08.07
#7 :ジャッカルの日 - 読んでから?(2004年10月15日)
見てから読むか、読んでから見るか。
最近は、そんなキャッチコピーをかぶせた本が結構ある。
見る、とは映画を見ることであり、
読む、とは本を読むことである。
映画と小説のタイアップである。あざとい。毎回毎回、両方に金を出していたのでは、金がいくらあっても足りないではないか。
と思うのだが、この手の企画があとを絶たないところをみると、両方に金を出す人が結構いるらしい。世の中は広い。
あなたは、見てから読むタイプだろうか?
それとも、読んでから見るタイプだろうか?
私は、読んでから見るタイプである。活字で陶酔した世界を、目で、映像でなぞりたくなる。
そして、見てがっかりするタイプでもある。
映画にすると、どうして原作に遠く及ばないものになってしまうのだろう?
(余談)
ということは、結局私も、両方に金を出しているのか……。
ということで、今回は「ジャッカルの日」である。ハードカバーで読み、文庫を買い、ペーパーバックにも手を出し、レンタルビデオで見て、とうとうDVDを買ってしまった作品だからである。
「ジャッカルの日」は、作家フレデリック・フォーサイスのデビュー作であり、最高傑作である。
「ジャッカル」と暗号名で呼ばれる超一流のプロの殺し屋がドゴール大統領の暗殺を依頼され、綿密な計画をたてて「仕事」を進める……。
「えーっ、だってドゴール大統領は、暗殺なんかされなかったぜ! 確か、病死のはずだったよなあ」
そうなのである。ドゴール大統領は1970年11月に亡くなった。死因は動脈瘤。79歳だった。これは歴史的事実である。
なのに、ドゴール大統領の暗殺がこの本のテーマだ。読者は全員、「ジャッカル」は暗殺に失敗することを、読む前から知っている。「ジャッカル」は暗殺に失敗し、恐らく殺されてしまうのだろう。どうせ失敗する暗殺の話が面白いか?
ところがフォーサイスは、歴史的事実と虚構を巧みに織りなし、みごとにこの常識を覆してみせた。本の後書きだと、こういう世界を「ドキュメンタリー・スリラー」と呼ぶらしい。フォーサイスが確立したものである。
じゃあ、フォーサイスはどんな手品を使ったのか?
2つあると思う。
1つは、当時の歴史と社会的背景を綿密に書き込むことである。読者に、当時のフランスの空気を肌で感じてもらわないことには、ジャッカルの動きは単なる絵空事で終わってしまう。
2つ目は、この歴史の中に投げ込む虚構に、事実以上のリアリティを与えることである。細部にこだわり、描写の隅々まで神経を行き渡らせることである。
原作は、当時のドゴール大統領を取り巻くフランスの政治、社会状況をみごとに切り取ってみせる。
当時フランスは、植民地の独立運動に直面していた。第2次世界大戦後に世界を覆った「民族自決」の流れがフランスの植民地にも押し寄せたのである。1954年、ディエン・ビエン・フーの戦いに敗れてベトナムを失う。アルジェリアの独立運動も激化する。フランスはやむなく、次々と植民地を手放していく。これが国内対立の導火線になった。
いつの時代にも既得権益が存在する。この時代、植民地は既得権益の固まりだった。植民地の解放は困惑、喪失感を生み、反感、怒りを燃え上がらせた。
だが、富と権力を手中にした連中は、反感、怒りを募らせようと、自らの手を汚すことはない。過激な行動に走るのは、特権階級の手駒にすぎなかった連中、テーブルから落ちたパンくずを拾っていた連中である。
連中は考えた。
我々は、ベトナムで、アルジェリアで、血みどろになって祖国フランスの栄光と利益を守り続けてきた。なのに、軍隊内部で偉くなるのは座学の経験しかない若造ばかりではないか。何故だ?
そればかりか、祖国の国民は前線の兵士など歯牙にもかけない。フランス国内の風潮は、些事をあげつらって軍部を非難する左翼文化人が席巻する。祖国は、腐り始めている。
第2次世界大戦の英雄、ドゴールが首相になったぞ! 「フランスのアルジェリア」っていってるぞ。これでいい。ベトナムを手放してしたのは指導層の判断の間違いだ。しかし、アルジェリアは違う。ドゴールはアルジェリアを手放すはずはない。ドゴールはフランスの栄光を守る。再び我々の時代がくる!
