08.21
2014年8月21日 災害
あちこちで災害が続く。毎年、この季節になると豪雨被害、台風被害、それに最近は竜巻被害まで加わって、日本は被災列島と化す。
ということは、ほとんどNHKのニュースで知るのだが、何というか、これほど毎日災害報道が続くと、被災された方々には申し訳ないが、
「またかよ。他にニュースはないのか?」
という気分になることも確かである。その気分は、まじめくさった顔をした、やや知性に欠けるアナウンサーたちのしゃべりが一部を支えていることは紛れもない。また、それ以上に確かなのは、アナウンサーが読むニュース原稿の稚拙さである。
ひょっとしたら、我らがNHKには、災害報道のひな形があるのではないか。災害が起きるたびにそのひな形を引きずり出し。日付と場所と、災害もたらしたもの(集中豪雨とか台風とか)を入れ替え、死者、行方不明者の数を書き入れる。
「おーい、原稿できたよ」
災害とは無縁の、エアコンの効いた頑丈なビルの中で、いましがたまでパソコンをのぞき込んで各地の災害データをのぞき込み、それをひな形に埋め込んでいた、いわゆる記者が、大きな声を上げている姿が思い浮かぶ。
「今日は、もうこれ以上変化はないだろう。そろそろ飲みに行く?」
彼、ひょっとしたら彼女は、原稿を手放した瞬間に周りを誘っているかも知れない。
と悪態をつきたくなるほど、災害報道では、いつかどこかで聞いた記憶があるフレーズが頻出する。
そのような作業の上に、一見被災者に同情しているような、でも、しばらく見ているとそれは演技であると分かるアナウンサーたちの、原稿棒読みが乗っかる。これで、
「今日の災害報道、一丁あがり!」
である。
最近、NHKの女性アナウンサーには美形が増えた。でも、魅力ある女性は皆無である。あの目線は演技、このフレーズは棒読み、おうおう、よく知りもしないことを知ったかぶりして、と思いながらでないと見ることができないからであろうか。
今日も、広島の集中豪雨被害の話から、NHKの7時のニュースは始まった。
ああ、またかよ、と思いながらビールを飲んでいた私は、ふと思った。
報道機関って、どうして災害を報道するんだろう?
取材が、被災情報を収集する公機関に限られるのなら、まあ、迷惑を被る人はいないのだから勝手にやればいい。しかし、NHKのニュースでも新聞のニュースでも、必ず現地の状況、被災者の話が含まれる。それを目にするたびに、私は思う。
「おいおい、この人たちは、あんたたちの相手をするほど暇じゃないぜ。家族をなくした人は悲しみにいたる前に茫然自失しているだろうし、家を押しつぶされた人は今日からの住まいをどうしようかという思いで心は千々に乱れているだろうし。住宅の中まで土砂が押し寄せてきた人たちは、家族は全員無事であったとしても、一刻も早く土砂を取り除いて住まいを元に姿に戻したいだろう。あんたたちの取材の相手をするゆとりや暇があると思うか?」
それでも、ニュースを見るかぎり、突き出されたマイクとカメラに向かって話している人はいる。だから、
「大丈夫ですよ」
というのかも知れないが、答えている人にしたって、本当は、できることなら取材への対応なんてしたくないんじゃないか? 俺が被災者だったら、
「お前ら、何しに来た?! 邪魔だ、帰ってくれ」
って怒鳴るもん。
災害で打ちのめされている最中に、何故に「取材」という災害にも付き合わねばならないのか? だって、やつらはマイクを突き出し、カメラのレンズを向け、ノートとペンを取り出して矢継ぎ早に質問を繰り返すだけで、土砂のひとつも取り除いてはくれないんだぜ。
これが、工場爆発とか、堤防の決壊とか、どこかに責任があるかもしれない災害なら、まだ、災害直後の様子を記録する意味はあるだろう。後々の補償交渉のデータになるからである(もっとも、報道機関は、取材したデータは報道以外には使わない、つまり訴訟の資料などとしては提供しない、というが)。
が、自然災害では、後々補償を求める相手はいない。つまり、災害発生直後の状況を記憶することにメリットは考えにくい。それなのに、報道機関は何故取材し、報道するのか?
「読者、視聴者の知る権利に答えるのが我々の責務です」
あー、さすが優等生。模範的な解答ですね。だけどさ、広島市で40人近い人が亡くなった豪雨による土砂災害の詳細を、何故に全国民が知らなきゃならないのかな?
確かに、メディアは権力の監視機関であります。いや、あって欲しいと言うべきか。だから、権力の動静、失敗、ごまかし、不祥事などを報じて国民の知る権利に奉仕するのはメディアの責任でしょう。それは、権力を持った人々は、沢山の目で監視しておかないと何をしでかすか分かったものではない、という人間性悪説に立つ考え方で、私も十分理解します。
だけど、広島の豪雨災害って、権力者が引き起こしたものではない(住宅地の造成に問題がなかった? ということはひとまず横に置く)。自然がもたらした災害である。その詳細が、どうして国民の知る権利の対象なのだろう? それって、権利の乱用じゃないか?
「いや、災害報道の最大の狙いは、なぜそお災害が起きたかのメカニズムを解明することで再発防止に役立つし、災害に遭われた方の悲惨な様子を報じることで、災害の悲惨さを国民に知ってもらい、自分が災害に巻き込まれないよう充分に備えをするための助けになる」
ふむ。とりあえず、その説が正しいとしよう。
だが、正しいとすると、私にには新たな疑問がわく。
毎年毎年、台風や豪雨の被害は起きる。これだけ毎年起きるのだから、それを報じることが被害を減らす役に立っているのだとしたら、どうして毎年災害は繰り返されるのか?
効果があるというためには、10年前には、台風や豪雨による死者は10年前は1000人だったが、いまは300人に減った。だから効果があるのだ、とデータを示さねばなるまい。だけど、死者、けが人、被害額、そんな指標は年々減っているか?
私も統計は持ってないが、報道の量と被害の量には、誰もが納得する関係はないんじゃないの?
「だけど、皆さん、知りたがりますから」
ふーん、読者が、視聴者が知りたがったら何でもやるの? じゃあ、一番安全なセックスフレンドの求め方を教えてくれる?
「被害に遭われた方の親戚、知人の方には、現地の情報は欠かせないでしょう」
だったら、知りたい人たちだけが情報にアクセスできる手段を考えたら? そうなると、マスメディアではなくなるけどね。
NHKのつまらぬ災害報道への憤りが、つまらぬ文章を書かせてしまった。
だが、土砂崩れの被害にあった上に、取材攻勢という被害にも遭っているに違いない被災者の皆さんには心から
「本当にお気の毒です」
と申し上げたい私である。