07.04
#8 胸部X線:要精密検査
人間、少なくとも一度は自分の死と対面せざるを得ない。その時、その人間の本性が露呈する。
春の健康診断の結果が来た。先週の水曜日である。毎年2回の定例行事。あまり関心はない。悪い所はいつも決まっているからだ。
・右耳が難聴。
・血圧がやや高め。
・中性脂肪が基準値を超す。
・脳に根本的な欠陥がある。
ほかの数値はすべて正常だ。これだけ酒浸りの暮らしなのに、いまだに肝機能は正常(ちなみに今回は、GOT=20、GPT-20、γ-GTP-40)で、それも基準値(それぞれ39、49,79)のずっと下にとどまっている。現代の奇跡と呼ぶほかない。丈夫な肝臓を与えてくれた両親に感謝せねばならない。
「まあ、今回も同じさ。たまにはギョッと驚くような結果が帰ってこないと、健康診断を受けるのが面倒になるなあ。秋はさぼるか」
と思いながら結果を一覧した。
視力:異常なし
血圧:要経過観察
検尿:異常なし
聴力:要経過観察
予想通りである。私の肉体は、相変わらず健康だ。だが、次の一行に移った時、私は我が目を疑った。
胸部X線:要精密検査
私がタバコを吸い始めたのは20歳の時だった。法定年齢に達したから吸い始めたのではない。そもそもタバコには、全く関心がなかった。なのに、突然悪癖に染まった。
その日私は、友人に誘われて裁判所にデモに出かけた。法定で傍聴して、終了後に裁判所の庭で、
不当裁判粉砕!
などとシュプレヒコールを繰り返しながら、隊列を組んでデモをした。その時である。私の数列前で隊列を組んでいた学生のポケットからタバコが落ちた。ハイライトだった。
落とし物は、拾ってあげるのがエチケットである。私は何の気なしにハイライトを拾い、ポケットに入れた。まだ封を切って間もないものだった。デモが終わって集会が始まった。私は前に出て参加者全員に呼びかけた。
「さっきこのタバコを落とした人がいますが、誰ですか?」
私の目の前で落としたのである。誰かが申し出ると思っていた。ところが、不思議なことに誰も手を挙げない。行き場を失ったハイライトは私のポケットに仮の宿を見つけ、居座った。
下宿に帰り、ポケットの中のものを机の上に出した。タバコもそこに並んだ。しばらくは放っておいた。
だが、本を読もうと机の前に座ると、ハイライトが目に入る。さて、このタバコ、どうしたものか。まだ使える物、未使用のものを捨てるなどという選択は、貧しい学生にはない。有効活用の道を探らねばならない。だが、持ち主のないものをどうすればいい?
人間とは不思議なものだ。別に関心はないのだが、そばにあると何となく気になる。気になっているうちに、ふと、魔が差した。
(余談)
男女の関係にも同じ力学が働く。
「タバコって、どんな味がするんだろう? ほとんどの大人がタバコを吸うのはどうしてなのだろう?」
ふむ、どうせ持ち主のないタバコである。だとしたら、私が味わって悪いことがあろうか? おずおずと1本取りだし、口にくわえた。マッチを探して火を着ける。タバコ特有の臭いが鼻腔をくすぐる。思い切って吸ってみる。
ゴホッ、ゴホッ。
ひえー、タバコってこんなものなのか。どうしてこんなもの、金を出してまで吸ってる奴がいるんだろう?
だが、待てよ。これ、初めてで慣れてないからじゃないのか? 2本、3本と吸っているうちに味が分かってくるのでは? だって、金を出してまで吸うやつがあんなにたくさんいるんだから。女の子まで吸ってるもんなあ。
そうか、ハイライトは終わっちゃったか。これでやめる? いや、せっかく吸ったんだから、あのロングピースというタバコの味も知って悪いことはあるまい? 次にホープ、そう、ショートピースとショートホープも吸ってみるか。やめるのはそれからだ。
当時、デラックス・ハイライトというタバコがあった。ハイライトのブルーの部分がえんじ色だった。ハイライトが80円の時に120円。高級タバコである。それも買ってみた。
風邪を引いて部屋で寝ている日だった。 何の気なしに1本取り出して吸った。えっ、というほど美味かった。私は、立派な喫煙者になった。
あれから30数年である。
胸部X線:要精密検査
胸に影がある? 今時、結核なんて流行らない。肺炎? 我が健康体を見ると、それも考えにくい。だとすると、肺ガン?
あれから30数年だもんなあ……。
それに、である。我が社の健康診断にはある定評がつきまとっている。精度が極めて低い。我が社の健康診断で癌の疑いが出てきたら、病は末期に入っていると覚悟した方がいい……。
あれから30数年だもんなあ。末期の肺ガン……。
そういえば、よく痰が出る。私の死因はタンを喉に詰まらせた窒息、ということになるに違いない、と思っているほどだ。
いわれてみると、朝の散歩で深呼吸をし、胸の空気を全部吐き出そうとすると咳き込む。あれは兆候だったのか?
