11.21
グルメに行くばい! 17回 :鍋物
(近況報告1)
畏友「カルロス」が、やっと我が家にやってきた。我が家に来て、広島風お好み焼きを作るという約束を、やっと果たした。
非情にも、畏友「カルロス」の加齢は日一日と進む。あれほど我が家に入り浸っていたのに、最近は我が家まで出かけることを億劫がる。週1度の休日に横浜まで出かけるぐらいなら、自宅でゴロ寝の方がいい、という肉体状況に陥っている。
その肉体条件を押して出かけてきたのは、彼のパソコンが壊れたからだ。私に修理せよという。
どんな事情があるにせよ、来たら、こっちのものだ。
お好み焼きの製作を命じた。修理代の代わりと思えば、安いものではないか。
結論を急ごう。
小麦粉をダシで溶き、すり下ろした山芋を加えた生地は、鉄板に落とすと自らクレープのように広がった。先日、私が作ったものはお玉で広げてやらないと広がらなかった。違いはその程度である。
その程度の違いなのに、今回の方が、確かに全体がフンワリと柔らかく、美味しかった。
ホットプレートは、料理のプロである畏友「カルロス」が使っても、満足な結果が得られなかった。お好み焼きの表面が、パリッとならない。ここは、やはり鉄板でないとうまくないらしい。
書き遅れたが、パソコンは直らなかった。ソフト的な障害ではなく、ハードがいかれていた。ドッグ入りとなった。
(近況報告2)
前回の「野菜の手巻き寿司」を、畏友「カルロス」の長女マリアが、首をひねりながら読んでいた。
この日記を通じて知る父親の真の姿に呆れ果てていたのではない。野菜の手巻き寿司のレシピを見て、
「こんなもの、本当に美味しいの?」
と疑問を持ったが故に首をひねっていたのである。
読み終えたマリアはキッチンに行き、梅干しと鰹節とマヨネーズと醤油、海苔にご飯を取り出し、自分で作り始めた。作り終えて口に運び、
「あ、ホントに美味しいんだ」
とつぶやいた。
畏友「カルロス」からのレポートである。
(近況報告3)
仕事で金沢に行って来た。
「加賀の人」はいなかった。
物足りなかった。
名古屋の地で自炊を始めた経緯は前回ご紹介した。
三日坊主では意味がない。何が何でも続けなければならない。あらゆる分野で、継続は力である。
しかし、考えてみて欲しい。私は、これまで料理など手掛けたことがない男なのである。作ることができる料理など、たかがしれている。はっきり言って、レパートリーは極端に狭い。この状態で、どうやって自炊を継続しろというのか?
いくら美味しかったからといって、毎週末の夕食は野菜の手巻き寿司、という世界は考えにくい。はっきり言って、食べたくない。そんな暮らしはいやだ。私はキリギリスではない。
(余談) 何ごとも、同じものばかりでは飽きる。
例えば……。
「……」の部分は、あなたの想像力にお任せする。多分、すべての答が正解である。
どうする?
