10.03
とことん合理主義 – 桝谷英哉さんと私 第2回 :奥さんの声
「もしもし」
(余談)
通常、日本の電話はこの4文字から始まる。
アメリカに行って初めて電話をしようとした人が、最初の呼びかけをどうしたらいいか、さんざん考えた。挙げ句に、
“ If, if ”
と語り始めたという古いジョークがある。そんな人がいたかどうか、私は知らない。
私は、
「申します、申します」
が変形したものではないかと見当を付けているが、本当のところはわからない。ご存じの方がいらっしゃったら教えていただければありがたい。
とにかく、変な日本語であると思いながら、今日も使っているわけである。
「クリスコーポレーションですか?」
「はい、クリスコーポレーションです」
「そうですか。大道と申しますが、桝谷さん<をお願いします」
「私が桝谷です」
桝谷さんとのfirst contactは、こんな具合に始まった。
クリスコーポレーションは、桝谷さんが自分で興した会社と、本には書いてあった。となれば、桝谷さんは社長に違いない。代表電話のダイアルを回して、ダイレクトに社長自らが出てくる会社は珍しい。
私の目的は、プリアンプの買い換えである。クリスキットが、買い換え対象になるかどうかがわかれば用件は済む。
だが、クリスキットに買い換えるかどうか判断するには、「オーディマニアが頼りにする本」で出会った、びっくり、ドッキリのオーディオ論を検証することが欠かせない。
それまでに蓄えていたはずのオーディオ知識を総動員して、「オーディオマニアが頼りにする本」への疑問をぶつけた。
― 真空管アンプは前世紀の遺物みたいに書いてあるが、トランジスタアンプの音は固くてキンキンして聞けない。
「あんた、ほんとにいいトランジスタアンプの音を聞いたことがありまへんやろ」
― いや、グッドデザイン賞を受けたトランジスタアンプを使ったことがある。
「他人が選んだからいいというのは、どうしようもないマニアでんな。それで、その音に満足してなはったのか?」
― いや、そうではないから、真空管アンプにした。
「そうでっしゃろ。だから、ほんとにいいトランジスタアンプの音を聞いたことがないやろ、言うてまんのや。それで、その真空管アンプの音に満足してなはったのか?」
― JBLのスピーカーを使っているが、真空管アンプを使っても、高域に耳に突き刺さるようないやな音が混じる。
「そないですか。そしたら、プリだけでもうちのアンプに変えてみなはれ」
― 問題はスピーカーではないのか。音の80%はスピーカーで決まるというのが常識ではないか。
「違いまんねん。音の80%はアンプ、それもプリアンプで決まりまんのや」
後に知った桝谷さんは、こうした「マニア」からの電話は嫌いな方だった。場合によっては、
「あんたなんかに、うちのアンプは売りまへん。使こうてもらわんでも結構ですわ」
と平気でいう人だった。
知らぬが仏、である。私は矢継ぎ早に質問を投げかけた。
(余談)
あのとき、私のくだらない質問に最後まで付き合っていただけたのは何故なのか。
その日、朝から何かいいことがあって気分が良かったのか。
暇で、話し相手が欲しかったのか。
私の質問のしかたが秀逸であったのか。
謎である。
「そうですねえ、でもアンプを買うとなると、それほど安い買い物でもないし、事前に試聴をしたいのですが、どこかそんな場所はありませんか」
「そんなもん、ありまへん」
「しかし、聞かずに買うというのもねえ……」
「あんさん、試聴室を1つ持つと、どれくらいコストがかかるか考えたことありまっか?」
「はあ?」
「まず、部屋代が月に30万円、女の子の一人も置かなあきまへんやろから、その人件費が30万円から40万円、それに電気代、水道代、レコード代、テープ代、いくらでも金はかかりまんねん。しかも、関東、関西、中部、九州、北海道をと5ヶ所置いたら、かかる金はその5倍や。そんなコストかけとったら、クリスキットの値段をいまの3倍にしたって赤字ですわ。何で私が、自分の会社を赤字にせないけませんねん? そないなもん、ありまへんよって、クリスキットはいまの値段で売れまんねん」
確かに、プリアンプとパワーアンプを切り離したセパレート型のアンプは、マニアの間では「高級品」とされ、価格が高かった。クリスキットが格安であることは疑いがなかった。
しかし、何か情報が欲しい。そうでないと、クリスキットという、見たこともないアンプを買っていいものかどうか、判断に困る。
「わかりました。でも、いったいどんな音のするアンプなんですか?」
桝谷さんは、打てば響く人だった。間髪を入れずに問い返された。
「ほな聞きますが、あんたの奥さん、どないな声してまんねん?」
女房の声? それがオーディオアンプを何か関係があるのか? 訳の分からないことを言う親父である。
「いや、女房がどんな声をしているかといわれましてもですねえ、ちょっと言葉では説明しにくいですよね」
当たり前の話である。
・渋くていい声
・甘いヴォイス
・透明感のある声
・ハスキーな声
・甲高い声
・落ち着いた声
・鼻にかかった声
・セクシーな声
など、様々な表現があるが、どう表現されようと、表現の元になった声は想像すら出来ない。渋くていい声の持ち主は、私の周りにも数人いる。この表現に何を付け加えたら、それが佐川君であると特定できるのか。できるはずがない。
ほんとにおかしな親父である。
「そうでっしゃろ。私も、私の作ったアンプからどんな音が出てくるかといわれたって、説明のしようがないんだ!」
やられた。やられた×24。
訳が分からず、おかしな質問をしたのは、私だった。まだ人間が甘い。
が、私もさるもの、ひっかくもの。正確に言えば、恥知らずである。追い打ちをかけた。
「そうですね。でも、やっぱり、かなりいい音が出るんですか?」
これも、即座に反応が返ってきた。
「あんた、誰に電話をしておられるんですか?」
ん? 語尾が妙に協調されているぞ! 何か、怒らせてしまうようなことを言ったんだろうか?
