10.27
2016年10月27日 増長
アスリートとは、それほど偉い人種なのか?
4年後の東京五輪の競技会場を巡る、自称アスリートの、競技会場変更に反対する発言を聞いていると、そんな思いに駆られる。
専ら問題になっているのはボート、カヌーである。それに加えて、バレー会場も仲間入りした。いまの計画のままでは金がかかりすぎる、というのが会場変更を検討する理由である。
それに対して、それぞれの競技団体や選手から、
「当初計画通り、東京でやってもらいたい」
と言う声が相次いでいるそうだ。まあ、これはNHKをはじめとしたテレビニュースで見ているだけだから、本当は一部の声なのかも知れぬ。ニュースを取材する記者というのは、どうしてもニュースになる発言を追いかける。
「会場変更? いいんじゃないですか。どこでやってもオリンピックなんだし」
という、いわば常識的な発言をされたのではニュースにならぬ。だから、どうしても
「会場変更? ふざけんじゃねーよ」
という、いまの大勢に逆らう発言をする連中にマイクを向ける。人気絶頂の小池都知事との対立の構造にすれば、視聴率が上がるんではないか?
ま、大勢に逆らうと入っても、それぞれの競技団体の中では、逆らう意見が大勢なのだろう。だから、彼らは決して、本質的な反逆者ではない。競技団体の中では、上層部の発言をあたかも自分の意見のように口にして阿諛追従するヒラメ属である。まあ、多くのサラリーマンと同じ思考回路で行動していることを忘れてはならない。
宮城県・長沼にするか、埼玉県・彩湖に移すかと話題になったボート会場について、日本ボート協会は見解を発表した。一言で言えば、東京で開け、というものだ。
私なんぞは、東北の震災からの復興をアピールするためにも宮城県での開催に大賛成なのだが、協会は大反対だ。
・長沼は遠い
・宿泊施設が足りない
・オリンピックが終われば誰も使わないので廃棄される
主な反対理由はこの3点である。甘えるなといいたい。
遠い? 外国の選手はもっと遠いところからやって来るではないか。宿泊施設は仮設住宅を転用するとの案が出ている。
オリンピックが終われば誰も使わない? それこそ、協会が使えば良かろう。協会主催の大会に使い、協会傘下の選手に使うよう訴える。あるいは命じる。
それでこと足りるのではないか?
日本カヌー連盟も変更に反対だ。まず、小池おばさんが長沼を視察した時に、
「カヌーのカの字も出なかった。大変失礼だ」
と反発した上で、風が強くて使い物にならないとまでおっしゃった。
まあ、失礼だ、はその通りとしても、使い物にならないというのはホントかね? カヌーって、もともと野外競技じゃないの? どこでやったって、風が強い日もあるわさ。
バレーボール会場を横浜アリーナにしようという案には、川淵三郎が噛みついた。ネットのニュースによると、
「五輪へ向け、世界に誇れるアリーナが、絶対に必要だと確信しています。レガシー(遺産)というのはお金の問題ではなく心の問題です。(横浜アリーナを改修して使用するという代替案については)昨年、スポーツで使われたのはたったの1日。317日は他の目的で使われている。東京五輪のレガシーとして使われる ことは絶対にあり得ない」
だと。
世界に誇れる? 何でそんなものを誇らなきゃならん。世界一のアリーナを持つことに、何の意味がある? 少なくとも、私はそんなもの、いらない。
いやはや、どいつもこいつもあきれかえって声も出ない。
いま、オリンピックの会場施設問題が浮上しているのは、当初計画に比べて膨らみすぎた開催費用を何とかするためではないか。当初は7000億円程度で何とかなるとはずだったのに、いまや3兆円を超すお金がかかるといわれている。当初計画がずさんだったか、誰かがポッポに多額の金を入れちゃったか。
冗談ではない。使われるのは税金なのだ。たかがオリンピックに3兆円もかけるのか? それを教育に、福祉に、研究開発に使えば、世の中はどれだけ良くなるか?
その費用削減策に真っ向反対を唱えるとは、いったい何様のつもりなのだ? あんたらのエゴも、開催費用高騰の一因ではないか?
君たち、たかがボート漕ぎであり、急流下りにうつつを抜かす暇人であり、 レシーブとトス、アタックに血道を上げる変わり者だと、自分たちをまっとうに世の中に位置づけたことはないのか? あなたたちが勝とうが負けようが、世の中はちっとも変わらないという事実に面と向かったことはあるのか?
人より、ほんの少しだけスポーツが上手にできるだけのことで思い上がりが過ぎるのではないか? あなたたちは、何故に
アスリート・ファースト
などと、ほかの連中はどうでもいいという主張を堂々とできるのか?
ま、それは交渉術なのかも知れない。だが、あなたが使う論理はどこにでも転用できるものだ。
受験生・ファースト
あのさあ、東京大学の入試を稚内でもやってくれない? 俺、稚内の高校生。
商店主・ファースト
市内の消費者は、市内の商店で買い物しろという条例を作ってくれ。売上げ不振でね。
経営者・ファースト
従業員の首を勝手に切れるようにしろ。
役人・ファースト
国民? 税金さえ納めていればいいんだ!
などなど、みんなが自分のエゴが最優先されなければならないと声高に言い始めたら、世の中のまとまりはつかなくなる。ま、上に例示した「ファースト」のいくつかは、現実になってはいるが。
要はバランスなのだ。
それでなくても、費用がかさむオリンピックには、多くの批判がある。それでもオリンピックを続けたいのであれば、アスリートは身勝手な主張は慎まねばならぬ。謹んで、
「開いてください。できることは何でもしますから」
と御願いするのが筋ではないか。
いまや、スポーツはプロ・アマ問わず、見せ物である。プロスポーツはもともと見せ物としてしか成立しない。だが、アマチュア精神を歌い上げたオリンピックも、多額の開催費用をかけ、テレビや企業から高額の放映権料、スポンサー料を取り立て、権限を握る幹部どもは高い年収を誇る。選手だって、多額の育成費を投じられる。いい成績を残せばテレビのコメンテイター、大学、実業団の指導者、競技団体の役員と引く手あまただ。いまやプロスポーツとどこが違うのか。
かつてローマ帝国が繁栄の極にあった時、市民は
「パンと見せ物を」
と騒いだ。オリンピックもいま、その「見せ物」である。
いや、アマチュアスポーツの純粋さを取り戻せ、などと無い物ねだりする気はない。だが、ものには限度がある。その範囲を逸脱する事がなければ、東京五輪に反対する私も、黙って見て見ぬふりをする。だが、最近のアマチュアスポーツ界の患部連中の発言は、些か常軌を逸している。
あ、別に小池都知事にエールを送る気はない。私好みのタイプではないし、何となく演技臭さが漂ってくるおばさんとしか思わない。あのポーズがいつまで持つのかな、馬脚はどのように現れるのだろう、と楽しみに待っている1人にすぎない。