2024
01.29

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の11 あの日は忘れられません

らかす日誌

朝日新聞社のコアタイムは、9時〜17時、10時〜18時の2本立てだった。職場の実情に応じて、どちらかを選ぶ。
というのが立て前だが、編集局には通用しない。どれほど働こうと働くまいと、基本給と所属する部署に応じて定額の時間外手当が支払われるからだ。最も時間外手当が多いのは政治部、社会部。経済部は上から3番目か4番目程度の額だったと思う。つまり、政治部や社会部に比べ、経済部は実労働時間が短いと見なされていた。

時間外手当の多寡はこの際どうでもいい。書きたかったのは、新聞記者の時間管理はとてもルーズだということである。タイムレコーダーなんてない。極端な話、原稿さえ出しておけば、出勤なんかしなくても済む。時間外手当もきちんと支払われる。

とはいえ、デスクとなるとそうもいかない。仕事があろうとなかろうと、編集局の中にあるウイークエンド経済のデスク席に、とりあえずは遅い方の始業時間である10時ごろには座っていなければならない。
私の通勤ルートは、横浜市鶴見区の自宅を出て近くのバス停まで歩き、JR川崎駅に向かう。そこからは東海道線か京浜東北線を利用、新橋駅で降りて築地の朝日新聞社に徒歩で向かうというものだった。

1955年3月20日の朝も、いつものルートで朝日新聞社に向かっていた。そろそろ10時である。
異変に気がついたのは、朝日新聞がもう目と鼻の先に近づいた時だった。ヘリコプターが独特のパタパタ音をたてながら何機も上空を舞っているではないか。そういえば、新橋駅から歩く途中、いつもと違う騒音が耳に届いていた。あの騒音の音源は、あのヘリコプターたちだったのか。しかし、数多くのヘリコプターが何用あって築地の上空に?
分からぬまま、私は会社に到着し、編集局に上がった。足を踏み込むと、騒然としている。

「何かあったの?」

とりあえず、近くにいた記者に聞いた。

「えっ、知らないの? 地下鉄の築地駅で人がバタバタ倒れていて大騒ぎになってるんだよ」

私の最初の反応は

「ふーん」

であった。どうやら私の仕事とは関係がないらしい。事件、事故なら専ら社会部の仕事だ。
だが、デスク席につくと近くにあるテレビから次々と続報が流れてきた。地下鉄の乗客が倒れたのは築地駅だけではなかった。八丁堀駅、霞ヶ関駅など他の駅でもバタバタと人が倒れ、車両内にも倒れている人がいてやがて死者が出たとも報じられ始めた。いったい何が起きたんだ?

オウム真理教の信者が化学兵器サリンを地下鉄車内で散布した無差別テロ事件であることが分かるまでにはしばらく時間がかかったと思う。ゾッとした。彼らはたまたま地下鉄を狙った。閉鎖空間であるため、より有効にサリンガスの毒性を使えると考えたのだろう。悪魔の思考である。そこまで考えが至らず、通勤時間帯のJR線でサリンガスをまくことだってあり得た選択肢の1つである。そうなれば、私もガスを吸引してのたうち回っていたかもしれないではないか。人ごとではない。

地下鉄築地駅は会社から歩いて10分ほどのところである。見に行こうかとも考えたが、邪魔になると悪いので控えた。いや、まだ漂っているかもしれないガスへの怯えが私の足を止めたのかもしれない。

2日後の22日には、警視庁は早くもオウム教団の強制捜査に入った。後に多数の死刑囚を出した地下鉄サリン事件の発生時に、私はすぐそばにいたのであった。

「あの日は忘れられません」

とは多くの被害者の方々の実感だろう。社会変革を目指すテロの刃が、権力者にではなく市民に向けられた事件はその後、様々に論じられた。しかし、いまもってスッキリしない。オウム教団には高学歴者が多かったといわれる。そのようなインテリ集団が、どのような回路、思考、議論、指揮命令系統を通って

「市民を無差別に殺戮すべきだ」

という結論に至って実行したのか。どのような絶望があれば、人はあのようなことに手を染めることが出来るのか。

1995年は阪神大震災であけた。地震大国である日本の、避けようのない自然災害ではある。だが、倒壊したビル、寸断された高速道路、燃え広がる火災、そして何よりも6434人もの死者。そのショックから立ち直る間もない3月20日に発生した惨事である。

「いったい日本はどうなっちゃうんだ?」

そんな漠然とした不安感を抱きながらデスク席のそばのテレビを見つめ続けたのも、ウイークエンド経済デスク時代の、忘れられない一日である。