03.17
私と朝日新聞 デジキャスの8 ローカル局の若手たちと親しくなった
デジキャスはBSデジタル・データ放送局であるとともに、データ放送用のコンテンツをBMLで制作する製作会社でもあった。BML制作組の棟梁は、キヤノンから来たあのHa氏である。彼と一緒に在京テレビ局を回った。系列を超えてデジキャスの技術を売りたい。
BSデジタル放送をしている局には
「わが社はBMLのコンテンツを作ることができます。御社の連動データ放送の制作を請け負わせて頂けませんか?」
と営業した。
アナログの地上波で放送している局には
「2003年7月には地上波もデジタル化されます。そうなれば連動データ放送は必須になります。いまからご一緒に準備を始めませんか」
が営業トークである。
BS朝日はデジキャスト同じビルに入っていた。いわば兄弟会社である。だから連動データ放送はすべてデジキャスで作成した。
WOWOWにも営業をかけた。私の記憶では、系列外で注文をくれた民放局はなかった。例外的に大量発注してくれたのはNHKである。NHKは自前でもBLM作成部隊を持っていたが、デジキャスに様々なコンテンツを発注してくれた。技術力はキヤノン人を中核としたデジキャスの方が上だったようだ。
それで仲良くなったのが、NHKでデータ放送を担当していたYoさんである。見たとこと、私と同年配。一見、「母に捧げるバラード」を歌った武田鉄矢に似た風貌だった。制作畑が長かったらしく、「シルクロード」などのプロデューサーだったこともあると聞いた。活字と映像、と畑は違うが、メディアで飯を食う仲間である。酒を飲むと話が盛り上がった。
ある日、酒の勢いで聞いてみた。
「このごろさ、NHKの番組が何だか貧乏くさく見えるんだよね。何でかな?」
「ああ、やっぱりそう見えるよね。制作費が大幅に削られていてさ。制作現場は少ない予算で番組を作らなければならないから大変なんだだよ」
テレビという媒体は、新聞に比べればはるかに金がかかる。まだ財界担当の時、時折NHKが大量の人員を記者会見に送り込んできたことがある。何か企業のスキャンダルが表沙汰になった時だった。財界人の反応をニュースにしようというのだろう。
そんな時も、新聞記者は各社1人である。ところがNHKは①担当記者②カメラマン③その助手④音を拾う音声担当者⑤その助手⑥全体の統括者(プロデューサー?)、と大人数である。たった1,2分しか流れないニュースを制作するのに、これだけの人数をそろえないと映像の収録が出来ない。ドラマやルポルタージュになるともっと大がかりなのだろう。それにかかる費用を削っているという。
当時、私はNHK受信料拒否の論理を貫いていた。三重県津市にいた時に始めた。NHKの集金人が来たら
「主人に黙って支払うと怒られるんです。主人の職場に行ってください」
というように妻女殿に申し渡していた。そして、1度だけ集金人がやって来て、妻女殿からその言葉を聞いた。私は集金人が私を訪ねてくると思ってたずなを引き締めていた。ところが、集金人が姿を現すことはなかった。
以来、全国を転勤して回ったが、一度もNHKの集金人の姿を見たことがない。たった一度の支払い拒否でブラックリストに載り、全国のNHKで情報が共有されたらしい。
だが、NHKが金に困り、制作費を削っている。それが番組を貧乏くさくしている。ふと、仏心が顔を出した。
「そうなんだ。受信料を払わない世帯がそんなに増えてるんだ。分かった。俺もいままで一度も払ったことはないが、これから払うよ。だから、担当部署に我が家に集金に行くようにいっておいてよ」
真面目に受信料を払おうと思ったのである。
ところが、それでも集金人は来なかった。私がNHKの受信料を払い始めたのは、桐生市菱町に引っ越してからである。
朝日系列ローカル局の若手社員も足繁くデジキャスに足を運ぶようになった。地上波のデジタル化を目前に、彼らもデータ放送を知らねばならなかった。
デジキャスの技術陣から話を聞く。終わればみんなで食事に行く。回数が重なると、親しくなる。中でも北陸朝日放送(HAB)のNo君とはすっかり打ち解けた。
彼は北陸朝日放送のサイドビジネスとして「金沢屋」という通販ショップを立ち上げていた。石川県の逸品を通信販売しようというのである。
知恵者の彼は、単に通販を始めただけではない。石川県んp逸品を知る人は全国に少ない。その商品群を通販で売るにはブランド力をつけなければならないと考えた。
ではどうしたのか。
北陸朝日放送は金沢市に本社を置くローカルテレビ局である。自分のメディアを使って
「これは石川県の逸品です」
と宣言したところで、広告だろうと受け取られるに違いない。賢い消費者はそう考えるものだ。
それにローカル局だから全国放送で
「これは石川県の逸品です」
ということも出来ない。客が地元に限られるのでは採算が取れる見通しは立たない。
そこでどうしたか。
選定委員会
を立ち上げたのである。県内の学識経験者、有識者など、この人のいうことなら間違いなかろうと受け取ってもらえる、いまでいえばインフルエンサーを数人に、選定委員を委嘱したのだ。北陸朝日放送は一切口を出さないこの委員会が
「これは石川県の逸品である」
とお墨付きを与えたものだけを販売するのである。ブランドの作り方としては実にみごとで、こんな知恵者が朝日グループにいたのかと嬉しくなった。
「その『金沢屋』をデジキャスでもやらないか?」
と誘った、いや営業をかけた記憶はあるが、実現したのかどうかは記憶から消えている。とにかく、何とも情けない年齢になってしまったものである。
そんなこともあったから、日を追って彼との親交は深まった。ついには
「大道さん、うちの局に来て下さいよ」
とまで声をかけられるようになった。金沢までの見に来いというのではない。役員としてHABに来い、一緒に仕事をしたいというのである。もっとも、それが実現することはなく、実現したのは酒を飲みに金沢まで出かけることだけにとどまった。
後に私は、朝日新聞を定年退職したら、どこかのテレビ局に行きたいと思うようになった。朝日新聞から地方局に天下っている連中の体たらくをローカル局の若手たちから聞き、
「俺が行った方がましではないか?」
と思ったのが1つ。加えて、
「ローカル局の経営は、やりようによっては面白いのではないか?」
と考え始めたのである。
そして、それは実現しかかった。ところが妨害するものが現れて桐生に来ることになったことは、もっと先に書く予定である。