考えた。考えに考えて、考え抜いた。
やはり、私は並の人間ではない。ドンぴしゃの解答があった。見つかった。
こうした切羽詰まった課題を解決する方法が1つだけある。
鍋料理である。
土鍋が1つあれば済む。水を張り、昆布を入れて火にかける。沸騰する寸前で昆布を引き上げ、肉、魚、野菜を、ダシの出るものから順番に入れて煮る。煮てタレにつけて食べる。それだけである。誰にでも作ることができる。
さらに、鍋料理には他にない美点がある。中に入れるものを変えれば、あら不思議、全く違った料理になる。
牛肉を使えばシャブシャブである。豚肉を使えば豚シャブだ。魚を使えば魚すき。肉と魚を使えば寄せ鍋。フグを買ってくればフグチリになり、アンコウを買ってくればアンコウ鍋となる。
おまけに、鍋料理をつつけば、結果としてたくさんの野菜を採ることになる。もともと鍋料理とは、鍋に入れた肉や魚を煮てエキスを出し、そのエキスを吸い取った野菜を食べる料理だともいうほどだ。極めて健康食なのである。
料理のスーパーマンなのである。
いや、男女同権思想からいくと、スーパーパーソンである。
(余談)
20世紀の名曲、John Lennonの「Imagine」の一節。
♪ Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
後にJohnは、「A brotherhood of man」の部分を、「A brotherhood and sisterhood of man」と変えて歌っていた。
恐い奥さんがいたもんね。
でも、歌いにくかったろうなあ……。
次の週末から、鍋料理に邁進した。
土曜日。昼食を終えると、名古屋の中心部栄にある三越の地下食品売り場まで出かける。買い出しである。
豚シャブにしよう。豚肉の薄切りが必要だ。肩ロースなどより、脂肪層がたっぷりあるバラ肉の方が安くて美味しい。
白菜がいる。1人で食べるのだから、4分の1で十分だ。ネギ1束。豆腐1丁、椎茸1パック。春雨も欲しい。春菊も是非ものである。エノキ茸も食べようか。
そうそう、紅葉おろしを作るのに、大根も必需品である。こいつに包丁で切れ目を入れ、そこに鷹の爪を押し込んで一緒におろしてしまう。こうして作った紅葉おろしをポン酢に入れて、鍋で煮えた肉や野菜を食べるのだ。あっ、そうか。その上に散らす小ネギも買っておかなくっちゃな。おっ、カボスが出てる。こいつも買っていこう!
(余談)
個人的には、カボスより、柚子より、ダイダイが好きである。なにしろ、我が生家には、ダイダイの木が2本あった。その幼児期の記憶のためと思われる。
生家にあったのはダイダイだけではない。柿の木が16本、ミカン、キンカン、イチジク、ビワ、ザクロ、桃、梅、ブドウ。挙げ句の果ては、バナナの木も3~4本あった。もっとも、こいつだけは実が親指以上の太さにはならなかったが。気候のせいだろう。畑ではスイカも作ったし、トウモロコシも栽培した。サツマイモ、イチゴも、時に顔を出した。
田舎の話である。これだけの土地が東京にあったら……。
いまごろ私は、肝臓障害でこの世の人ではないかもしれない。
製作は簡単である。野菜や豆腐を一定のサイズに切れば終わり。妻でなくても、私でなくても、誰であってもできる。
夕方6時過ぎ、ガスコンロをテーブルに置き、鍋をかけ、調理を始めた。鍋から昆布を引きあげ、沸騰するのを待って椎茸、豚肉、白菜の白いところなどを放り込む。春菊やエノキ茸なんかはすぐに火が通るから、まだ入れない。このままで蓋をしてしばらく待つ。
鍋物の調理は、鍋に入れる素材をどの程度の時間煮て食べるか、だけである。この「食べ頃」の見極めができると思い込んでいる人は、鍋奉行になりやすい。自分が食べるものだけでなく、他人が食べるものも「煮えすぎる」ことが許せない。
「ダメだって。そんなものはまだ入れちゃダメ。こいつはすぐ煮えるんだから、食べる直前に入れるの!」
「おっと、そいつはまだ煮えてない。まだだよ、まだ」
「ほら、これ煮えてるよ。早く食べなくちゃ」
「早く食べろって! ダメだよ、早く食べないと煮えすぎちゃうんだから。煮えすぎるとグズグズになって美味しくないんだよ」
てなことを言いながら、他人の取り皿に勝手についで回る。酒を飲みながら、自分も食べながら、鍋の中のものの状態に気を配るというのは、実は相当に神経を使う仕事なのだが、なーに、本人が好きでやっているのだから放っておけばいい。
