2010
03.14

2010年3月14日 見学

らかす日誌

「大変です!」

起き抜けに1時間弱散歩をし、やっと汗がひいたところで朝飯を食べていたら、Sさんから突然の電話が来た。

Sさんは元銀行員、と説明しても何の意味もない。
Sさんのご先祖は関ヶ原の戦いに敗れてこの地まで落ちのびた。最初は山の洞穴に隠れ、追っ手が来ないのを確かめて里に降りて勢力を伸ばし、この地に覇を唱える豪族となった。Sさんはその17代目である。
広大な土地と山と資産を受け継ぎ、世が世であれば大金持ちだったのに、戦後の農地解放で資産の大部分を失い、零落した。まあ、それでも家に連なる山、道路を隔てた山の持ち主で、敷地には蔵がある。のぞかせてもらったら、古文書があり、刀剣もあって、かつての勢力を偲ばせる。往事ほどではないが、いまでも豊かではある。

「農地解放のあと、まだ子どもだったんですが、ずいぶん虐められましてね。とうとう地元の小学校にいられなくなって、東京に転校しました」

資産階級に対する貧者の恨みを、この地で体験した。歴史の生き証人である。

そんなSさんとは、仕事を通じて知り合った。いまでは、大事な友人の1人である。
話を最初に戻す。

 「イノシシが檻にかかりました。たてがみのある立派なヤツです。猟銃会に連絡して射殺してもらいます。見に来ませんか?」

Sさん宅の敷地はいまでも広大だ。イタチもアナグマもハクビシンもイノシシも出る。特にイノシシは、庭を、畑を荒らす。だから、仕掛け付きの檻が設けられている。

 「こんな立派なイノシシは、なかなかお目にかかれませんよ。猟銃会が撃って死んじゃったら迫力ありませんし」

誘いに乗って、朝食を済ませるのももどかしく、車を走らせた。

立派なイノシシがいた。鼻筋に血が見える。

 「ヤツも危機感を持ってるんでしょうね。何とか抜け出そうと檻に体当たりして鼻のあたりを切ったようです。ほら、地面を掘ってるでしょう。もう少し掘られると、逃げられちゃうな」

一目でどう猛さが分かる。気分も苛立っているようで、檻の中を苛々と動き回っている。いま檻を破られたらことだ。体当たりでも食らった日には、とても無事では済むまい。どこか逃げる場所はあるか? 思わず周りに目をやった。

「近寄らない方がいいですよ」

何度もイノシシ被害に遭っているSさんはさすがに落ち着いている。

「猟銃会はまだですか?」

単なるイノシシなら、動物園に行けばお目にかかることができる。車を飛ばしてやってきたのは、射殺現場を見るためである。残酷なようだが、イノシシ被害で困っている地方ではどこでも行われていることだ。であれば、一度見てみたい。

「それがですね」

Sさんの顔が曇った。

「市役所に電話をしたんですよ。そうしたら、『今日は日曜日なので対応できない。月曜日まで待て』っていうんです。お役人って、何を考えているんですかね? 役所が休みの土日にはイノシシが出ないとでも思っているんでしょうか? ご覧になったように、あのイノシシ、一所懸命穴を掘っていますから、そのうち檻を破って逃げ出します。月曜日まではとても持たない」

ふむ、地方では、お役人は高給取りである。そもそも、市民の納める税金で暮らしが成り立っている。なのに、市民が困っていても、休日は働かないってか?
どこかおかしい。

「それで、猟銃会に電話をしたんですが、丁度いま、害獣駆除ってんでみんな山に入ってるんですね。電話が通じなくて」

ということは、あのイノシシは逃亡するのか? ほかの地区の猟銃会に頼んだらどうです?

「やったことあるんです。地元の猟銃会に連絡が付かないから、ほかの地区の猟銃会に頼んで殺してもらった。そしたら、地元の猟銃会に虐められまして。メンツをつぶしたとでもいうんでしょうか、役所に圧力をかけて、うちにある檻を3つも撤収されまして。おかげで、いま残っている檻はあれだけです」

まあ、ボランティア団体にありがちなことで。

「いや、特に桐生は了見が狭い。おかしなところですよ」

そうですか。なるほど。
でもねえ、私が考えるに、人間っていうヤツは、誰かに褒めてもらう、認めてもらう、ってことがないと生きていけないやっかいな生きもので、だから、自分が褒めてもらえる分野に固執する。桐生の猟銃会の方々って、きっと他の分野ではまったく相手になされない、家庭内でも厄介者で通っている人ばかりなんですよ。だから、唯一褒めてもらえる、イノシシをしとめる、って機会が奪われることに激怒する。可愛そうな人たちなんです。

「なるほど、そうかもしれませんな」

家系図が残っている家の17代に褒めて頂いた。家系図などない家の出の私としては、この上ない名誉である。

いや、私の理論は、ひょっとしたら間違っているかもしれません。でも、そう考えると笑えてきて、気が楽になるでしょ? 人間、怒っちゃだめ。苛立っちゃだめ。精神的なゆとりが大事です。

馬鹿話をしながらコーヒーをいただいた。この間、Sさんは何度も市役所に電話をした。

「市役所が、何とか連絡を取ってみると言い出しました」

それを信じて雑談を続けた。が、誰も来ない。やがてSさんは

「ごめんなさい。私、これからデートの約束があって」

と言い始めた。
何しろ、Sさんの銀行時代の先輩は、毎週2、3回、バイアグラを持参して東京に遊びに行くそうだ。行って、

「君ねえ、万札の1、2枚も出したら、付き合ってくれる女の子が絶対に見つかるんだよ」

と豪語する強者(つわもの)だという話を以前に聞いた。
そんな、私にはとてもできません。病気でも移されたらどうするんですか、なんて行ってたけど、はSさん、先輩を見習うの?

「ほら、これが僕の彼女で」

Sさんは携帯電話で写真を見せてくれた。丸顔で、目がパッチリした明るい顔の若い女性が写っている。美人である。
むむっ、オヤジ、なかなかやるな。写真をじっくり見た。何だか、どこかで会ったような美女だ。

「あれっ、Sさん、これって……」

NHKの朝のドラマ、ウェルかめの主役、倉科カナであった。

……、どうやらSさん、今日のデートの相手にはあてがないらしい。
にしても、Sさんはこんな女の子が好きなのか。奥さんとは似ても似つかないが。
まあ、男はロマンに生きる、と了解しておこう。

というわけで、私はイノシシの射殺を見ることができなかった。さて、あの猛々しいイノシシ、明日射殺されるのか、それとも今晩中に逃げおおせるのか。
明日、Sさんに聞いてみなければなるまい。