2005
09.17

とことん合理主義 – 桝谷英哉さんと私 第18回 :Macintosh入門

音らかす

桝谷さんは、多くの人に先生と呼ばれた。
受話器を取ると、

「桝谷先生でいらっしゃいますか。私は……」

というフレーズから会話が始まった。
迷いに迷ったオーディオの道でクリスキットに巡り会い、迷いが一気に解消して、その勢いで、この秀逸なアンプを世に送り出した桝谷さんの崇拝者になる。崇拝者になると、ついつい「先生」と呼んでしまう。

その心理は判らないでもない。だが、それでは何処かの評論家先生の書いた記事に振り回されていたのと同じではないか?
と突っ込みを入れたくもなる。

桝谷さんを立派だと思うのなら、その合理精神を見習うべきであって、「先生」と呼ぶことではないだろう。

と思うのだが、桝谷さんは「先生」と呼ばれるのを決して嫌っていなかった。著書の何処かに

「先生と呼ばれるのも楽ではない」

とのくだりがあった。先生と呼ばれることに、ある種の快感を感じなければ、こんな文章は書かないはずである。

(注) 
ここを書くのに、数冊の本をめくってみたが、該当個所を発見できなかった。従って、ここの引用は、私の頭の中からのものである。

私は、

先生と呼ばれるほどのバカでなし

という川柳に共感している。
私が「先生」と呼ばなければならなかった人たちに、ろくなのがいなかったからかもしれない。
「先生」と呼ばれてふんぞり返る人たちに、反発を感じるからかもしれない。
相手を揶揄するときに、「センセ」と呼んでいる日常生活のためかもしれない。
だから、桝谷さんを「先生」と呼んだことは一度もない。いつも「桝谷さん」と呼びかけた。

だが、先生と呼ばないことと、その人から沢山のものを学ぶことは違う。

私は、沢山のものを桝谷さんから学んだ。様々な面で、桝谷さんは私の師であった。そんな関係が12年続いた。これまで書き継いできたことから、その片鱗はご理解いただけると思う。

たった1つだけ、私が桝谷さんに教えたことがある。

Macintosh

である。

といっても、オーディオのMacintoshではない。パソコンのポルシェといわれた、あのMacである。

私がMacを手に入れたのは、1994年の冬のことだ。

その10年近く前に、初期のMacを見たことはあった。パソコン好きの同僚に誘われて、赤坂まで見学に出かけた。ずいぶん変わったパソコンだった。本体とディスプレーが一体になっている。訳の分からない呪文を入力しなければ動かなかった多くのパソコンと違い、マウスというもので操作ができるし、画面のデザインもチャーミングだった。だが、

「ふーん、そんなものか」

と思っただけだった。
それ以外の感想を持っても、とても買えそうな価格ではなかった。

(余談) 
その前後に、私は国産のパソコンを買った。この同僚の影響を受けたのである。確か、20万円近くを投じたような記憶がある。 
「ポートピア連続殺人事件」 
というゲームソフトを買った。これも同僚の影響である。 
そのうち雑誌を買ってきて、Basicとマシン語で書いてあるゲームのプログラムを入力し始めた。 
午前0時過ぎに帰宅して、パソコンに2時間向かい合って、入力し終えたプログラムをカセットテープに保存して、入力が終わるとロードして動かす。 
睡魔と戦いながら、そんな暮らしを続けた。なんとなく、ハイテクの最前線にいるような気分で興奮した。 
そのころ、頼まれて、建設省(当時)の省内報に原稿を書いた。
「間もなく、暮らしの中にパソコンは根付くだろう。パソコン音痴は、キーボードのキーを間違ってさわると、世界が破壊されると考えがちである。それでは新しい時代に生き残ることはできない。どのキーをさわろうと世界は破壊されないことを身体で理解するために、そろそろパソコンを買ってみたらどうですか?」
という趣旨のことを書いた。 
驚いたことに、私の書いたものを読んでパソコンを買ったという人が3人も現れた。当時も、私のアジテーション能力は秀でていたらしい。 
それからしばらくして、私の暮らしに、パソコンはいっさい役に立たないことが判明した。まだ、ワープロというソフトはない。日本語入力用のソフトもない。カタカナ入力ができるだけである。グラフィックソフトも、OCRソフトも、プレゼン用のソフトもない。 
である以上、我が家のパソコンは、単なる、出来の悪いゲームマシンに過ぎなかったのだ。 
私はパソコンを捨てた。 
私が書いたものに影響されて未熟なパソコンを買った3人がその後どうしたか、私は知らない。 
ペンの力とは、げに恐ろしいものである。

