11.21
桐生えびす講が終わりました。本日は休憩日です。
5日間にわたった2021桐生えびす講が昨夜、幕を閉じた。
初日を原稿にして、
「日報形式でやってみるか」
とも考えたが、果たせなかった。力不足である。
よって以下に、私が体験した今年の桐生えびす講をまとめる。
【人出】
いやはや、桐生の人はお祭り好きなのだろうか。それとも、桐生人の暮らしにえびす講がしっかり根付いているのだろうか。
露店も出た19日、20日は驚くほどの人出だった。原則はこの2日間がえびす講なのだが、昨年来のコロナウイルスの蔓延で、昨年は開催期間を7日間として露店は出さず、コロナの勢いが衰えたと見える今年は5日間と縮め、19日、20日だけは露店も出た。驚くほどの人出だったのは、もちろん19、20日の2日間である。
平年に比べれば、露店の数は半分ほどだったろう。しかも、アルコール類の販売は禁止した。酒に浮かれた参拝客が三密を作ってしまうのを避けるためである。
ご承知の通り、勢いは衰えたとはいえ、コロナはまだ根強く生き続けている。ここ数日、桐生でも毎日のように新規感染者が出ている。それなのに、この2日間の人出は平年並みだった。露店が出た参道と神社前の山手通りは、ひと、ヒト、人の渦。カメラを首からぶら下げて見ていると、思わず
「みなさん、コロナは怖くないの?」
と思わず言葉が漏れそうになった。
コロナに慣れた、というのも一因だろう。しかし、道行く人は全員、きちんとマスクを着用している。ということは、コロナへの警戒は緩めていない。それでも、人混みになるだろうと誰だって予測するえびす講に、子供連れで出かけてくる。そんな人の流れを見ながら、ふと思った。
「みんな人混みが恋しいんだろうな」
コロナ感染が急速に拡大して人混みが減った。野球観戦、コンサート、イベント……、人混みができそうな催しはことごとく中止、延期されてきた。
そろそろ、多くの顔を見たい、すれ違う人と肩を触れあわせたい。そう思っているところへ、今年のえびす講には露店が出る。だから、みんな来るはずだ。行かなくちゃ。人混みを味わわなくちゃ。そんな心理が働いたのではないか。
まあ、大衆心理学など全く知らない私の見方だからあてにはならないが。
露店を仕切る街路商組合の親分に聞いてみた。
「売れ行きはどう?」
親分はやや顔をほころばせながらいった。
「ぼちぼちやな」
ということは、高笑いするほどではないにしても、期待以上には売れているということだろう。
考えて見れば、露天商の皆さんはコロナ感染が始まって以降、収入の道を絶たれてきた。全国から祭がなくなったから出番がないのである。その間親分は、一家のみんなを喰わせるために、様々な工夫をし神経をすり減らしてきたはずである。
「これを切っ掛けに祭が復活してくれたらホッとするんだがなあ」
ことは、街路商の皆さんの暮らしだけではない。コロナの蔓延が続き、全国から賑わいが消え去れば、彼らも転職せざるを得ない。一度転職して暮らしが落ち着けば、コロナ禍が終息したからさあ祭だ、といったところで、折角見つけた新しい暮らしを捨てて街路商に戻る人が果たしてどれだけいるか。彼らが露店を出してくれなければ、祭の主催者がどれほど笛を吹いても、祭から賑わいが消えるのは火を見るより明らかだ。私たちが年に数回の祭を楽しむには、街路商に生き延びてもらわなければならないのである。
2021桐生えびす講は、彼らに干天の慈雨になったはずである。雨がもっと地に染み込み、知力を回復するにはもっと雨がいる。桐生えびす講がその呼び水になってくれればいい、と願うものである。
【事故】
あれは何日目だったろう。私の目の前で事故が起きた。
桐生西宮神社は61段の石段を登り切って社殿にたどり着く。その日私は社殿のそば、つまり石段を登り切ったところでカメラを持ち、被写体を探していた。
おじいさんが階段を登ってきた。かなりの高齢のようで、足元がおぼつかない。が、石段の右端を通り、手すりを持ちながら1段ずつ登ってくるので、心配はなかろうと思っていた。
上から2段目にたどり着いた時である。どういう弾みか、おじいさんは手すりから手を離した。と同時にバランスを崩したらしく、体が後ろにぐらりと揺れた。
「危ない!」
と思った時は遅かった。おじいさんの体は後ろにゆらぎ、何とか転倒を防ごうと左手が手すりに伸びた。ところが、体が倒れる勢いが、手を延ばす速さを上回った。あと10数㎝で手すりに届いたはずの左手は空しく空を切り、おじいさんは後ろ向きに倒れてしまったのである。
周りにいた数人がおじいさんに駆け寄った。転倒現場から10m弱離れていた私も駆け出した。側による。幸い、出血はない。しかし、おじいさんは目を閉じたままである。
「救急車を呼ばなくちゃ」
という声が聞こえる。
それを聞きながら私は、おじいさんに呼びかけた。
「どうしました? 話はできますか?」
何度か声をかけていると、おじいさんは目を開いた。
「大丈夫? 救急車を呼ぼうか?」
私と目を合わせたおじいさんは、弱々しいがはっきりした声でいった。
「大丈夫。呼ばなくていい」
「じゃあ、おじいさん、これから立たせるけど、立てるかい?」
頷いたので、脇の下に手を入れ、立たせてあげた。
「ありがとう」
そう言って立ち上がったおじいさんは手すりを持つと、最後の1段を上がり、社殿の前に進んで参拝を済ませ、帰り始めた。その姿を目で追っていた私は、やはり心配だった。もし頭を打っていたら、しばらくして症状が出ることもあるのではないか? 帰宅の途中で具合が悪くなったら?