「あ、すいませんねえ、よそってまでいただいて」
なんておべんちゃらを言っておけば、当人は大満足なのである。
(反省)
そう言えば、私も時々「鍋奉行」と呼ばれる……。
500mlの入りのヱビスビールの缶を開け、コップについで渇いたのどに流し込みながら煮えるのを待つ。そんなに長い時間はかからない。
この時間を利用してカボスを半分に切り、取り皿に絞り入れる。そこに醤油を注ぎ込んで味を調え、紅葉おろしを溶かし、小ネギを刻んだヤツを散らす。準備完了である。
鍋の蓋にある空気抜きのアナから湯気が噴きだし始めた。よし、食べ頃である。蓋を取り、煮えた豚肉と野菜を大胆に取り皿に移して口に運ぶ。満足の瞬間である。料理の味がまだ口の中に残っているうちにヱビスビールをグッと飲む。至福の時だ。
ここまでは、どこの家庭で鍋料理を食べても、ほとんど同じであろう。あとは、淡々と、あるいは、和やかに談笑しながら、もしくは全員でテレビを見ながら、全員で鍋をつつく。やがて鍋は空になる。具をつぎ足して、また食べる。やがて食べるものがすべて胃に収まる。
単身生活だと、エンディングが違う。
食べ進むと、当然のことながらお腹がくちくなる。もういいかな、と思う。思って、白菜や豚肉、ネギなどを乗せたトレーを見る。まだ残っている。
この、残り方がいけない。
大量に残っているのなら、次回にとっておこうか、と考える。ところが、そう思わせるほど大量には残らない。ほんの少し残る。
「もったいないから、食べてしまうか」
と考える程度に残る。で、残ったものを鍋に入れ、結局すべて食べてしまう。困ったことに私は
「もったいない」
の意味が分かる世代なのである。
(雑談)
1人分の食材というのは、なかなか買いにくいものなのである。
1人分、なんて書いてあるヤツは、既に白菜も何もかも切ってあって、ひからびているような気がする。野菜は、食べる直前に切らねばならないのだ。
鍋の中身を食べてしまうと、いい味の出たスープが残る。このスープでおじやを作るのが、鍋の楽しみである。
(雑学)
「丸かじりドン・キホーテ」という本を読んだ。といっても、深夜まで営業してる安売りチェーンの活用法を解説した本ではない。中丸明さんが、セルバンテスの名著「ドン・キホーテ」を手玉に取った本である。
こいつによると、おじやの発祥は、スペインの「オージャ(OLLA)」だとある。深鍋のことである。
その昔、日本にやってきたバテレンたちが、深鍋で何かをグツグツ煮ていた。それを見ていた我々の先人が、
「そら、何ね?」
と尋ねたところ、深鍋のことを尋ねられたと思ったバテレンの1人が、
「オージャ(OLLA)である」
と答えたのだそうである。
食い物にしか目がなかった我々の先人は、鍋でいろいろなものを煮込んだ料理を「オージャ(OLLA)」だと思い込んだ。
いやあ、雑学は楽しい。
そもそも、お腹がいっぱいになり、食材が残っているのを見て「もったいない」とすべて平らげ、その上でのおじやである。
正直、きつい。
「まだ食べるのか」
という思いに迫られる。しかし、おじやのない鍋料理なんて、泡の出なくなったビールのようなものである。大道のいない日本日記(デジキャスのホームページでは、「日本日記」のタイトルで書いておりました)ともいえる。鍋料理にはおじやが付き物であるという日本の醇風美俗は守らなければならない。単身生活でも。
できあがったおじやを茶碗に取り、刻んだ三つ葉を乗せて、その上から取り皿に残ったタレをかける。
食べる。美味い。だが、きつい。だけど美味い。すべて食べる。美味かった。けど、いやー、きつい。苦しい。お腹がはち切れそうである。
あまりの苦しさに、食卓を離れてテレビの前に行き、ゴロリと横になる。横にならずにいられないほど苦しいのである。
週末の夜である。
37平方mのワンルームマンションである。
いい年をした男である。
テレビの前に横になり、目で見ても分かるほど膨らみすぎたお腹を抱えて、口で息をしながらあえいでいるのである。
トド状態である。
女房、子供、ましてやどこかのいい女に見せられる姿ではないのである。
「もったいない」
という概念は、これだけの難行苦行を強いる力を持っているのである。
こんな暮らしが続いた。
異変に気付いたのは、2、3ヶ月たったころだった。
ベルトがきつい!