そう信じていた。なのに、大統領に就任したドゴールは何だ? 前言をひるがえして、アルジェリアの民族自決だって? 冗談じゃない! 歴史を正道に戻そうと我々の同士がアルジェリアで反乱を起こすと、なんとドゴールのヤツ、瞬く間に鎮圧しやがった!
ドゴールは裏切り者だ。裏切り者は殺せ!
植民地に深い利害を持っていた入植者、植民地への派遣軍、右翼は、ドゴールへの反発を強めた。祖国を、フランスを、悪しき独裁者から解放せよ!
こうして秘密軍事組織OASが組織された。彼らは旧体制の特権階級から資金を得て、前後6回にもわたってドゴール暗殺を企てた。
暗殺の成功率を高めるには、情報が必要だ。OASは政府部内にスパイを持っていた。しかし、情報戦は政府側も展開していた。政府側もOAS内部にスパイを放って内部情報を集めていたのである。
これが、フォーサイスの描くジャッカルの時代だ。その時代の中に、フォーサイスは「ジャッカル」という暗号名を持つ殺し屋を放つ。政府側への情報遺漏を防ぎ得なかったOASが自力でのドゴール暗殺をあきらめ、凄腕のプロに暗殺を依頼するのである。料金は50万ドル。
事実と虚構が、みごとに結びあわされた。
こうして歴史的事実の中を泳ぎ始めたジャッカルは、綿密な暗殺計画をたてる。例えば、狙撃に使うライフル。
・尾筒と銃尾は直径2インチ半以下
・大きさの制約から単発式にする
・遊底のつまみはなし
・引き金の用心金は無用
・引き金は取り外し式
・射程距離は130m
・サイレンサーを使用
・炸薬弾、それもグリセリンではなく水銀を使った炸薬弾を使う
・銃身の下にある木の部分はいらない
・銃床は金属製の棒を組み合わせたものにする。この部分は分解可能に
・照星は不要。着脱可能な望遠照準器を使う
・アルミニウムの円筒にすべてを納められるように
ジャッカルと銃密造業者間で合意した狙撃用の銃のスペックである。これが、難しい状況の中で、ドゴール大統領を確実に射殺するために考え抜かれた銃なのである。
本の出版から2年。映画「ジャッカルの日」は1973年に公開された。
そして、観るたびに思う。
「この物足りなさは何だろう?」
この「物足りなさ」の解明が、今回の目的である。そして、こんな仮説を得た。
映画は、時間との戦いに敗れたのではないか?
「ジャッカルの日」は、角川文庫版で正味535ページある。我が家にあるペーパーバックだと実質372ページ。文庫本を1時間100ページのペースで速読しても、読み終えるまでには5時間以上かかる。英語のペーパーバックの方は、1ヶ月かかっても読了できるかどうか、自信がない。
映画は2時間17分しかない。部分的にカットしたためである。カットしてつじつまが合わなくなった部分は、新たに筋道をつけてある。
映画は原作の何を捨てたのか?