「えー、あなたはクリスキットをお売りになっている桝谷さんでしょ?」
「桝谷です。私が、貧弱でどうしようもない音が私の作ったアンプから出てくるとでも言うと思ってはるんでっか、あんたは!? だからマニアは馬鹿だっていうんだ!」
「………」
返すべき言葉がなかった。
完膚無きまでにやられた。
完敗である。
「………」
(余談)
冷や汗が出る、とはこんな瞬間のことをいう。受話器を持つ手のひら、受話器を押しつけている耳の周りが、汗でヌルヌルしてくる。
いや、初夏で汗ばむ陽気の日だったからだ、と言いたいのだが。
「あんた、いろいろ言うてなはるが、グチャグチャいわんと、まずプリアンプだけでええから買うてみなはれ。組み立てていまのアンプと入れ換えてみなはれ。それで音がよくならんかったら、プリアンプのお代は返してあげますわ」
救いの手を差し伸べてもらった。助かった。いや、助かっただけではない。いつの間にか、私の話し方、態度までも変わっていた。
「わかりました。ボーナスが出たらすぐにお金を振り込みますので、よろしくお願いします!」
電話の前で頭を下げた。
「まず、クリスキットのパンフレットを送ってあげますさかい、読んで納得がいったら、お金を振り込みなはれ。2週間ぐらいで届きますわ」
「はい。よろしくお願いします」
「で、あんた、アンプを組み立てた経験はありまんのか?」
「はい、いま使っているのもキットですので、経験はございます」
「ハンダごてはお持ちかな?」
「いや、随分前に組み立てたものですから、もうどこに行ったかわかりませんが」
「そしたら、40Wのヤツを買いなさい。それ以下だとうまくハンダがのりまへん。それから、ハンダはJISマークが付いたヤツ。間違うても、マニアの使う、銀の入ったヤツとかは使うたらあきまへん。よろしいか」
「はい、いろいろとご指導、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
無事にボーナスが出て、すぐにお金を振り込んだのは言うまでもない。
注文したのは、クリスキットのプリアンプ、Mark-8。確か、4万6000円程度だったと思う。
(余談)
現在は、レコードを聴くためのイコライザー回路をなくしたMark-8Dとなっている。Mark-8は、レコードの時代は終わったとの認識から、製造されていない。
Mark-8Dは、Mark-8からイコライザー基板を2枚はずし、それに伴う一部の仕様変更だけで、ほかの構造はまったく同じ。だが、音質は格段に良くなった。Mark-8も、余分な音が出てこない素晴らしいアンプだが、それでもまだ余分な音がつきまとっていたことが実感できる。
音質が向上したMark-8Dは、Mark-8に比べて4000円ほど安かった。「部品点数が減りましたさかい、安くするのは当たり前」とのことだった。これを合理主義という。
普通は、音質が向上しなくても「デジタルソースに最適化した、新時代のアンプ」として価格が上がることが多い。
いずれにしても、シンプル イズ ベスト
である。
桝谷さんは、
「イコライザー基板から出る高周波がいたずらしてましたんやろな」
とおっしゃっていた。
Mark-8Dの価格は、5万6800円(2002年10月13日現在)である。
こうして私は、桝谷ワールド、クリスキットワールドの扉を開いた。