2024
05.06

私と朝日新聞 桐生支局の7 桐生を盛り上げる記者になれないか?

らかす日誌

前回を引き継げば、松井ニットとのお付き合いの話になるが、話が長くなるので後まわしにすることにした。そこで、2009年4月1日から、私はどんな仕事をしたのだろう? と思ってスクラップ帳をめくってみた。

最初に出て来たのは山火事である。山肌に建った家から火が出た。消火が終わったと聞いて宮本町の官舎に戻っていたら、その火が山林に燃え移ったという。私がそれを聞いたのは午後8時ごろだった。住宅地が近いという。これはいかんと警察、消防、現場と飛び回っているうちに前橋総局長から電話が入った。

「現場近くに前線本部ができたというから、そちらを取材して」

前線本部が出来たということは、山林の火が住宅に燃え移る危険度が高まったということであろう。あわてて現場に車を走らせたが、前線本部など見当たらない。総局長に

「前線本部はいったいどこにあるのか。見つからないから所在地を教えてくれ」

と電話をした。総局長は東京経済部の後輩である。
前線本部ができたというのは、総局長が私に知らせてきたことである。捜しても見つからない。知らせてきた総局長が所在地を知っている、あるいは所在地を知る取材先につながっている、と考えるのは当たり前である。場所を教えて暮れさえすれば、私はそこに行って取材をする。
ところが、この総局長はろくなヤツではなかった。

「なに、場所を知らせろだと? そんなもの、現地で調べるのが当たり前じゃないか! 自分でやれよ」

と言い切ったのだ。現地で密からなっ〜問い合わせている。あまりに無礼な後輩の言葉に、私は電話をぶち切った。その足で桐生署に行き、前線本部の場所を聞いた。

「えっ、そんなもの、作ってはいませんが」

念の為に消防に電話をした。

「ありませんよ、そんなもの」

馬鹿馬鹿しくなって官舎に戻った。もちろん、前線本部などできていないという報告は挙げなかった。
群馬県の総指揮官が山火事取材の采配をふるうのはよろしい。だが、情報の真偽を確かめもせずに前線の兵隊を動かす。

「そんなもの、ありませんが」

という報告に、

「それを見つけ出すのはお前の仕事だ」

と言い放つ。
どこかおかしくないか? 指揮官が誤った情報を元に部隊を動かせば、本来は勝てる戦いも勝てないのではないか?

最近、「三国志」を読んだ。岩波文庫で全8冊である。さまざまな戦闘場面がある。そして、負ける側は指揮官が客観的な情報を無視間違った情報を信じ、己の先入観だけで始めるのが通例であると知った。

こんな男を群馬県の指揮官にして、大丈夫か、朝日新聞? 群馬県の朝日新聞記者はこんな男に振り回されているのか?
何だか情けなくなった。

スクラップブックで次に出てくる大事件は、桐生市の隣、みどり市で起きた贈収賄事件である。水道局の課長が浄水場工事である業者に便宜を図り、幾ばくかの金を受け取っていた。

あれあれ、まだこんなことをやっている連中がいるのかね。

桐生生まれの世界的ジャズピアニスト、山中千尋さんが、隣のみどり市の中学校でブランスバンド部員を相手に演奏したのも取材した。どうやら山中さんの企画でこのブラスバンドと協演することになり、そのリハーサルを中学校で開いた。そしてどうしたわけか、私は山中さんのお父上を桐生市天神町に訪ねた。喜んで取材に応じていただき、おいとまする際に

「いやあ、大道さんにはBMWが似合いますねえ」

と言っていただいたことが記憶にこびりついている。

7月になれば高校野球である。甲子園大会の群馬県予選は桐生球場でも3日間開かれ、毎日球場に通って写真を撮り、記事を書いた。初任地の三重県津市で担当して以来だから、実に30数年ぶりの高校野球記者である。津では事前の準備から始まって津球場での試合に全て付き合い、優勝校が決まった後は週刊朝日用の原稿を書き、とてんてこ舞いだったが、疲れは覚えなかった。
ところが、たった3日間の高校野球記者は、初日から支局に戻るとぐったりしてソファに転がった。

「60歳かあ……」

翌朝からは、確か出かける前に

School of Rock

のサウンドトラックCDを聞いた。疲れた時、このCDを聞くと、何となく元気が出るのである。

そんな日々を送りながら、私は1つの問いと向き合い続けた。

60歳の新聞記者は、桐生の地で何をすればいいのだろう?

こんな話がある。
朝日の記者がある日、たんぼ道を車で走っていた。するとラブホテルから出て来た車がある。あれまあ、こんな時間から羨ましいものだ、と見ていると、その車がハンドルを切り損ねて田んぼに脱輪した。乗っていた2人が車外に出て何とかしようとするが、何ともならない。記者は見かねて車を止めて手伝い、3人がかりで車を道に戻した。
これでいいと立ち去ろうとすると

「後ほどお礼がしたい。名刺をいただきたい」

と懇願され、やむなく名刺を1枚渡した。その名刺を見た2人の顔色が見る見る真っ青になり、あわてて車の飛び乗ると逃げ去ったというのである。

「ねえ、2人がどんな関係だったのか知らないが、あまり人に知られたくない間柄だったんだろうな。その2人が渡された名刺を見ると、『朝日新聞記者』って書いてある。これは記事にされてみんなに知られてしまう! とあわてたんだよ、きっと

お断りしておくが、そのようなことを朝日新聞は記事にはしない。だが普通の人々は、新聞記者とは知られたくないことをほじくり起こして記事にしてしまう恐ろしいヤツらだ、と思っているらしい。いってみれば、新聞記者とは嫌われ者の、敬遠される者の代名詞である。
私だって、新聞記者とは社会の木鐸だと思ってきた。人々が知るべきことであれば、万難を廃して取材し、記事にするのが使命だと考え、批判記事もそれなりに書いてきた。
やっぱりその路線を続けるのか?

「いや、待て」

と考えを固めるまでに3〜4ヵ月はかかったと思う。
もう目先のあれこれに捕らわれることはやめにしよう。目先の小悪を暴いても、世の中はちっとも変わらない。それよりももっと体ky補区間を持って世の中と付き合ってみたらどうだろう。
さて、私に取材が任された桐生の最大の課題は何か? 前任の支局長は腐敗撲滅が信条だった(だから怪文書まで流した?)ようだが、桐生はそれほど腐敗がはびこる町か? 私の目にはそうは見えない。
では、桐生の課題は何か? まちおこしである。産業振興である。もっと豊かな町にする事である。私のこれからの仕事は、桐生再興のお手伝いではないか? 新聞記事で何ができるかわからないが、私にできることは取材して記事を書くことだけである。それを通じて桐生を盛り上げる役に立てないか?

記者とは世の不正と戦う正義の味方、というイメージが強い。あるいは、そう思っている記者が多い。だから、私のように考えて実行した記者が、私以前にいたのかどうかはわからない。それでも、私はそう考えてしまったのである。

であれば、まず松井ニットを取材して記事にしたい。あの美しいマフラーの存在を1人でも多くの人に知ってもらいたい。1ぽんでもおおくhマフラーが売れること。それが町おこしの第1歩ではないか?
私は松井ニットの門を叩いた。