02.06
グルメに行くばい! 第26回 :肉じゃが
名古屋に、畏友「カルロス」がやってきた。
いつのことだったかは記憶の闇に飲み込まれている。
覚えていることだけ記す。
畏友「カルロス」は、ワインを数本ぶら下げてやってきた。
「おい、ワインはたったこれだけか?」
「なんば言いよっとかね。あんたはもらう人やろが。それが、もろたもんが少なすぎるっち、文句言うかね。も、ほんなこて下品か! 世間常識のなさすぎるばい!」
「なんば言いよっとか。お前ん店には、売るごつワインのあっとやろうが。なんばけちかこつば言いよっとか!」
憎まれ口をたたき合う再会であった。
でも、なんで新幹線に乗って名古屋くんだりまで出かけてきたのだろう?
店が、どうしようもなく暇で、時間つぶしをもくろんだのか?
―いや、当時のヤツの店は、結構繁盛していた。
妻と激しい諍いをして、家に居づらくなったのか?
―いや、当時のヤツは、奥さんにベタ惚れだった。それは後ほど分かる。
その手の趣味に目覚めて、私を第1号のパートナーにしようとの試みか?
―いや、ヤツはヘテロの申し子のようなヤツだ。そんなデリケートな趣味を持つタイプではない。事情は、私にしても同じである。
(独り言)
いや、人間は「絶対矛盾的自己同一」の存在であることは、つとに西田幾多郎氏が喝破しておられる。
ある日、畏友「カルロス」が、それまでの自己と全く違った自己を己の中に見いだし、傲然としながらも、この第2の自己に忠実に生きていこうと決意することは、ふむ、充分あり得ることである。
ま、何しに来たのか、聞きもしなかったし、詮索もしなかった。従って、真相は分からない。
世の中には、真相など分からなくてもいいことがゴマンとある。
真相が分かったが故に不幸になる事例もゴマンとある。
知らなくてもいい、知らない方がいい真相がたくさんあるということである。
真相を探るのはいいことだという単純さは、世間知らずの戯言である。
と、ここまで書いてきて、キーボードをたたく指がパッタリ止まった。もう半日も考え込んでいる。
何を書こう?
たいしたエピソードがないのである。どう考えても、たいしたエピソードが思い出せないのである。
ま、確かに、いい年した男が2人、一昼夜一緒に過ごしたために忘れがたい思い出ができたというのは、ちと気味が悪い。記憶の貯蔵庫をがさがさ揺り動かしても、たいしたものが出てこないのは当たり前、といえば当たり前だ。2人が、健全な男同士の友人であることの証でもある。
が、筆者としては困った……。
ということで、
「今回は、面白くないかも知れないよ」
と事前にお断りして先に進む。
(先回り)
「これまでもたいして面白くなかったのだから、気にせずに書き進めよ」
とおっしゃるあなた。
あなたのような方が、あるいは方々が頼りです。
畏友「カルロス」が名古屋に着いたのは、夕刻だった。
くどいようだが、男2人のつき合いである。
会って、東山の動物園を散策する。岐阜まで足を伸ばして長良の清流のほとりに立ち、金華山を見上げて愛でる。濃密な時間をともに過ごしながら、時折、意図せずして触れ合う指先から流れる電流に似も似た陶酔感が、甘美なプレリュードを奏でる。
やがて日が落ち、黄昏が訪れる。緊張が続き、2人の神経は張りつめたままだ。レストランの窓際の席につき、食前酒のシェリー、それに続くワインで張りつめた神経を癒す。素敵な食事と甘い会話が、やがて訪れる絶頂への期待を高めあう。
などという手続きは、この際、全く不要である。
着いた。飯を食おう。酒を飲もう。それだけである。
つまらないなどとは言うことなかれ。これっきゃない、のである。
畏友「カルロス」持参のワインを我が部屋に置くと、直ちに今池に向かった。そう、ここしかないのだ。「グルメに行くばい! 第10回 :チャンツァイ」で触れたあのちゃんこ料理屋、加納である。
ここで、私は畏友「カルロス」を再評価することになる。
あの、相撲甚句の親父さんは体調を崩して店に出ておらず、カウンターの中で包丁を握っていたのは跡継ぎの息子であった。
(追記)
親父さんはその後なくなった。残念だが、これが人の世の定めである。
合掌。
2人して何を食べたのか、全体像はすでにして忘却の彼方である。
が、はっきり記憶に残っているものが2つある。
ハゼとヒラメである。
その日は珍しく、ハゼが入荷していた。まだ生きていて、刺身になる。食べずばなるまい。
(余談)
私が、はじめてさばいた魚がハゼである。
「グルメに行くばい! 第11回 :カワハギのキモ」で書いたように、家族で名古屋にいたころ、私は釣りを始めた。
いつものように名古屋港の近くで釣っていて、その日はなぜかハゼが釣れた。20尾ほどあったろうか。初めての大漁だった。