いや、首筋が凝って仕方がないのも、ひょっとしたら肺から来ているのか?
あれ、そういえば胸に違和感がある。普段は意識もしなかったが、意識し始めると、なんか胸の奥の方に鈍い痛みがあるような気がしてくる。
私は、一番いやなものと対面する羽目に陥った。
胸部X線:要精密検査
精密検査は受けねばなるまい。我が社の検査機器は精度が低いのである。間違いだってあり得るではないか?
その結果が出るまでは、家族には秘す。病が確定するまでは、心を痛める人間は少数がいい。私だけでいい。
にしてもなあ、私が知る限り、うちの家系にはガンで死んだ者はいない。それに、父方の祖父母はともに85歳まで生きたし、母方の祖母は100歳目前で身罷った。長命の家系である。なのに、私がこの歳で?
とにかく、覚悟だけは固めておかねばなるまい。
いま私がいなくなって困ることはあるか?
子供はすべて結婚して独立した。憂いはない。
子供の子供たちは、この上なく可愛い。しかし、私が製造したものではない。彼らに対する責任は、製造した者どもにある。それが製造物責任のありかただ。
生命保険にも入っている。退職金、年金などを組み合わせれば、妻の暮らしもたつはずだ。
住宅ローンも、車のローンも来年前半には終わる。ん? 車は誰が使う? ま、それは残った連中が決めればいい。
それにしてもなあ、入院ということになったらどうしよう? 何もしないというのは苦痛だ。私は貧乏性だし、小人閑居して不善を為す、ともいうではないか。
まず読書をする。入院期間にもよるが、少なくとも100冊ぐらいは準備せねばなるまい。
音楽? iPodは音がいまいちだし、携帯のCDプレーヤーを買うか? しかし、右耳が難聴だから、イヤホンでは満足なステレオ効果が得られないなあ。これは我慢するしかないか。
そうそう、パソコンがいる。「らかす」は続けなければならないのだ。MacBookにしよう。画面が小さくて執筆作業はやりにくくなるが、まあ、欲張ってばかりはいられない。ん? でも、病院でネットに接続できるか? 事前に調べておかねば。
そうそう、映画の録画はどうする? 我が妻は究極の機械音痴だ。録画予約、DVDへのダビングなど、1年間つきっきりで教えても覚えそうにない。長男に頼むか? いや、あいつずぼらだからなぁ……。
タバコをくゆらせながら、思考はあちこちに飛んだ。悲壮感も焦りもない。まあ、まだ病が確定したわけではない。だから切実さに欠けるところがあるのかも知れない。
にしても、ちょっとしたことであれこれ悩むのが人間の常である。
ということは、私は大人物なのか?
大人物。心地よい響きを持つ言葉だ。よし、断言しよう。一番いやなものと対面して、私は確信を持った。
私は大人物である!
そういえば。
そんな最中、タバコをくゆらせながら、「らかす日誌 シリーズ夏」を4編書いた。映画を3本見た。録画用のS-VHSテープを買いに行った。ビッグコミック・スピリッツの最新号を買い求め、読んだ。友人と馬鹿話をしながら酒を飲んだ。もちろん、仕事もいつもと変わりなくこなした。いつものように、やることはあまりなかったが。
私は大人物である!
診療所の指示に従って、一昨日、内科医と面談した。部屋にはいると、目の前に私の胸部レントゲン写真があった。
「ここなんですよね」
医者がペンで指し示したのは、右胸の中央、やや下の部分だった。
「ここに丸い影があるでしょう。この、肋骨と重なっているところですが」
目をこらしてみる。いわれてみれば、なんだかぼんやりした円形のものが見えるような気もする。その程度だ。これって現像ムラじゃないか? いや、この際、無理にもそう思いたい。
「タバコはお吸いですか?」
来たぞ! 嫌な質問だ。不吉な予感がする。だが、ここは正直に答えるしかない。
「はあ」
「1日に何本ぐらいでしょう?」
「昔は1箱では足りませんでしたが、いまは12本から15本の間ですね」
「多い時は?」
「それでも20本はいかないですよ」
「何年ぐらい吸ってますか?」
「はあ、かれこれ30数年になりますか」
不吉な思いはますます膨れあがる。もう間違いない。この医者は肺ガンを疑っている。
私の知識では、米国では喫煙と肺ガンの間に明瞭な因果関係が見出されている。しかし日本では、それは証明した疫学調査は存在しない。食生活の違いが原因ではないかといわれる。
私の食生活は、完全に日本型である。肉よりも魚を好む。最近は意識的に野菜も口にする。喫煙は体内のビタミンCを破壊すると知って、サプリメントでビタミンCを補っている。すべて理にかなった食の取り方である。私はガンとは無縁である。と思ってきた。
なのに。知識とは、サプリメントとはそれほどあてにならない物なのか?
