないのか? という批判は出るべくして出た批判だろう。
その批判に応えようとしたのだろう、朝日新聞は東京・内幸町のプレスセンタービルに1室を借りて取材拠点としていたのに続き、神田にも1室を確保、取材拠点として使っていた。経済団体や民間企業を取材する記者たちの記者クラブ室は経団連ビル内にあり、朝日新聞用の机、電話もあったが、

「朝日は取材先の便宜提供は受けない」

という姿勢の表れだったのだろう。もっとも、霞ヶ関の各省庁や日本銀行には記者クラブ室があって朝日も常駐記者を置き、地方に至っては朝日が独自に確保した取材拠点があるという話は聞いたことがない。中途半端

「朝日は取材先の便宜提供は受けない」

というポーズだが、問題意識をもたない他社に比べれば、多少はまともだったといっていいのではないか。

神田の取材センターは経団連ビルに近い立地から、経済部が独占的に使っていた。自動車業界、流通業界、家電メーカーなど民間企業を担当する記者、特集の取材を継続中の取材班などがこの部屋を使っていた。財界担当である私もここが拠点だった。

神田取材センターは朝日の民間担当記者のたまり場だから、私の仕事に関係する話はない。ただ、2つだけ書いておきたいことがある。

朝日新聞経済部には様々な分野を担当する記者がおり、それぞれの記者クラブに所属していた。複数の記者が所属するクラブには、部下を取り仕切るキャップがいた。日本語で言えば班長さんというところだろう。そして、官庁担当で上がりのポスト、つまり次はデスクになるのが確実な「デスク心待ち」班長は財研(財政研究会=大蔵省担当)キャップであり、民間では日銀(日本銀行)キャップだった。デスクにならなければ部長への扉は開かない。部長にならねば編集局長や役員になる道はない。朝日新聞で「出世」を志す者どもには、通らなければならない関門なのである、
その日銀キャップの話である。

私が財界担当だったころの日銀キャップは白髪交じりの小男だった。会社の後輩である。

「ねえ、大道さん、知ってます?」

と私に話してくれたのが誰だったのかは記憶にない。彼はこんな話をした。

「いまの日銀キャップなんですけど、〇〇クラブのキャップを捕まえて『君、俺のあとの日銀キャップになりたいか』といったんですって。まあ、日銀キャップはデスクへの足がかりですから、なりたい人が多いんでしょう。でもね、日銀キャップはそれに加えてこう言ったらしいんです。『俺のあとの日銀キャップになりたかったら、俺の靴を嘗めてみろ』って。どういうものなんでしょうね」

へえ、あの小男はそんな発想をするやつだったのか。聞いた話だから真偽のほどは確かではない。だが、

「出世主義者とはそんな発想をする人々なのか」

と強く記憶に残っている。
その靴を嘗めろと言ったといわれる日銀キャップは、時折神田取材センターに来て電話で取材をしていた。

「ねえ、いいじゃないですか。私とあなたの仲でしょう。教えて下さいよ」

ほう、そんな言葉で本当のことを引き出すことが出来るのかな、と疑問に思いながら彼の声を聞いていたものである。
そして彼は途中まで、出世の階段を駆け上った。取締役になったのだ。が、吉田調書問題や従軍慰安婦問題を巡る一連の捏造・誤報問題の責任を取る形で辞任した。あぁ。

もうひとつは神田における食生活である。
午後7時、8時になると新聞記者でも腹が空く。

『飯食いに行こうよ」

と声を掛け合って神田の町に出る。神田は飲食店が多い町である。適当に見繕って店に入り、食前酒、食中酒を楽しみながら腹を満たしたものである。

だが、出るたびにいいようのない違和感に捕らわれた。何となく、私が浮いているような気がするのである。いては行けない場所で酒を飲んでいる気がするのだ。どうしてだろう?

神田取材センターを拠点にしていても、時にはほかの町で食事をすることがある。ある日、新橋で飲んでいてふと気が付いた。この街で飲んでいると、違和感がないのだ。何となく町がしっくりと肌に馴染む。どうしてだろう?

ひょっとしたら、と思いついたのはしばらくたってからだった。
神田は中小企業の集まりである。大手企業はほとんどない。翻って新橋は大手企業、霞ヶ関の官庁で働く人たちの夜の町である。

「その差かな?」

と思ったのだ。
考えてみれば、私は経済記者として、ほとんどの時間、大手企業の社員、霞ヶ関のお役人を取材してきた。中小企業を取材するのは特殊な場合だけである。日本経済のほとんどが大手企業と霞ヶ関の経済官庁で動いている以上、やむを得ないことかもしれない。だが、取材を続けているうちに、何となく彼らの体臭が私にも染み込んだのではないか?
決して中小企業で働く人々を差別する気はない。現に、いま桐生でお付き合いをしているのは中小企業の皆さんばかりで、中には尊敬できる人もいる。なんとか会社を成長させようと研鑽を積み重ねる若い人たちと酒を酌み交わすのも私の楽しみの1つである。

そんな私が、神田に何となく違和感を感じたのだから、人の感覚は住む世界、接触する人々によって染められるものなのではないか、と思うのだ。

マリー・アントワネットは国民が貧困と食糧難に陥ってデモを繰り広げた時、

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

と口走ったといわれる。彼女には、食べ物がないというのはどういうことかを想像する能力が全くなかった。暮らしを取り巻く環境が人の感性、発想、考え方を形作る代表例である。

ひょっとしたら、東京経済部の記者であったころの私は、マリー・アントワネットをバカに出来ない男だったのかもしれない、と反省するのである。