2018
02.22

2018年2月22日 制服考

らかす日誌

東京の泰明小学校長が突如錯乱した。いや、突如ではなく、錯乱の現れ方がやっと世に見えるようになった、という方が正確かも知れないが、個人的には存じ上げない方なので断定は避けておく。

小学校の標準服にアルマーニ。

「馬鹿なことを考えるヤツもいるモンだ」

物議を醸している話題はその程度のことであると考え、放っておいた。いずれ教育委員会が世論の圧力人負け、この校長を首にするのだろうな、いつになるのかな? という程度の関心しかなかった。

1億2000万人が生息する日本列島には突如錯乱する人の数はいつでも一定割合で存在する。なかなか目につかないのは、錯乱の結果現れる事象が世に及ぼす影響がたいしたことがないからである。
たまたま迷惑を受けた人たちが、

「この野郎!」

とげんこつの一つか二つ奮って水に流すのである。

今回は錯乱の結果があまりにも素っ頓狂で、直接影響を受ける人、影響が自分にも及ぶかも知れないと勘違いする人、何故か破邪顕正の正義感に駆られる人、加えて

「こいつなネタになる!」

と飛びついたジャーナリストが多数現れて騒ぎになったにすぎない。

何故か素っ頓狂な決断を一度下し、それが世論の指弾を受けるとその圧力に易々と屈して一度決めたことを撤回してしまう教育委員会の例は、多分、枚挙にいとまがない。だから、事件そのものは

「ああ、またか」

という程度の話でしかない。

しかし、だ。
この校長の犠牲者ともいえる泰明小学校の児童たちへの嫌がらせが相次ぐとなると尋常ではない。どうして自分の正義しか認めない、心の狭い人たちがいるのだろう?

そこで、標準服=制服(であると私は思う)を考えてみた。

さて、制服が何故必要なのだろう?
この校長先生の考えをネットで拾ってみると、どうやら愛校心を育てるのに、泰明小学校に相応しい制服が必要だとお考えになったようである。子どもたちに

「僕は、私は、泰明小学校の生徒」

ということを、制服で自覚させる。そうすると、ふざけたことをしない立派な子どもが育つ、ということらしい。

この方、時代錯誤である。今時愛校心? そんなものが必要なのか?
いや、百歩譲って必要だとしても、制服で育つような愛校心? そんな薄っぺらい愛が欲しいのか?

銀座のど真ん中にあるということを、この校長先生はよほど誇りに思っていらっしゃるらしい。これ、誇りといえばいいことのようだが、裏を返せば他に対する差別心である。銀座にある小学校と、番町にある小学校と、桐生にある小学校と、大牟田にある小学校と、それほど違うものなのか? 
銀座っていったって、先祖が周辺に住んでいたら世の中がどんどん変わり、猫の額のような土地にべらぼうな値段がつくようになっただけの町である。そこに住んでいることがそれほど立派なことなのか?

このような出発点が育む愛校心とは、夜郎自大の差別主義者を生み出す原因となることは明らかである。この校長先生はそんないやな人間を育てたいらしい。

いや、そうはないのかも知れない。
この方の発言には、

「(泰明小学校の児童の)言動、もちろん、公共の場でのマナー、諸々含めて、児童の心に泰明小学校の一員であることの自覚が感じられないと思うことも度々です」

というのがある。
​ということは、泰明小学校の子どもたちは言動が乱れ、公共の場所でのマナーが身についていないということだ。家庭と学校での躾がなっていない、と言い換えることもできる。
その力足らずの学校と家庭の教育力を補うためにあるのが、制服だと読み取れる。だとすれば、己の力足らずに父母の非難が集まる前に、非難の矛先を変えようという姑息な知恵とも見える。

それに、である。それを全て認めたとしよう。それでも、何故制服をアルマーニにしなければならないのかという理由は見えてこない。アルマーニ以外にもアプローチしたが、受けてくれたのはアルマーニだけだったと説明されている。他、とは多分、グッチやヴェルサーチ、プラダあたりを指すのだろうが、いずれにしても、なぜそんな高価な服を、生徒に一律に着せなければならないのか? 泰明小学校に相応しいの成金趣味なのか?
制服が必要なら、ジャージの胸に「泰明小学校」「TAIMEI PRIMARY SCHOOL GINZA」などと刺繍でもしておけば済む話である。その程度なら、桐生の刺繍やさんで安価にできる。私がご紹介してもよい。