18歳の75kgをピークに、どんなに飲んでも、どんなに食っても、体重が73kgを超えることがなかった。スマート、スリムを絵に描いたような肉体美を誇ってきた。その荘厳さが、崩れ始めている!
鏡で見る。ふむ、お腹の周りの肉付きが何となくふくよかである。
「そうか、俺も中年太りをする年代になったのか」
あきらめにも似た感慨を抱きながら、中年太りとは何であるのか、哲学的な思考を始めた。しばらく考えて、ひらめいた。真実に到達した。到達して、愕然とした。
私の場合、中年太りとは、単なる食い過ぎではないか?
胃袋が、
「これ以上ものを詰め込んではいかん!」
というSOSを発しているにもかかわらず、
「もったいないから」
の一言で胃袋に過酷な労働を強い、「食い過ぎ」に自らを追い込んでいるのは、何を隠そう、私なのである。
自業自得である。
もう少し自らに同情を寄せるならば、
「食べ物を無駄にしてはいけない」
という道徳を忠実に実践したことが、この事態を招いたのである。
(思い出話)
我が祖母は、beautiful boyであった私に向かって、懇々と教え込んだ。
「裕宣や、米という字を見てみなさい。八十八と書いて米という字になっているんだよ、分かるかい? これはね、お百姓さんが88回も手をかけてやらないとお米が取れないからなんだよ。お百姓さんが88回も手をかけたお米を粗末にしたらバチがあたるんだよ。覚えておきなさい」
以後、その教えを素直に実践してきた。
私は、弁当は、蓋についたご飯ツブから先に食べる人間である。
真実を見抜いたら、対策を立てねばならない。問題は、単身生活であることだ。鍋料理をすれば、必ず余りが出てしまうのである。
選択肢は2つしかない。
● 食べ物を無駄にするのは犯罪である→残さず食べる→ますますベルトがきつくなる
● 健康が大事である=スリムな肉体を維持し、美を守る→残り物は、道徳と一緒に捨てる
私は道徳を捨てた。残った白菜、豆腐、ネギなどを勇気を持って捨てるようにした。
私は、美の守護者たらんがために人非人になった。
(後日談)
しばらくして、ある人が
「俺さあ、鍋物して野菜が余ると、漬け物にするんだよなあ。ほら、プラスチックでできた漬け物器ってあるじゃない。ネジみたいなヤツを回すとプラスチックの板が野菜を押すヤツ。あれを使うんだよ」
翌日、デパートに買いに行った。
人非人状態を脱出した。
人非人になっても、膨らんだお腹は元に戻らず、現在に至る。
何が悪かったんだろう?
ということで、今回は、鍋料理がレシピであるような、ないような、中途半端なことになってしまいました。これだけじゃ、いくらなんでも、
お試しあれ!
とは言えないわなあ……。
そこで、中途半端だけど、我が家で継続している【鍋の楽しみ方】を。
鍋の中身を食べてしまうと、スープが残ります。このスープは、中に入れた食材のエキスがたっぷり溶け込んでいて、それはそれは美味しいのであります。だから、最後にご飯を入れてこのエキスを吸い取らせておじやにし、食べるのであります。
その前に1つだけスープを楽しむ方法があります。スープのまま飲むのです。
スープをお椀に取り、塩と胡椒で味を付けるだけです。細かくなった具が紛れ込んでも構いません。滋味豊かな、実に美味しい一品になります。
そろそろ本格的な鍋物の季節です。この拙文を読むまでご存じなかった方は是非お試しください。