それが、再びパソコンを買おうと思った。切っ掛けは単純だ。
その年の秋、新聞に大きな記事が出た。
文部省が、パソコン教育の強化を計画していた。数年後、中学校、高校には2人に1台(3人に1台だったかも)のパソコンを置くという。
それなら、私の選択肢は1つしかない。子供の教育のために、パソコンを買わなければならない。
私は、子供にはできる限りの教育を与えてやりたいと考える教育パパなのである。

例の同僚は、いつの間にかMacを手に入れ、完璧にMac党になっていた。会うたびに、彼の派閥に加入するよう誘われていた。Macの素晴らしさをさんざん吹き込まれた。というより、話を聞いていて理解した。

だから、迷わなかった。ほかの製品と比較することもなく、Macを買った。30万円近くはたいた。

使い始めると、デスクトップのデザイン、OSに隠された遊び心、不要なファイルを捨てるとプクッと膨らむゴミ箱(いまは、ゴミ箱のふたが開く)、勝手に、簡単にカスタマイズできる使いやすさ、すべてに魅せられた。私の本棚に、 Macの本が急速に増えた。毎月、5、6冊のMac雑誌を買った。

それでも、3ヶ月は単なるゲーム機だった。最もはまったのは、ブロック崩しである。
大の大人が30万円近く使いながら、毎日ゲームをやって暮らしていたのでは、ちと心許ない。

(余談) 
子供たちは、ずいぶん長い間、パソコンには見向きもしなかった。毎日パソコンに向かってブロック崩しを繰り返す父親の姿は、彼らの目にはどのように映っていたのだろう? 
子供たちが、おずおずとブロック崩しを始め、Kid Pixというソフトでお絵かきをするようになるのは、しばらく後のことである。 
その子たちがいま、一人で複数台のパソコンを持ち、父親が使ったこともないソフトを使いこなしている。パソコン購入の当初の目的は、結果的に達成された。 
でも、3人のうち2人がMacをすてた。 
寂しい。

4ヶ月目にワープロソフトを買った。日本語入力ソフトはそのワープロに付いていた。これで仕事の役にも立つようになった。今度は暮らしの中にしっかり根付いた。

間もなく、インターネットにも接続した。知り合いと話していて、インターネットを使っていると判ると、

「ね、メールちょうだいよ」

とお願いしてメル友を作った。そうしなければ、メル友はできなかった。そんな時代である。

かくして、私は完全なMac党になった。
そのころである。

「桝谷さん、Macを買ったらどうですか? 仕事の能率が上がりますよ」

と3度ほど、Macの導入を勧めたことがある。
返事はいつもつれなかった。最後は、

「言うときますけどな、私はずいぶん前からパソコンを使うとります。売ってるソフトやと、どうも私の仕事に合わんので、必要なソフトは自分で書きましたんや。Macかなんか知らんが、全く必要ありまへんのや」

へーっ、桝谷さんって、ソフトも書けるんだ。
驚いた。感心した。

でも、心の中では、

「この頑固オヤジ。パソコンは日進月歩だい。今のソフトはずいぶん使いやすくなってるんだけどねえ」

と毒づいた。
それから、Macの話はしなくなった。

これだけで終わっては面白くも何ともない。
これから面白い話が始まる。

「Macintoshを買おうと思いますねん」

唐突に電話が来た。1997年前後だった。

「だって、桝谷さんは、新しいパソコンはいらないって言ってたじゃあないですか」

「それが、事情が変わりましてん」

事情?
それは、こんな話だった。
桝谷さんは本を書く。オーディオの話だから、話題は音楽にも広がる。そうすると、楽譜を見せたくなる。クラシック音楽の本も書く予定だという(「オーディオマニアが頼りにする本」の「5」と「遺稿」で実現)。クラシック音楽の本の場合は楽譜が必須項目になる。

「あんた知りまへんやろけど、楽譜書きを頼むと高いんですわ。それだけなら我慢もしますが、あれはですなあ、五線紙の上に、こう、音符の形の穴があいたプラスチックを当てまして、手で書くんですわ。そやで、とにかく時間がかかりますねん」

それが、Macと何の関係がある?

