05.16
2016年5月16日 動揺
さてもまあ、人の心とは取り扱いが難しいものである。
いや、それが他人の心なら、多少取り扱いが難しくても、そんなものだろう、と諦める。もう40年以上も起居を共にする妻女殿の心1つ、満足に取り扱えていない。ましてや、
「おっ、あれ、いい女ジャン」
というような見目麗しき若き女性(ここは「にょしょう」とお読みいただきたい)の心を私に向けるなどということは、至難の業という表現を遥かに超える。望んでも、歯ぎしりしてもどうにもならぬ現実に何度涙したことか。
いや、そのような、いっても甲斐もない泣き言を書き連ねたくてキーボードをたたいているわけではない。
他人の心の取り扱いが難しいことは当然なのだろうが、困るのは、自分の心の取り扱いもままならないことである。
心というものがどこに存在するのか明瞭なことはわからないが、私の心が私の中に居座っていることは疑いようがない。私の中にあるが故に、私を支配してしまうのが、我が心である。
先週末、クビを言い渡された。
いや、クビというのは穏当な表現ではない。定年後の再雇用は、原則3年、普通+2年、特別な場合はさらに+2年、つまり合計7年といわれて桐生に赴任したのは7年前である。すでに桐生に暮らすこと7年を越え、8年目に入った。再雇用の契約更改期は9月1日。であれば、いまごろ
「任期いっぱいご苦労さまでした」
といわれるのは、当たり飴といえば当たり前のことである。そして、今年がその年であることは、多少の算数ができればすぐにわかることだ。
「いよいよ私も、年金だけを頼りに生きていく人生となるのだな」
とは、すでに数年前から自覚し、今年に入ってからは痛切に感じていたところである。
が、事前にわかっていたからといって、その最後通牒を突きつけられた時の痛みが薄らぐわけではないと思い知った。5月1日に赴任した新しい群馬県の責任者に
「ご苦労様でした」
といわれて、私は動揺してしまったのである。
さて、この動揺をいかが表現したら良かろう? 全身脱力感、とでも表せば、一端なりともご理解いただけようか?
そうか、これまで俺にずっとへばりついていた肩書きが、今年の8月いっぱいでなくなる。無論、肩書きで仕事したつもりは全くない。常に、私は私、会社は会社、と割り切って来たはずだ。だが、これほど揺すぶられるということは、私も、どこかで肩書きに寄りかかってきたのか? 私の中では、私と会社は一体のものであったのか? ということは、俺もたいした玉ではないな。
しかし、会社を、仕事を離れて、さて、これからどうする?
金は大丈夫?
いや、その瞬間にそのように考えたわけではない。ただ、頭がボーッとしてしまっただけだ。翌日からは、心と体が別々に動いているような不確かさがあった。朝目を覚まし、夜までいったい何をしたらいいのかを手探りするような不安感があった。
事務室で音楽を聴く気にもならない。かといって、数学の勉強を先に進める気力も沸かない。このような時は、無理にでも作業をするに限る。
土曜日、たまっていたブルーレイ・ディスクの整理を朝からしたのは、多分、そのためであった。
気を取り直したのは日曜日からだ。
捨てる神あれば拾う神あり
という。どこまで通じる真実かはわからぬが、会社から捨てられた私には、ありがたいことに拾う神がいてくれた。
「大道さん、横浜に戻っても仕方ないでしょう。桐生に居着きなさいよ」
といってくれる人は、これまでもあった。それが、今年8月に私の年期があけることを知って、具体化してきた。何と、私を桐生に引き止める4人委員会なるものが、私に無断でできてしまったのだ。実業家、大学の先生、それに、あのO氏も加わった陰謀である。
「そんなこといわれても、仕事がなくなれば私の収入は年金だけになる。貯蓄も恥ずかしいほどわずかしかない。だから、横浜の自分の家に戻れば暮らせるのだろうが、桐生にいれば、生活費に加えて住居費が必要になる。年金収入だけで家賃まで払うのは無理である。それに、私を桐生にとどめて何かをさせようというのなら活動費も必要になる。それが確保できなければ、私は桐生にいたくてもいることはできない」
これが私が出した条件であった。
普通、こんな条件を突きつければ
「だったら、勝手にしなよ」
といわれて突き放されるのが落ちのはずだ。ところが
「何とかしましょう」
と受け止められた。委員会は秘密の会合を持ち、そのための策を模索し始めたという。まだ成案は示されないが、私には選択肢がなくなった、ともいえる。
が、官も民もそれほど豊かでない桐生が、我が家の暮らしを支えることができるのか?
無論私も、仕事をするのは吝かではない。ただ、これまでは会社のために(主観的には自分の為に)仕事をすることで、会社から賃金をもらっていた。9月からは会社がない。私を支援して下さる方々の役に立つ仕事をしなければならない。
「会社のためには多少のことはできたろう。だが、会社の仕事しかしたことがない私に、そんなことができるのか?」
と自分で自分を疑う。
さらに、
「そんなことができたって、『だからこれだけのお金をください』とは、なかなかいえないんだよな、俺」
とも思う。そのようなひ弱な気持ちで、本当に桐生での暮らしが成り立つのか?
まあ、やってみるしかない。
私の出した条件を
「まかせておいてください」
という人もいてくれる。
さて、いったいいかなることになるのやら。
66歳、間もなく67歳になる高齢者が、再び挑戦の旅に出ることになった。
ニヤニヤ笑いながら見るも良し。
私の挫折を待つも良し。
高齢者の期待の星と崇めるも良し。
いずれにしても、ご支援いただきたい。