07.26
難しいなあ、今度のオリンピックとの付き合い方は。
世でオリンピックがたけなわなのかどうか、解らない。平時のオリンピックなら、今頃街はオリンピック一色に染め上げられているはずだが、今回はそうもいくまい。なにせ、人の流れを抑制し、飲み食いを押さえ込み、基本的に無観客で競技を行う。賑わいの出来ようはずもない。
「ご自宅の大型テレビでお楽しみ下さい」
か。
でも、街に賑わいがない以上、各家庭のテレビの前に賑わいの出来ようはずもない。さて、あなたは今年のオリンピック「Tokyo 2020」(2021年に開催して、何故2020?)とどのようなお付き合いをされているのだろう?
もともと東京オリンピックを開く意味はないと訴え続けた私である。コロナ感染が広がってからは中止を主張してきた。そのためもあろうが、私はオリンピックとはほとんど無縁で暮らしている。何もすることがなければ、数学の参考書と向き合い、とうとう数Ⅱの三角関数、指数関数の項を終え、対数関数も間もなく終わる。
記憶しなければならない公式が山積みで、
「こんなこと、高校生の時にやったか?」
と己に問いかけるほど馴染みを感じられないことばかりで、ページをめくる度に戸惑いがつきまとうのだが、それでもテレビの電源を入れてオリンピックに付き合おうという気にはならない。
23日の開会式は、私の映画鑑賞の時間とぶつかった。ぶつかれば、どちらかを選ばねばならぬ。そして、当然のこととして、私は映画を選んだ。翌朝のテレビニュースでチラリと目にすることもあるか、と思っていたが、24日目が覚めたのは7時半過ぎ。もうオリンピック開会式のニュースは終わっており、よって一切目にしなかった。
何か
「見てよかった!」
というようなシーンがある開会式でした? ご存知の方は教えて……、いや、いいです。やっぱり関心が持てませんので。
オリンピックが始まってからも東京でのコロナ感染の勢いは衰えず、オリンピック選手、大会関係者からも毎日のように感染者が出る。試合を目前にコロナ感染が判明、参加を取りやめなければならない選手もいた。事前の感染対策であるワクチン接種も、その国経済力の強弱で大きな差がある。これで、すべての選手が平等な条件で大会に参加していると言えるのか?
という私も、オリンピックを全く目にしないわけではない。食事時、会話の少ない我が家の食卓ではテレビが必需品である。ところが、主要なチャンネルはオリンピックの中継をやっており、そうでない局の番組はみすぼらしくて見る気にならない。どうせ大多数の視聴者はオリンピックを見るんでしょ、とばかり、手を抜いているとしか思えない惨状である。したがって、チャンネルザッピングが止まるのはオリンピック中継にならざるを得ない。こうして、見ることもなく、でもオリンピックを見る。
こちらに気がないせいもあろうが、テレビ画面から熱気が伝わってこない、不思議なオリンピックであるという感想を持つのは、私の先入観のためか?
まあ、思わず力が入る競技もある。柔道だ。高校時代と30代のはじめに自ら柔道をやっていたためだろう。日本の代表が次々にメダルを取る姿は、確かに心楽しいものがある。
「おお、(技が)入った!」
「押さえろ、押さえ込め!」
と口走っていることもある。
だが、ふと
「各国の選手は、同じ条件で、同じ体調で試合に臨んでいるのかな?」
という思いが湧く。なんだか、熱気が冷める気がする。そして、オリンピックというシステムの不健全さに思考が向かう。
様々な防疫体制をとっても、バブル方式を布いても、選手、大会関係者の感染拡大を防げない。新規感染者のニュースを見る度に
「ああ、オリンピックの犠牲者がまた出た」
と考える。選手とは、IOCという大本営の目から見れば、戦線に投入する兵に過ぎない。どれほどの戦死者数が見込まれても、その戦線を守り抜かねばならないと大本営が考えれば、兵の命など風の前のチリに等しい。コロナウイルスの感染拡大が止まらない今、東京に集められた各国選手は、前線に投入される兵のようなものではないか?
すべてはアスリートのために、ではない。すべてはIOCのために進められているオリンピックの実像を、バッハ率いるIOCほど露骨に示した例はない。選手たちが真夏の東京の熱気にに包まれての競技を強いられるのは、放映権料を支払うアメリカのテレビ局が提示した金額に、バッハの目が眩んだのがすべての始まりではなかったか。
オリンピックはビジネス、選手は商品。損耗率が3%以内に収まればビジネスは大成功。そんな図式しか見えてこないオリンピックに反発する競技者が出て来ないのはどういうわけだ? ふざけるな、俺たちはIOCの奴隷じゃないぞ! と怒りを爆発させる選手はどこにもいないのか?
あなたは、東京オリンピックとどう付き合っていらっしゃいますか?