「ついこの間、クリスキットを使うてもろてる名古屋の音楽の先生から、『パソコン使うたらええ』いわれましたんや。念のため名古屋まで見に行ったんですわ。そしたら、これがえらいよろしい。なんでも、Finaleいうソフトでしてな、これ使うと自分で楽譜が書けるんですわ。しかも早いし、第一綺麗や。そのソフト、Macintoshでしか動かんのです。それで、Macintoshを買わないかん思いましてな」

はあ、そうですか。で、今日は、何のご用件で。

「それでなんやけど、大道さん。あんた、私にMacintoshを買え、いうてなはったな。ということは、Macintoshに詳しいということや。なあ、私にMacintoshの使い方を教えてくれまへんやろか」

そりゃあ、これまではお世話になりっぱなしですから、少しでもそのお返しができるんならお手伝いはしますが。

「そないでっか、そらありがたいわ、ほな、よろしゅう頼みまっせ」

こうして私は、初めて桝谷さんの先生になった。

それから1週間ほどたって、電話が来た。

「来ましたわ。Macintoshが来たんですわ。電話をくれますか」

「あ、はい」

クリスコーポレーションの電話番号を回す。この電話番号は、記憶の底にこびり付いている。
078-221-1633
である。いまでも、電話帳を見ずにかけることができる。

「もしもし」

「ちょっと待っとくんなはれ。これから箱を開けてセッティングしますんや。買った店の人がきてやってくれてますさかい、ちょっと待ってもらえまへんか」

だって、電話をくれって電話をしてきたのはあなたでしょう?!

「じゃあ、セッティングが終わったら電話をいただけますか?」

「判りました。電話しますわ」

やがて。

「桝谷です。セッティングできましたわ。電話をくれますか」

「はい、はい」

「もしもし」

「桝谷ですわ。それで、どないしたらよろしいねん」

「いま、どんな状態ですか?」

「デスクの上にセッティングしただけですわ」

「判りました。では、まず電源を入れましょう」

「はあ、はあ……………。そやけど、どこ探しても電源スイッチなんてありまへんで。どないしますねん?」

そうか。当時のMacには、いわゆる電源スイッチがない。キーボードに電源をオンにするキーがあるのみだ。

それにしても、このオヤジ。説明書も見ないで電話をしてきたな。が、まあ、Macというパソコンは、多くの人が解説書を見ないで使っているというから、いいか。

「キーボードの右上に、左向きの矢印が付いたキーがあるでしょう?」

「えーと、ありますな」

「そのキーが電源スイッチになりますから、それを押してください」

「そな、押しますわ。おっ、ボーンいいましたで。なんか、キリキリキリキリいいよるわ。ほいで、何やらブラウン管が明るくなってきましたわ。ほほう、文字が出て来よる。ん? Welcome to Macintosh やて。何や、おもろいコンピューターですな」

「1分ほど時間がかかりますから待ってください」

「今度は、下の方になんやらパラパラ絵が出て来よりましたで。これ、何ですねん?」

「起動アイコンといいます」

「何ですねん、それは?」

「えー、そのようなことはまだ知らなくても全くかまいません」

「おーっ、今度は画面の色が変わりましたわ。ほんで、いろんなものが画面の上に出て来ますで。右上に、何やら箱が出ましたな。『Macintosh HD』と書いてありますわ。ほんで、右下にはゴミ箱の形をしたのが出ましたわ」

「そうですか、それでMacは正常に立ち上がりました。さて、使ってみましょう」

Macintoshの授業はこのようにして始まった。
2人の弥次喜多道中が始まった。