「この影ね。で、いったい何なのですか?」
聞きたくもあり、聞きたくもない。だが、疑いもなく最大の関心事である。
30代後半とおぼしき医者は、なかなか明瞭な答えを出さない。であれば、私から誘うほかない。
「なにか、この写真、ぼんやりしているように見えますねえ。うちの会社のレントゲン機器は老朽化していて明瞭な写真が撮れないとも聞きますが、もっと大きな病院でレントゲンを撮ってみましょうか? それもと CTスキャンの方がいいですか?」
こういう知識だけは、それなりに私にはある。いままな板に乗っているのは、鯉ならぬ私だ。鯉なら他人事だが、この際、持てる知識を総動員して戦うほかない。
「ああ、これだけ見えれば十分ですよ。そんな必要はないでしょう」
医者はにべもなくそういった。せっかく患者である私が申し出ているのに……。君には医者としての真面目さ、真実追究への真摯さが足りないのではないか? それとも、このぼんやりした写真からでもはっきり分かるほど、私の肺ガンは進行しているのか?
こうなれば、はっきり聞くしかない。
「あのー、最も嫌な仮説からいきますが、肺ガンですか?」
しばらく考えた医者はいった。
「おそらく、そうではないと思います。 肺ガンだと、もっとギザギザがある影になるんですよね、普通」
!!!
「では、何でしょう?」
「はあ、ご本人が知らないうちに炎症ができて治ったあととか、うーん、それとも、これ、乳首が映ってるのかなあ」
乳首? 膨らんでもいない私の胸にちんまりと鎮座する、私の乳首?
「いやあ、あるんですよね、時々」
いい話は疑え。これは人生の鉄則である。鉄則は守らないと、あとで痛い目に遭う。
「でも、それも可能性の1つで確定はできないわけでしょう。ガンの可能性だって100%消えたわけではない。どうしたらいいですか?」
再び医者は考え込んだ。
「こうしましょう。もう一度ここでレントゲンを撮ってください。撮る際に、貴方の右の乳首をマーキングしてもらいます。その上で、空気を胸一杯吸い込んだ時の写真と、全部吐き出した時の写真を撮ってもらいます。それを見ましょう」
こうして私は、右の乳首の周りに円形にした針金をテープで止め、胸部レントゲン写真を2毎撮った。
「大道さん!」
待合室で読書しながら待っていると、私を呼ぶ声がした。診察室に入る。同じ医者が、3枚のレントゲン写真を前にしていた。うち2枚には、右胸の中央下のあたりに、丸い線がある。これがマーキングである。私の右の乳首の位置を示す。
「で、どうですか」
咳き込むように聞いた。
「乳首はここですよねえ。ふむ、先の写真と比べてみると……。はあ、こりゃあ同じ場所と考えて間違いなさそうですねえ。とすると、最初の写真に写っていたのも、乳首と考えていいんじゃないでしょうか」
肩の力が抜けた。抜けたが、満足できなかった。この医者、100%は保証しない。医者とは断言を避ける職業らしい。
「いやー、こちらとしては100%の安心が欲しいんですよねえ。このまま放っておいて、秋の検診でまたレントゲンを撮るということでいいんでしょうかねえ?」
「たぶん、それでいいと思いますが」
しぶとい。また断言を避けた。後の医療過誤訴訟を避けようという魂胆か? どこまでも、最終的な責任は引き受けないのか?
「分かりました。じゃあ、秋は会社の検診を受けず、人間ドックに入りましょう。そちらの方が明瞭な写真が撮れるでしょうし」
「はあ、それで良ければそうしてください」
こうして私は診療所をあとにし、社屋外に出た。素敵な梅雨空だった。
我が社は全館禁煙である。私のような愛煙家のために、屋外に灰皿がある。我が愛煙仲間たちの憩いの場である。いつもの仲間が集っていた。
「てなことがあってさ。お互い、煙を吸い込んでるじゃない? とうとう来ちゃったか、って覚悟しかかったらさ、なんと、俺を心配させたのは俺の乳首なんだって」
「そんなことがあるんですか」
タバコをくゆらせながら、この間のいきさつ、医者の話を披露した。もう、笑い話だった。仲間と笑い転げた。タバコが美味かった。
夜、初めて妻に話した。
「はあ、ひょっとしたら俺の方がお前より先に逝くのかねえ、なんて思ったけどな」
できるだけ、衝撃の少ない話し方をしたはずだ。ところが、
「何言ってるの! 詳しく調べるのを秋まで待つことはないでしょう。明日でもいいから人間ドックに行きなさい! そうした方が気が晴れるでしょうが!」
怒られた。おまけに、
「この際、タバコやめたら?」
とまでいわれた。
「何いってんだ。お前からやめろよ!」
と口から出かかったが、グッとこらえた。今日は我慢せねばならない。
怒られながら焼酎を飲み、タバコを一服し、布団に横になった。
そうしよう。7月は少しバタバタしているから、8月になったら人間ドックに行こう。でも、今回は前立腺の検査はやめておこう(そのわけに関心をお持ちの方は、「事件らかす #6 人間ドック」をご参照ください)。
そんな考え事がいつしか溶けて流れ始め、私は夢の世界に滑り込んだ。数日ぶりの心地よい眠りだった。