2010
03.15

2010年3月15日 イノシシ

らかす日誌

とりあえず、昨日の続きを報告しておく。イノシシである。

今朝、Sさんに電話を入れた。どうなりました?

「ああ、昨日昼過ぎに猟銃会の連中が来てくれまして。上手いもんですな。1発ですよ。たった1発で仕留めて持って行ってくれました」

檻を破って逃げ出さないうちでよござんした。

「しかし、あれぐらいになると重いんですな。死体がなかなか持ち上がらなくて。おじいちゃんが何とか抱え出してくれましたけどね」

というわけで、一件落着である。でも、射殺現場を見たかった。

「はい、次回は必ずご覧に入れます。また、いつでも遊びに来てください」

どうやら私に、すっかり親密感を抱いて頂いたようである。できれば、もっと若くて美しい女性に親密感を抱いて頂きたいものだが、世の中はままならない。

札幌の老人介護施設で火事が起き、7人が亡くなった。昨年は、ここ群馬でも、老人施設「静養ホームたまゆら」の火災で10人が死んでいる。

悲惨な事故である。体の自由がきかないお年寄りが多数暮らしている私設で火事が起きれば、逃げ出す体力、時には知力に欠ける人たちが集まっている以上、悲惨な結果は避けようがない。

「それにね」

というSさんは、頼まれて地元の老人施設で役員を務めている。ご子息はそこの職員でもある。

 「うちでは、夜勤はたった1人なんですね。いまの財政状況では、それ以上の夜勤はつけられない。たった1人で入居者を逃がすなんてほぼ不可能です」

そりゃあそうだ。財政が思うに任せない以上、職員数はギリギリのはずである。その職員に複数で夜勤をやらせたら、過労で倒れる職員が続出する。
ことは精神論の問題ではない。まず、お金の問題なのだ。

「それでも、入居希望者が列を作って待っているんですよ。それが現状です」

金の問題であれば、金があれば最初のハードルは越えることができる。だが、その金をどこから持ってくる?
国は40兆円弱の税収を元に、90兆円を超える予算を組んでいる。新しい金の出どこはない。
地方にも桐生市の現状を見る限り、希望はない。437億円の予算に対し、市税収入は138億円にすぎない。使う金の3分の1も、自分では調達できないのである。

NHKの午後7時のニュースで、東大教授が

「人力による救済がほぼ望めない以上、スプリンクラーを設置して火が燃え広がるのを防ぐなど、機械の力を使わなければ」

といっていた。ごもっともである。だが、国の財政、地方の財政は破綻寸前である。スプリンクラーの設置費用は誰が負担するのか? 1人しか夜勤に就かせることができない施設に、その費用負担を求めるのは酷というものだ。そもそも、スプリンクラーで火事が消せるのか?
では、どうすればいい?
いまのままでは、どこにも出口が見つからない。

さて、以下は私の妄言である。

現状では、老人施設で火災のどの災害が起きれば、多数の人が亡くなる惨事になることは避けられない。
であれば、発想を変えよう。惨事は、体や頭脳が不自由になった老人を1箇所に集めたから起きたのではないか? 介護が必要な老人を1箇所に集め、効率的に介護しようという考え方、政策の流れが、実は間違っているのではないか?
そもそも私は、老人なんだから老人だけのコミュニティで生きていけばいい、という考え方が嫌いである。老人でも、若者でも、中年でも、あらゆる世代と交流できる社会がいい。
スケベジジイ、と蔑まれようと、
口うるさいジジイと嫌われようと、
しわくちゃな老人とだけ付き合うより遙かに幸せだと思う。もちろん、自分がしわくちゃであることは横に置く。
私は、そう老いたい。スケベジジイになるか、口うるさいジジイになるかは別として。
だから、老人は分散して介護した方がいい。長年生きてきた場所で、最期まで生きていくのがいい。
社会は、地域は、家族は、効率を求めて老人を排除してはいけない。

反論、批判、非難が屋のように飛んできそうである。

お前は家族介護の大変さが分かっていない。
家族から見捨てられた老人はどうする。
まずニーズがあって、だから老人施設ができたのだ。その歴史を否定するのか。
自分が高齢者にさしかかっているからの発想ではないのか。

どれもこれも当たりである。特に、最後の批判、非難はチクッと胸を刺す。

だが、なのだ。1箇所に集めて介護するやりかたが破綻寸前にあるのなら、それを何とか取り繕うことを考えずに、違った方向を探った方がいい。
対象から距離を取り、全体をもう一度違った視線で眺め、違った可能性を探る。行き詰まった問題を解決するための、それが鉄則である。

そもそも、家庭での介護を進めるための方策がこれまで検討されたことがあるか。介護する家族の負担を減らす方策が実現されたことがあるのだろうか。
普通の家族関係を構築してきたら、親子関係が破綻していなかったら、老いた親を施設に預けたいと考える子は少ないはずである。なのに、家族だけでの介護は負担が重すぎ、疲れ果てて、ついつい親を邪魔者にする。
では、どうすれば、それほど無理をせずに、老いた親を自宅で介護できるか。まず、その支援策を考える。それが最初である。

だが、それでも、そうした子どもに恵まれない老人もいるだろう。その人たちには老人施設が必要だ。そこには、スプリンクラーも、必要なだけの夜勤職員も配置し、可能な限り安全な施設にする。

という体系が望ましい。家族に力をあてにできる分、費用は下がるはずである。その分で、老人施設の職員、防災施設を充実する。

そんなやり方はないものだろうか?

私には、札幌もたまゆらも、困ったお年寄りを何とか助けたいという善意が破綻した事件に見える。
17人の死を無駄にしないためにも、人生最後の日々を過ごすお年寄りたちが、よりよく晩年を過ごせる仕組みがほしい。

本日は、少し先の自分の問題でもあるためか、やけにマジになってしまった。読みにくいところがあったらお許し願いたい。