2013
09.11

2013年9月11日 数学の路

らかす日誌

周囲のあざけりの目にもめげず、私が高校入試問題の数学に取り組んでいることはご報告し続けてきた。

すでに「空間図形」にまで進み、解いた問題は392題。採点はしていないが、おおむね70点というところか。計算間違い、表記ミスによる計算間違い(計算して「2」になったのに、何故かノートには「3」と書き、ためにあとの計算がすべて狂ってくる)、単純な思い違い(平行でない線分を何故か平行と思い込むなど)など’を克復できれば、90点近くは取れるだろう。
そう、自分で思い込んでいたほど幾何の問題に弱いわけでもなく、そこそこ正解にたどり着くなど、意外な発見もある。
ただ、いかんせん時間がかかりすぎる。一つの問題を解くのに1時間かかるなんてのは日常茶飯事である。とにかく、じっくりと考えないと解けない。

だから、90点取れれば、どんな難関高校にも合格できるだろうが、90点取るのに10時間もかかっていたのでは話にならん。試験時間が1時間なら9点、2時間でも18点しか取れない計算だ。我が息子が、早稲田実業の入試で6点しか取れなかったことを思い出す。ま、9点なら息子より上か。
とにかく、早稲田実業、慶応、灘、筑波大付属の問題に難問が目立つ。
こういう高校を出た連中は、やっぱりひと味違うというべきか。

 

などと鬱になった私を励ます本があった。

数学の想像力」(加藤元史著、筑摩書房)

数学の正しさの根拠は何処にあるのか、という問題を出来るだけ分かりやすく解きほぐした本だ。

この本が、何故に私の鬱をはらしてくれたのか。
数学には、実は正しさの確かな根拠がない分野がたくさんあることを教えてくれたからである。

「えっ、数学って、必ず正しい答えがあるんじゃないの?」

だとしたら、私に解けない問題があっても、間違えてしまう問題があっても、当然である。

ねえ、皆さん、円の面積って、どうやって出すか知ってます?

「知ってるよ。πr2 じゃねえか」

まあ、そうなのです。中学を出た人は知っていて当然であるわけです。忘れちゃった人も、

「そういえば、そんなこともあったな」

程度の記憶は残っているはずです。
だけど、なぜπr2で円の面積が出せるのでしょう?

この式からは、円の面積とは、この円の円周の長さ(2πr)を底辺にする高さrの三角形の面積と同じであることになります。いや、高さが半径、底辺が円周の半分の長方形の面積ともいえます。
ここまでついてこられたかな?

じゃあ、なぜそうなのか。これを考え出した昔の人は、どうやら円を切り刻んだらしいのです。円周から円の中心に向かってハサミを入れ、無数の扇形をつくる。それを上下を一つおきに反転させながら並べると、凹凸はあるものの長方形に似てきます。
ここまでついてこられたかな?

この切り刻み方ではだめだ。もっと細かく、もっと細かく……、とやっていけば、いつかは長方形に似たものは長方形ななるだろ? だから、円の面積はこうやって計算するんだよ。
というのが、

πr2

なのです。

「ほーっ、なるほど。そんなこと、考えたこともなかったな」

読みながら感嘆しました。いま、あなたも感嘆されているかも知れません。
ところが、です。

「それって、無限っていうことだろ? そんなもん、存在するの? 円をどれだけ細かく切り刻んだところで、やっぱり凹凸は残るだろ!」

無限、というものが存在するのかどうか。

かつて、ギリシャの哲学者ゼノンは、アキレスは亀に追いつけない、といいました。
アキレスは亀の10倍の速度で走るとしましょう。100m後ろからアキレスが亀を追いかけます。すぐに亀がいた場所にたどり着きます。その時亀は10m先まで進んでいます。その場所までアキレスが行き着くと亀は1m先。そこに行ったときは10cm前にいる。次は1cm先で、次は1mm前。次は……。
これをいくら繰り返しても、アキレスはギリギリまで亀に近づきますが、どうやってもアキレスは亀に追いつけません。だって、自分が進んだ分の10分の1前に、いつも亀がいるのです。

だけど、これ、私たちの実感と全く違いますよね。
小学校の運動会のリレー。最終ランナーが、先を行く走者を抜けるかどうか。

行け! 抜け!! もう少しだ!!! 抜いた!!!!