「おじいさん、私が一緒に行くよ」
側について歩き始めた。石段は避け、スロープを選んだ。体に触ることなく、もしおじいさんが姿勢を崩したら直ぐに支えられる近さを歩く。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。しかし、85になると頼りないもんだな」
とおじいさんはいったが、まだこの先には歩道橋の下り階段がある。危ない。
「歩道橋を降りるまでついていくからね」
歩道橋を降りきると、おじいさんは
「ありがとう」
といって歩き去った。
その前日は、石段の下の方で4人が転けたと聞いた。ほとんど同じ場所で、4人全員が前に倒れた。割とと広くなった場所で、何故転倒したのかは分からない。
「でもね」
と現場証人が言った。
「みんな顔を石段にぶつけちゃって」
広くなった場所だから石段の角にはぶつけることはなかったが、石面(地面じゃない)に顔から突っ込んだらしい。それでも起き上がると、社殿を目指して登っていったという。
何かに蹴躓いたか、階段があると思ってバランスを崩したか。
しかし、前向きに倒れれば、普通は手を先に出して体を支え、顔が傷つくのを避けるものだ。恐らく4人も、手で支えようとはしたのだろう。それが間に合わなかった。
「年を取ると反射神経が鈍くなってそうなるんだよね」
あのおじいさんもこの4人も、自分の反射神経がそれほど老いているとは、倒れるまで考えてこともなかったのだろう。しかし、失敗は成功のもとである。幸い大事にいたらなかった今回の事故で、己の反射神経の衰え具合を学んだのだから、これからは衰えを前提に行動すれば大きな事故は避けされるはずである。それが参拝に出かけたことのメリットではないか? 来年も元気にえびす講に来ていただきたい。
そんな事故が決して人ごととは思えない年齢になってしまった私は、そう考えたのである。
【我が体】
しかし、1年とはこのような時間なのか?
2021桐生えびす講は、我が体力の現状に大きな警鐘を鳴らした。
16日から20日まで。妻女殿の定期検診で前橋日赤に行った19日の午前中を除き、私はえびす講に皆勤した。仕事は写真撮影である。2021桐生えびす講の記録を画像で残す。
そのためには、境内だけでなく、露店が出ている参道、山手通りを隈無く歩かねばならない。カメラを首からぶら下げて、何度61段を上り下りしたことか。
iPhoneの記録を見てみよう。
まず歩数。
16日:4311
17日:4535
18日:6997
19日:9527
20日:6245
登った階数(16段上ると1階)
16日:16階×16=256
17日:14×16=224
18日:21×16=336
19日:19×16=304
20日:16×16=256
まあ、記録を見ればたったこれだけである。たいしたことはない。ところが、体の痛み具合は半端ではなかった。
腰から下の筋肉が悲鳴を上げ始めたのは18日だったと思う。ふくらはぎが張り、股の付け根もパンパンになった。そのためだろう、石段を登るのが苦痛になりはじめた。だからといって、社殿で座り込んでいては仕事にならない。体を休めては、歩く、降りる、登る……。筋肉の上げる悲鳴の声が段々大きくなる。
腰は初日から痛んだ。
「おかしい。重いものを運ぶわけでもなく、カメラを首からぶら下げて歩いているだけではないか。それなのに、そうして腰に来る?」
とは思うのだが、痛いものは痛い。16日、帰宅して入浴を済ませると、久々に湿布を貼った。朝、なんだか腰が軽くなったような気がした。これなら、と17日も写真を撮り続けたのだが
「気がしただけだった?」
と考えるまで、さて1時間もかかっただろうか。
18日は、腰にホッカイロを腰の周りに貼った。汗はかいたが、腰は相変わらずだった。
そして……。
闘い済んだ今朝、朝風呂に入って腰から下を十分に温め、腰に再び湿布する。ほかの筋肉は放っておけばますますこわばると思い、今朝は近くの郵便ポストまでTSUTAYAのCDを投函しに行った。今日は夜直来(打ち上げ)である。その会場まで歩いた。痛んだ筋肉は使いながらほぐすのがいいはずだ。さて、その効果があったか? すべては明日の朝判明する。
直来は……。
あ、今日は体力の限界に達したようである。これで失礼して、私は眠りにつくことにする。皆様、おやすみなさい。