2024
04.21

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の25 ホールのピアノあれこれ

らかす日誌

総支配人時代の想い出を、あといくつか書いておきたい。

浜離宮朝日ホールには4台のフルグランドピアノが備わっていた。スタインウェイ(Steinway & Sons)が3台、ベーゼンドルファー(Bösendorfer)が1台である。ピアノという楽器は温度と湿度に敏感で、1年中一定の温度、湿度に保たれた専用の保管庫に置かれていた。演奏者は事前にこの部屋に足を運び、音を出して好ましい1台を選ぶ。するとホールのスタッフがその1台を舞台まで静々と運ぶ。

3台のスタインウェイのうち1台は木目で、後の2台は漆黒であった。演奏者のほとんどはスタインウェイを、それも黒に塗られたスタインウェイを選んだ。スタインウェイは工場生産されてピアノごとの個性が希薄なため、どの1台を選んでもいつも弾いているピアノとそっくりなため安心して弾けるのだと聞いた。
あまり選ぶ人がいなかったのが、木目の1台である。特別なピアノらしく、けん盤には象牙が貼ってあり。そのため、人工樹脂が貼られた普通のピアノに比べると弾き味が重いらしいのだ。
けん盤に張ってるものが象牙であろうと合成樹脂であろうと、重量、触れ心地にそれほどの違いがあるとは素人の私には思えない。ピアニストという人々は、余程敏感な指をお持ちの方々であるらしい。

その、あまり好まれなかった木目のスタインウェイは、同じ作りのものが日本に2台あると聞いた。1台は皇室にあるらしい。そしてその兄弟(ピアノ、は男性名詞らしい)が浜離宮朝日ホールにある。朝日ホールの総支配人とは、何かと皇室と縁があるのだ。
その事実に興味を惹かれたホールスタッフがいた。ホールにある木目のスタインウェイの出自を調べたというのである。製造番号で追いかけたらしい。

「そしたらね、大道さん。オランダ(だったと思う。不確か)まではたどり着いたんだけど、そこから先の記録がないんですよ。結局出自不明のスタインウェイなんです、これは」

出自がはっきりしないピアノを、朝日新聞はどんな経緯で手に入れたのだろう?

ホールのスタッフが好んだのは、スタインウェイよりベーゼンドルファーだったことはすでに書いた。私の耳にも、スタインウェイに比べたベーゼンドルファーは音色が甘く、何ともいえない色気がある音に聞こえて心地がよかった。
だからだろうか。ある日、ベーゼンドルファー日本法人の技術者を招いて(調律にやって来た人だったかも知れない)、ベーゼンドルファーの音色の秘密を聞いたことがある。
彼は熱心に説明してくれた。

スタインウェイとの最大の違いは側板にあるのだという。弦が張られた部分をぐるりと取り巻いている板である。
スタインウェイは1枚板を湯につけ、柔らかくなったところでピアノの形に無理矢理変形させていく。もちろん、機械でやるのだろう。思い通りに曲がったところで両端を繋いであの形にする。だが、どれほど柔らかくなった板であっても、曲げられれば反発力が生まれる。元の形になんとか戻ろうとする。それを力任せにあの形にしているから、どうしてもストレスが残る。
一方のベーゼンドルファーは、板にくさび形の切れ込みを何本も入れて行く。そうすれば板が容易に曲がってくれる。こうして板にかけるストレスを最少限度にとどめて側板の形を作る。ただ、それではくさび形に入れた切り込みの部分に小さな隙間ができることは避けられない。そのため、形が整った側板の隙間には木を細く削って埋めていくのである。機械で形を作る製造法に比べれば、何倍もの手間がかかるのは避けられない。

「だからベーゼンドルファーからはこんな音が出るのです。昔ながらのピアノ製造法をいまでも守っているのです」

と彼は説明してくれた。
なるほど、だからベーゼンドルファーは1台、1台それぞれのクセを持っており、敏感な耳と指を持つピアニストにはその個性の違いがあるため、ホール備え付けのベーゼンドルファーは敬遠されるのか、と納得した。
なお、ここの記述はあいまいになった記憶を掘り起こして書いた。ひょっとしたら記憶間違いがあるかも知れない。もし、間違いにお気付きの方があればご指摘をいただきたい。

また、ベーゼンドルファーは目で見ただけで解る特徴がある。普通、ピアノの鍵盤は88鍵だが、ベーゼンドルファーは92鍵97鍵のピアノも製造しているのである。浜離宮朝日ホールにあるのは92鍵盤で、低音が4鍵伸びている。その部分の鍵盤は黒く塗られていた。88鍵のピアノに慣れた演奏者が戸惑わないための工夫だろう。

私の長女は国立音楽大学のピアノ科を出た。ある時

「ホールのピアノを見たいか?」

と聞いたら

「見たい! 絶対見たい!! 弾いてみたい!!!」

といったので、総支配人権限で公私混同した。娘をピアノ保管庫に案内したのである。娘は目を輝かしながら4台のピアノ音を確かめていた。

「いいなあ、これ欲しいなあ」

それはそうかも知れない。しかし、いまお前が触っている92鍵のベーゼンドルファーが幾らするのか知っているのか? 3000万円だぞ、3000万円! 欲しければ自分で稼げ!

長女はいま四日市市に住み、ピアノ教室を開いている。使っているのは学生時代から愛用のヤマハ製セミグランドピアノある。どうやら、ベーゼンドルファーを買うだけの金は、、いやピアノを新しくするだけの金も稼ぎだしてはいないらしい。
音楽教育とは、ほとんどの場合、投資とリターンが釣り合わないものであるようだ。