09.19
私と朝日新聞 東京経済部の19 タートルネックが目をつけられた
ほぼ週1のペースで柔道を楽しみ、時にはおかしな釣りに出かけ、取材をして特ダネで1面トップを飾る。
考えてみれば、東京本社で発行する朝刊は1年間で360ほど(休刊日が増えたから、よく分からない)しかない。つまり1面トップの記事は1年で360本ほどしかない。そして、朝日新聞には当時、2000人を超す記者がいた。全員が1面トップを自分の特ダネで飾りたいと思っていたはずである。それでも、360ほどしかない1面トップだから、おおよそ6年に1回、そんな記事を書けば平均的な記者になる勘定だ。
私は建設省を担当した2年間で、5、6本、ひょっとしたら10本近い、1面トップの特ダネを書いたと記憶する。何も、特ダネだから1面トップにするわけではない。特ダネであり、そのときの社会にとって大きな意味を持つと編集担当者が判断するから1面トップになるのである。今でもそうだが、大都市圏の土地、住宅問題は深刻である。給料明細書を見ながら
「家が持ちたいなあ……」
ため息をつく人はたくさんいる。その解決を迫られる建設省をお取材するのだから、私には地の利があったのである。そして私は、仕事を楽しんだ。
「そんな、役所の広報担当であるような特ダネを書いてどんな意味がある? お前は、社会をより良く変えたいと志して新聞記者になったはずだ。官庁の広報担当に落ちぶれたのか?」
と思いつくのは、ずっと後年のことである。しかし、サラリーマン記者としては実績を積んだはずである。
大道、北海道報道部勤務を命ず
という辞令が出たのは、1985年3月の初めだった。
朝日新聞は全国紙である。だから、異動先は全国、あるいは全世界である。
私は
「そうなの。次は北海道で仕事をするのね」
と気軽に受け止めた。まだ見ぬ土地に行く転勤は楽しい。
朝日新聞にはBB(Big Brother)という制度があった。10年ほどの社歴を持つ本社勤務の記者を地方に出す。若い記者を指導しろ、という狙いだ。それに私が引っかかった。
「おい、4月から札幌だぞ」
帰宅すると、妻女殿に気軽に報告した。札幌といえば誰もが憧れる町である。特に、九州生まれの私は、まだ北の大地に足を踏み入れたことがない。妻女殿もお喜びになるだろう、と思っていた。
ところが。
「えっ、なんでそんなところに行かなくちゃいけないのよ。行きたくない。私、部長さんに会いにいって、行きたくないってお願いしてくる!」
えらい剣幕である。テコでも動かないぞ、という気迫がみなぎっている。
「だって、この家にはまだ半年も住んでいないのよ!」
1984年10月、義父の敷地の一角に我らが新居が完成していた。重量鉄骨3階建て。外壁には軽量発砲コンクリートを使い、1階には車3台が入る駐車場がある。延べ面積は140㎡ほどの5L・DKである。妻女殿はこの新居にこだわられた。
ま、考えれば妻女殿がいうことにも一理ある。夢のマイホームができたのだ。子どもたちはそれぞれ自分の部屋を持ったのだ。システムキッチンもあり、トイレも2つある。ここのカーテンを変えて、こんな家具を入れて、と夢が膨らみ始めたばかりである。動きたくない、というのは当然かも知れない。
しかし、私は違った。何も永遠に札幌住まいをするわけではない。BBの期限は2年間と決まっている。であれば、会社の金で2年間も北海道旅行ができると考えた方が楽しいではないか。
元々私は、旅行が好きではない。サッと行って観光地を見て、サッと帰る。それで何が分かるというのか? 全国各地にはそれぞれの歴史があり、文化があり、風土があり、それに育まれた県民性(道民性)がある。それを深く味わうには少なくとも1、2年の時間がかかるのではないか? 朝日新聞のような全国企業は、会社が費用を負担して意味のある旅行をさせてくれるありがたい存在ではないか?
まあ、我が家庭内でどのような諍いが起きようと、すでに辞令は出た。サラリーマンである以上、社名には逆らえない。我が家は1家5人全員で札幌に行くことになった。
となると、完成して半年の家があくことになる。それはもったいない、と考えた。そこで取材で仲良くなった三井不動産の広報マンに相談した。
「2年間、借りてくれる人はいないだろうか?」
彼らは我が家を見に来てくれた。その日は我が家で酒盛りをしたはずである。
そして結論は
「この地区でこの新築の家なら、家賃は15万円〜20万円というところでしょう。しかし、この地区に住むのにそんな金を出す人がいるとは思えません。入居者を募集しても応募はないでしょう」
のちの話になるが、出向していたデータ放送局、デジタルキャスト・インターナショナルには東京ガスからの出向者もいた。彼らも我が家に招いて酒を飲んだことがあるが、東京ガスから見ると、私の家がある地区は貧困地区なのだという。
「ガスの床暖房の普及率が、ほかの地区に比べて低いんです。お金持ちが少ないんです」
なるほど。我が家は横浜市鶴見区の貧困地区にあったのか。それでは、高額の家賃を払ってこの地に住もうという人がいないのも頷ける。
ある日、経済部長に
「どうして私が北海道に行くのですか?」
と聞いたことがある。部長は答えた。
「経済部から札幌にBB を出すことになって、さて、誰にしようかと考えていた時のことだ。君、タートルネックのシャツを着て会社に来たことがあったよな」
そういえば、休日に何かの用事で会社に行ったことがあった。確かにタートルネックのシャツを着ていた。
「それを見た瞬間に、『これだ!』と思ったんだよ。タートルネックと北海道のイメージが、何故か重なったんだ」
ということは、あの日会社に行かなければ、行ってもネクタイ姿であったなら、私は札幌に行かなかったということか? もしそうなら、それから後の人生もすっかり変わっていただろうなあ。
タートルネックが変えた私の人生。企業の人事とはその程度のものらしい。
もっとも、部長の説明は単なるジョークであった可能性も否定できないが。
こうして我が家は1985年3月30日、羽田から千歳へ飛び立った。