秋は運動会の季節。全国でそんなシーンが続出します。そう、足が速ければ、前を行く走者を追い抜けるのは当たり前のことなのです。
ところが、ゼノンの論理ではどうしても抜くことが出来ない。

ゼノンの論理を打ち破ろうと、多くのギリシャ人が挑んだようです。でも、どうしても打ち破れない。生活の実態、つまり当たり前のことと論理をあわせることが出来ない。
人が頭の中で考える論理の正しさというのは、どうもその程度のものらしいのです。
だから、ギリシャの哲学者、数学者は焦りました。どうしてもゼノンを論破できない。

「いかん。無限というと論理を持ち込むと、すべてがちゃらんぽらんになってしまう」

そう、円の面積も、無限というものを持ち込まないと、あの πr2では表せないのです。よくいって近似値。限りなく近い値ではあろうが、完全に正しいとはいえない。

そうなのです。数学の根底には、こんなあやふやなことが沢山あるのだ、と著者はいうのです。

 

微分積分だって同じだと、著者はいいます。説明はくだくだしくなるので省きますが、時間変化を分母として計算して答えを導きながら、最終的には時間変化がない場合、つまり分母をゼロとして数値を求めている、つまりゼロでの割り算が成立するとしなければ微分積分は成立しないといいます。

どうやら、数学には根底的に

「ホントに成立するの?」

という不確かさがある。1+1はホントに2なの?

ということでしょうか。

 

だけど、数学って有用なわけです。数学がなければ、大砲の弾を性格に目標に命中させることも出来ないし、星の動きを説明することも出来ないし、ロケットをとばすことも出来ません。根拠があやふやなのに、この有用性はどうしたことだ?

こうした疑問に対して著者は、こういいます。

「よく言われるように、現代的な自然科学は素朴実在的な『自然現象そのもの」を研究対象とするのではなく、そこから慎重に、そして意図的に現象の切片を切り出し、それを説明するために仮説的な『モデル』を構成することを目指す。その上で、出来上がった理論の価値は、これらのモデルがある範囲の自然現象を、ある程度の数学的精確さをもって記述することが出来るか否かで測られる。すなわち、自然科学は現象の直喩的表層ではなく、隠喩的構造に、それもある特定の構造に目を向けているのだ。そこでは、現象の実在的存在態様と純粋思考的論理様態との不一致は、もはや問題ではない。あくまでも『モデル』とは、自然本体から一旦離れて抽象的に構成されるものだからである」

ずいぶん難しい文章だ。私なんぞ、逆立ちしたってこんな文章は書けません。
が、意味は何となく分かります。いま科学といわれているものは、自然そのものを記述するものではなく、自然の一部について勝手に仮説をつくり、数学を使って

「ほら、このモデルには矛盾がないでしょ」

といっているに過ぎない、ということでしょ(ホントかな?)。そして、その部分的な正しさが暮らしの役に立っているわけです。
化学式で説明される化学変化にしたって、とりあえず今のところ、それで説明できるのでいまの化学体系が採用されているだけで、ホントは違うのかも知れない、という危うさを、いつも持っているのですね。

 

それは、数学の世界も同じなのだ、と著者はいいます。いまの数学を、とりあえずの体系として見ると、その枠内では今のところ矛盾は起きていない。それが暮らしの実感とかけ離れていてもどうでもいいことなのだ、というのです(ここ、誤解していたら御免なさい)。

そのわかりやすい例として、著者は非ユークリッド幾何学をあげます。三角形の内角の和は180°にならないとか、直線には、直線上にない1点を通る平行線が無限に引けるとか、何だかわけのわからない学問ですが、著者は明瞭に断言します。

「それはそれで、その内部では矛盾のない整合的な体系を構築する」

ふんふん、世の中には勝手な言い分ってあるもんね。自分で世界を限定して、とりあえずその中で矛盾が出なければ学問になるんだ?!

などとおちょくってはいけません。非ユークリッド幾何学は、あのアインシュタインの一般相対性理論の数学モデルとなったというのですから。

だとすると、アインシュタインが教えてくれた宇宙の姿を、我々は信じなければならないのでしょうか?

 

そうそう、この本を読んでいて、

「へっ?!」

と思ったことが他にもありました。
√です。無理数です。

数を直線で表すのはよくやります、というか、それなしには幾何の問題は解けません。
だけど、√2という場所は、何処にあるのでしょう?
こいつ、数直線の上では何処にも居場所がないのです。

数直線を思い浮かべて下さい。
1から少し離れた右隣に2がある。2から同じ距離だけ離れたら3。
1と2の間を10に割ると、1.1、1.2……と並ぶ。それをまた10分割すると1.01、1.02となる。
と、素直に考えると、数直線はそのようなものです。

だけど、1.4も、1.41も、1.411も、1.4111もありますが、さて√2の場所は何処にある? そもそも小数では表せない数だし、分数でも表せない。せめて分数で表せれば、数直線上のここにあるといえますが、それでも表せないとなると、いったい何処にあるんだ、√2?! てなことです。

なのに、長さ√2の直線は引けます。一つの角が45°の2等辺三角形で、等しい辺が1であれば、もうひとつの辺の長さは√2なのです。

おいおい、えらくあいまいな世界で私は高校入試数学を解いているな。私は何だか嬉しくなってしまいました。

 

科学。大変な実績を上げてきた科学。だけど、その基本は、科学としての体系を信じることだとすると、さて、これは宗教と何処が違うのか?

ああ、ひょっとしたら宗教とは昔の科学で、時代とともに有用性が薄れ、いまは科学という宗教が大手を振って歩いている時代なのかも知れません。

ん? 俺は不可知論者になってしまったか?