2024
03.15

私と朝日新聞 デジキャスの6 私が営業局長に就任した

らかす日誌

楽しくて痛いラスベガス出張から帰国した私は、再び営業活動に力を入れた。16枠を売りきらねばならない。

デジキャスはBSの933チャンネルを使った。ここでデータ放送を流すには、まずBMLで書いたコンテンツがいる。当然制作料が発生し、デジキャスの収入になる。そして放送料が必要だ。地上波のテレビでCMを流すのに比べれば遙かに安いコストだが、それでもBML制作に数百万円はかかる。
なぜ数百万円もかかるかは私にはよく分からないが、恐らくBMLを書くスタッフの人件費を元に、書き上げる時間を勘案してはじき出した数字だろう。デジキャスではキヤノンから来た若手社員を中心に、BML制作部隊が毎日パソコンのディスプレーに目を向けながらキーボードを叩いていた。

「そんなにかかるんですか!」

と驚かれた。
だが、それでも16枠は少しずつ売れ始めた。

ある保険会社は広報課長さんがこのメディアに関心を持って頂いた。Ha氏をはじめとする我が方の技術陣を引き連れて何度も訪問した。そのたびにコンテンツの中身が固まっていった。
と書きながら、そのコンテンツがどんな中身だったのかは思い出せない。老残の頭脳は残念だがそんなものである。

アサヒビールはまず、広報部長さんを訪ねた。いつものようにビデオを見てもらい、あとは口頭で説明した。

「これ、いいですね。是非やりたい!」

ありがとうございます。

「それでお願いがあります。会長にデータ放送を説明して頂けませんか? 会長のOKが取れれば、あとは私の方で進めますので」

もちろん、必要とあればどなたにでも説明させて頂きます。会長にお目にかかることが出来る日程が決まりましたらご連絡下さい。

その日、墨田区吾妻橋のアサヒビール本社会長室でまたまたビデオを上映し、口頭で説明した。

「うん、これは面白いね」

と会長がおっしゃった。これはOKサインなのか?

「はい、これで会長のOKが取れました。あとは我々で進めましょう」

と広報部長さんが喜んだから、OKサインだったのだろう。

確か秋の初め頃には16枠が売り切れた。そして驚いたことに、私は8枠を売っていた。全体の半分を私1人で売ったのである。他の追随を許さない第一人者。説教営業もまんざら役に立たないわけではなかったようだ。

「大道さん」

と私に声をかけたのは、確かあのHa氏であった。

「ほら、富士通から来ている〇〇ね、大道さんが8枠も売ったのは、経済記者時代の人脈を生かして、社長、会長に売り込むトップ相手のセールスをしたからだ、っていってるよ」

〇〇氏とは、富士通で長く営業畑にいた中年男性だった。多分、元新聞記者、若い営業マンで構成された営業グループで、どう見ても自分が一番売るに違いないと思っていたのだろう。それが蓋を開けてみると、あてにしていなかった元新聞記者に大差をつけられた。そんな悔しさ、妬ましさがいわせたのに違いない。

「だけど、あなたは私の営業に付き合ってくれたよね。そんなトップセールスをしていないことは知ってるよね?」

「もちろん知ってるよ。だけど、あいつはそう思っているらしい」

長く経済記者を続けてきたとはいえ、私は何かを買って頂くために社長、会長に会っていたのではない。そんな思いを持っていたら、対等の立場で話が出来ないではないか。

「これを買ってちょうだい。お金をちょうだい」

とは私の口からは最も出にくい言葉なのだ。それは、いまに続く私の欠陥ともいえる。
が、世の人たちからは、自分ではなかなか会えない社長、会長と親しくしている経済記者とは、甘い汁をすすっている人種に見えるのか?

それに、である。結果的にだが、私は営業活動を通じて1つの教訓を得た。営業は上から入ってはならないということである。相手企業の、その仕事を担当する社員に売り込まねば後々失敗する。
確かに、社長、会長と親しければ、売り込むのはたやすいだろう。その地位にある人から見ればはした金といえる金額でテレビが使える。それまでの付き合いもあって簡単に買ってもらえるかもしれない。
だが、トップが決めた仕事を日々こなすのは下の社員たちである。いまでも仕事があるのに

「これ、社長が決めた仕事だから」

と見たことも考えたこともない仕事が上から降ってくる。面白いはずはない。面白くなければ力は入らない。こうして、データ放送は始めてみたが、担当者が力を注がないからコンテンツの改良もなく、ただただ最初に作ったコンテンツを垂れ流すだけになり、成果はほとんど得られないままやがて撤退してしまうことになる。

私が企業トップへのセールスらしきものをしたとすれば、担当部署である広報部の部長さんに頼まれて会長に説明したアサヒビールである。だがアサヒビールの放送はあまり長くは続かなかった。
会長の了解を取った広報部長さんは、若い広報課員2人に仕事任せた。この2人にとってみれば、天から降ってきた余分な仕事である。放送開始までに何度も繰り返した打ち合わせでも、熱意、あるいは新しいメディアへの関心、といったものはほとんど感じられなかった。担当者に意気込みがなかったのである。

他の7社は、データ放送を担当するであろう部署の担当者に営業をかけた。先に書いた保険会社は、広報課長さんが自分の仕事として始めたいと思ってくれた。自分でやろうと決めた仕事である。面白くないはずはない。広報課を挙げて熱心で、打ち合わせでもこちらからの提案、向こうからの提案が交錯し、いつも熱がこもったものになった。放送は結構長く続いた。

いずれにしても、私はトップセールスマンだった。会社の体を整えて4局制にしたとき、私は営業局長に就任した。あの富士通から来た〇〇氏は、5億円出資企業からの出向、元の企業で営業実績、年齢などから

「我こそが営業局長になるのだ」

と思っていたのに違いない。だがデジキャスは1円も出資していない朝日新聞からの出向者である私を営業局長にしたのであった。

16枠を売り切った私たちは、2度目の記者会見を開いた。この日の主役は営業局長の私だった。デジキャスの放送保身、そっから生まれた16の放送予定枠を売り切ったことを集まった記者たちに説明した。
1時間ほどの記者会見を終えると、記者席に座っていた朝日新聞電子電波メディア局長が

「大道、お前は記者会見が結構上手いじゃないか」

と声をかけてきた。経済部出身の局長だったが、この人に評価された覚えはない。むしろ私を経済部から追い出した偉いさんの1人であると思っていた。それだけに、褒め言葉をもらいながら違和感を感じた私だった。