釣った魚に成仏していただくには、美味しくいただかなければならない。というのは万物の霊長たる人間の勝手な理屈である。
素直に行こう。釣った魚は、食べたい。
釣りたてのハゼである。刺身である。さばき方は、行きつけの小料理屋「かつら」で観察していた。3枚におろして、包丁で皮を剥ぎ取る。あとは小骨に注意しながら適当な大きさに切り分ける。簡単である。 私にできぬはずはない。
20尾のハゼを3枚におろした。次は皮を剥ぎ取らねばならない。使う道具は包丁である。ハゼの半身を、皮を下にしてまな板に置き、しっぽに近い部分の皮と身の間に包丁を入れて皮に押しつけるようにしてぐっとしごくと、見事に皮と身が離れる。「かつら」で見たとおりにやればいいのだ。
迷わず、包丁の刃を下にして、ぐっとしごいた。皮が切れた。
包丁の背を下にしてぐっとしごこうとした。ぐっと行く前に、ハゼが包丁にくっついて逃げ出した。 「ん???」
にっちもさっちも行かなくなくなり、電話で「かつら」にSOSを発した。
「おけいちゃん、どうするんだっけ?」
「包丁の背でしごくに決まっとるがね」
「魚が逃げる」
「逃げないように左手で押さえるの!」
一発回答だった。
以来私は、かなりの大きさの魚まで、出刃包丁の背で皮を剥ぎ取る習慣が付いた。
注文したのは1人前である。このような店では、できるだけたくさんの種類の魚を食べたい。注文は一人前ずつに限る。
とびきり新鮮なハゼの刺身は、ぷりぷりした食感に珍しさも手伝って、なかなかの味である。2人で1人前を食べるのだから、すぐになくなる。なくなりそうになって、ヒラメを注文した。
これも、白身の魚である。特に縁側は、コリコリした歯触りがいい。
「うまいな、これも」
2人で5、6合の酒を飲み、確かちゃんこ鍋も食べてすっかり満足し、店を出た。
畏友「カルロス」を再評価したのは、その直後だった。
「いい魚を使っているのに、惜しいね」
あれほど喜んで食っていたヤツが、今ごろ何を言う! そもそも、金を払ったのは俺だぞ! 何か文句があるのか!
「何が惜しい?」
「いや、白身の魚っちゅうのは、味も食感も、あまり違わんのよ。だから、安い店では、『鯛の刺身』といって『ボラの刺身』を出しても通じるのよ。だから料理人は、2種類以上の白身の魚を出すときは、気を使うわけ」
「それは分かるが、どんな風に?」
「最低限、切り方を変える。一方を普通の刺身にしたら、もう一方は薄づくりにする。味を変える。一方をわさび醤油にしたら、もう一方はポン酢にする。一方を昆布締めにしておくなんていうのも、そのバラエティの1つよ」
「なるほど」
「いまの店は、いい魚を使っているのはその通りで、確かに美味しい。でも、ハゼもヒラメも、同じような大きさの刺身にして、どっちもわさび醤油で食わせた。この辺がねえ……」
料理とは、調理した食品を媒介に、料理人が客を喜ばせる作業である。素材選びに始まり、包丁さばき、煮炊き、盛りつけ、給仕にいたる一連の流れの中の1点に、畏友「カルロス」は物足りなさを感じた。
いわれてみれば、その通りである。
客は、同じ味を求めて違う魚を注文するわけではない。前の魚と違った楽しみ方をさせてもらえば、喜びは倍加する。
「へーっ、お前って、プロなんだね」
以来、私の中には、プロフェッショナルとしての畏友「カルロス」の像が確立した。
プロフェッショナル料理人・畏友「カルロス」は、夜の遊びが大好きである。
(注)
本人は、
「レストランを経営するための情報収集である」
といっている。
「大道さん、キャバレーに行こう!」
「キャバレー? お前とか?」
「ほかに誰がおっと? 俺とあんたで行くに決まっとろうが」
「どうしても、か?」
「どうしても、たい」
タクシーで名古屋・錦に戻り、1時間ほどキャバレーで遊んだ。
特筆すべきエピソードはない。
特筆すべきエピソードがあったら、我が家族も読んでいるふしがあるこの日記に、そもそもキャバレーに行ったなどという話は書かない。
第一、私は、畏友「カルロス」に誘われる以外、キャバレーなどには足を踏み込まない。キャバレーなる遊び場に、なんの期待も持たないからである。
(論理的帰結)
とすると、畏友「カルロス」は、期待することがあるために、私をキャバレーに誘ったことになる。そうだったのか。
暗いところで見るとそれなりに見えるソファーに座る。暗いところで見ると美しくセクシーに見えないこともない若い女性が隣、時には両脇に、ホントに希には我が膝の上に座り、空間はたくさんあるのに満員電車並に体を寄せてくる。しばしば、体のどこかが異常接近遭遇する。時々、水割りを給仕してくれる。
でも、店を出れば、お互いに名前も顔もすぐに忘れてしまう。
こんなところに、ヤツは何を期待するのか?