いずれにしても、よほど貧しい精神の持ち主でなければ出てこない発想である。

それともこの校長先生、よほどのブランド好きなのか? 職場である小学校に通うのに上から下まで、今日はアルマーニ、明日はダンヒル、次の日はグッチにしようかキートンにしようか、と迷いの日々を送っていらっしゃるのか? であれば羨ましい暮らしといえないこともない。よほどの資産家の家にお生まれになったか、学校出入りの業者とよほど仲良くしていらっしゃるのか。それでも心が貧困なことには変わりはないが。

このような悪口雑言罵詈讒謗を浴びせかける私は、制服というものが大嫌いである。

そもそも、制服の役割とは何か?
これは、それぞれの立場になって考えなければならない。

まず管理する側
いうまでもなく、管理がやりやすくなる。管理下にいる者どもが全員同じ服装をするのだ。管理下にある者とそうでない者の見分けは簡単だし、服装の乱れ、精神の荒廃も見て取ることができる。私服だと通じる

「これも着こなしです」

という言い訳は一切通用しないから、服装が乱れていれば心のありようが手に取るように分かる。

「制服にすれば自分の学校の生徒かどうかが一目で分かって校外指導をしやすい」

とおっしゃる先生方も現れそうだが、はあ、そうですか、あなたは自分の学校の子どもしか指導しないのですか、他の学校の生徒ならどんな悪いことをしていても見て見ぬ振りをするんだね、といっておけば済む。

親にとっては楽だといわれる。子どもが色気づくと、服装にこだわりを持つようになる。あれ買って、これ買って、と落語の初天神のような有様となり、金がいくらあっても足りない。制服があればそんな心配がなくなる。

だが、考えてもみよ。制服を身につけるのは学校に通う時だけである。放課後や休日は当然私服が必要だ。であれば、制服がなくなってもその私服を着せて学校に送り出せばよい。制服に使わなかった金を回せば、リッチなオシャレも楽しめる。

子どもたちは?
子どもたちは制服を楽しむのか? 
服に関心がない子どもは何の抵抗もなく制服を身にまとい、服装に関心がある子どもたちは嫌々ながら制服を着させられる。そんな暮らしを6年、3年、3年と過ごしていくうちに、色彩や形に、ファッションに関するセンスが失われ、やがてどこから見てもださいとしかいえない大人になってしまう。
そりゃあ、慶応幼稚舎を筆頭とするブランドスクールに入った子どこたちは制服を着ることに喜びを見いだすであろう。なにしろ、この学校に入らなければ身につけられない服なのである。僕、がんばったモン! 君たち、頭が悪いからこの服着られないんだよね。そんな子どもを創り出したいのか?
いずれにしても、子どもたちは被害者であると、私は考える。

制服をめぐる立場はまだある。販売業者である。
全国一般に使われている男子用学生服を除けば、制服は指定された店でしか買えない。ために、ほとんど一般客が寄りつかないような洋品店が「制服」の指定店になっているために潰れない。制服販売の利権があるから、一般販売の努力はほとんどせず、非効率の固まりのような店がいつまでも市内の一等地に店を出し続ける。
これほど経済効率を削ぐことはない。
加えて、

「制服を扱う利権はどうやって手に入れ、どうやって維持しているのだろう?」

と、あらぬ疑いもかけたくなる。


制服を好むのは全体主義国家であったことが多い。例えばいまの北朝鮮。制服に身を固めて足を高く跳ね上がるナチス式行進をする軍隊は、あの国の象徴である。人民服はかつての中国を現していたし、刑務所では制服が当たり前である。

まとめれば、制服とは何らかの権力行使が伴って構成員に一定の服装を強いることである。アルマーニであれジャージに刺繍であれ性格は同じである。制服を支持される方々は、自由が認められない環境の中で子どもたちを育てたい方々である。制服なんかなくなれ。私はそう願い続けている。

まあ、制服を認めてよいのは作業服程度ではないか。自分の服で労働をすれば汚れて選択も大変だし、傷み方もひどいからすぐに買い換えねばならない。であれば「制服」を造って同じ服を大量に発注してコストを下げる。これには立派な経済合理性がある。

泰明小学校の子どもたちに嫌がらせをしている方々に足りないのは、泰明小学校の子どもたちは被害者であるという認識である。被害者に嫌がらせをするのは、そもそもの加害者よりも卑劣であることに思い至っていただきたいと切望する。