何事もなく店を出た。飲み直しに、ショットバーに向かった。前回の「グルメに行くばい! 第25回 :蒸しもやし」に登場した店である。
もう日付変更線も近い深夜。ショットバー。男2人。たいした話をするわけではない。
「大道さん、あんたはよかねえ」
「ん? 何が?」
「あんたの奥さんは、あんたに惚れとる。羨ましか」
「そんなこと、わかるか。最近は聞いたこともないぜ。それより、休みで一緒にいて、2日もすると文句ばっかり言うぞ、あいつは。箸が転げても、俺に文句をいう。全く気が合わないヤツと結婚したんではないかと思うこともあるぜ」
「いや、奥さんはあんたに惚れとる」
「まあ、それはどうでもいいが、なんでそんな話をし始めたんだ?」
「どうも、うちの女房は、あんたんとこみたいに、俺には惚れとらんごたる気のすっとやもんね」
「そんなことはないだろう」
「いや、だけん、羨ましかったい」
「お前なあ、それは『隣の芝生』よ。大丈夫だって」
「そやろか? ほんなこてそやろか? ………、なんかおかしかばってん、このごろ、女房の恋しかつやんねえ」
「へっ、なんや、のろけかい? 俺にのろけを聞かせたいのか? はっは」
「笑わんちゃよかろもん! 笑いなさんなって。俺も悪かこつばいっぱいしてきたばってん、このごろ、なんちゅうかねえ、女房がねえ……」
まもなく店を出た。公衆電話が目に付いた。
「ちょっと待っとれや、電話するから」
「いまごろどこに電話ばすっと?」
「お前の女房に決まっとろうが。お前のメッセージを伝えてやる」
「なんば余計なこつばしよっと。やめんね。あんたに言うたこつば俺の女房に聞かせんちゃよかろもん。やめんね、やめてくれんね!」
(余談)
男とは切ないものである。
沈黙は金。
男は黙って………。
深い思いをあえて秘す。それが男の美学である。
口がよく動く男は、軽薄の感を免れない。
ん? 我が家に来た畏友「カルロス」はよくしゃべるぞ………。
「いいじゃないか。こんな話は、俺だけが聞いていたんじゃもったいないだろうが。奥さんも、聞いた方が嬉しいんだから」
「なんか恥ずかしかろが。やめんね、て!」
私は電話をした。畏友「カルロス」の話を、一字一句はしょらずに、ヤツの奥さんに伝えた。
「あっだけやめろち言うたとに……。恥ずかしゅうて、明日帰れんやろうが」
「ん? だったら、明日も帰らなければいい。いいぜ、明日も泊まっていって」
翌朝。
朝食に、ビタクラフトを使った蒸しキャベツを作った。初めて口に入れた畏友「カルロス」が、
「う、うん。いやー、これは凄まじいね」
という感嘆の言葉を発したことは、「グルメに行くばい! 第20回 :蒸しキャベツ」に書いた。
朝食を終えた畏友「カルロス」は、帰り支度を始めた。
「あれっ? 今日も泊まっていくのと違うのか?」
「あ? あ、うん。やっぱ、帰る。店もあるし」
そそくさと帰った。本当にそそくさと帰った。
(注)
そそくさ=落ち着かないさま。あわただしいさま。
ずっと後になって。
あの日、自宅に帰った畏友「カルロス」は、夕食の食卓に、結婚してから初めてかも知れないというほどの豪華な料理が並んでいるのに驚いた。
奥さんの物腰も、心なしか普段に増して優しかった。
という話を畏友「カルロス」に聞いたような気がする。断言できるほどはっきりした記憶ではない。
この日記を書くに当たって畏友「カルロス」に確認しようかとも思ったが、面倒くさいのでやめた。
世の中には、曖昧にしておいた方が味わい深いこともある。
このような次第で、まるで最初から用意した「夫婦愛のあり方」をテーマにした作文のような落ちになってしまった嫌いがある。
苦しみながら書き継いだら、このような形になっただけである。
ご寛恕願いたい。
というわけで、今回は家庭の味、【肉じゃが】である。この作り方を私に教えたのは、これも作ったような話で申し訳ないが、畏友「カルロス」である。というわけで、レシピは畏友「カルロス」に書いてもらった。
肉じゃがは海軍がハッシュドビーフを日本風にアレンジしたものです。
山口県の三田尻と福井県の舞鶴が互いに、元祖を争っています。
材料
じゃがいも:5個
人参 :1本
タマネギ :2個
糸こんにゃく :1パック
牛小間切れ :300g
出汁 :だし(かつお&こんぶ)/味醂/醤油/砂糖 (割合6:3:3:3)
塩 :適宜 脂(牛脂)
まず、牛脂ですべての野菜をいためます。脂がまわったら、軽くボイルして食べやすいサイズに切ったこんにゃくを加え、だしをひたひたまで注ぎます。そこに砂糖、醤油、味醂の順で入れ、最後に一番上に、蓋をするように肉を並べ、火にかけます。後は鍋が作ります!
この料理も前回の「蒸しもやし」同様、一番上に置いた肉の旨みが下に落ちてジャガイモなどに染み込んで美味しくなります。
奥様、今晩あたり、家庭の味で旦那をうならせてみてはいかがですか?
夫婦和合につながるかも?!