まず、当時の政治、社会状況を捨てた。アルジェリアの独立を認めたドゴール大統領が軍部など右翼過激派の怒りをかった、と冒頭でナレーションが入るだけである。政府とOASがお互いにスパイを送り込んでいた事実も触れられない。
なぜジャッカルが登場するのか。映画だけ見ていてはよく分からないのだ。
細部のショートカットは、原作の味を殺してしまった。
狙撃用の特製の銃を入手したジャッカルは、当然のことながら試射をする。原作では、歩測で130m離れた木にぶら下げたメロンをドゴールの頭部に見立て、慎重に額の真ん中を狙う。が、1発目は右上にはずれた。
ジャッカルは、すぐに望遠照準器を調節したりはしない。狂ったのは手元か、それと照準器かを確認するため、同じ状態でさらに4発撃つ。それからやっと照準器を調整するのである。
そして6発目。今度左下にはずれた。さらに2発撃って、もう一度照準器を調整する。
9発目。狙い通り的を射抜く。
満足したジャッカルは、目、鼻、唇、顎、額、耳、首、頬、顎、そして頭に1発ずつ撃ち込み、狙いがずれないことを確認する。そして、ここからが肝心なのだが、19発の試射で望遠照準器を完璧に調整できたことを確認したジャッカルは接着剤を取り出し、望遠照準器の調整ねじを固定してしまうのだ。
20発目。ジャッカルは炸裂弾を装填し、メロンを吹っ飛ばしてしまう。
念には念を入れる。プロならではの周到な準備である。
こうした周到な準備が、殺し屋ジャッカルの評価を支えているのである。これほどの殺し屋でないと、リアリティを身につけることはできないのである。
ところが映画でのジャッカルは、額の真ん中を狙った1発目が左下にはずれると直ちに照準器を調節し、2発目が左上にはずれる。さらに調節した3発目はわずかに左下にはずれるが、彼はこれで満足してしまう。そして4発目で炸裂弾を使い、本と違ってスイカを吹っ飛ばすのだ。
おいおい、大丈夫かい? 厳しい警戒の中でドゴール大統領を一発必中で殺すにしては、ちょっと慎重さが足りないんじゃないの?
さらに。
映画には、官僚主義が出てこない。大統領暗殺阻止より自分の保身を優先させる官僚群は、捜査の全権を委ねられたハベル警視の苦労を浮かび上がらせ、暗殺を本当に阻止できるのかという緊迫感を高めるのに。
ドゴール大統領の個性も無視されてしまう。元軍人で名誉を重んじるドゴール大統領は、公然たる行動を控えてほしい、公式日程も変更したいという官僚たちの具申を一蹴する。暗殺者を恐れる大統領というイメージは、誇り高きドゴール大統領には許せないのである。
それどころか、大統領は公開捜査をも禁じる。偉大な祖国フランスを束ねる男は、暗殺を怖がる男というイメージを持たれるのをとことん嫌うのだ。だから、ジャッカルが公開捜査されるのは、男爵夫人を殺してからである。大統領をつけねらう暗殺者としてではなく、殺人の被疑者としての公開捜査ならよろしい、という大統領許可が出たのである。
なのに映画は、公開捜査に踏み切る権限をハベル警視に与えてしまうのだ。ハベル警視にそんな権限が与えられていればもっと早くジャッカルを割り出し、狙撃現場の遙か手前で逮捕できていたはずである。
ラスト近く、ジャッカルは退役軍人になりすまして警戒網を突破し、狙撃ポイントに行き着く。警戒ラインを通してしまったのは田舎からかり出された警官だが、ジャッカルが通りすぎた後、その警官にハベル警視が、
「誰か通したか?」
と聞く。本では、間抜けな警官を問いつめる中で、ハベル警視はジャッカルが警戒網を突破したと確信するのだが、映画では台詞がない。台詞がないと、ハベル警視のスパコンなみの頭の回転が分からない。つや消しなのだ。
そして、クライマックスの狙撃の場面。
大統領が予期せぬ動きをしたためにジャッカルの放った弾丸がそれてしまうのだが、映画ではそれだけのことである。アレッ? で終わってしまう。
ところが、原作にはあるのだ、解説が。その瞬間、何故大統領は動き、ジャッカルは狙いをはずしたのか。
「この接吻は、フランスその他のラテン系民族の習慣なのだが、アングロ・サクソンであるジャッカルは不覚にもそれに気づかなかったのである」
と。
この短い文章があって初めて、ジャッカルという精巧なコンピュータも、ミスを犯すことがあると納得できるのである。
キャラクターの造形もマイナスになった。最大の例が、OAS幹部の用心棒であるコワルスキーである。
ポーランド出身、外人部隊経験のあるこの男は、戦闘マシーンとしてはゴリラ並の力を持つ。そんな彼には、マルセイユで性悪女と過ごした過去があった。子供ができたのに
「生むつもりはない」
という女を、彼は殴りつけて産ませ、子供のいない知り合いに頼み込んで生まれた女の子の面倒を見てもらっている。会うことは少なく、会っても親と名乗ることはないのだが、その子のことを考えると、自分でも説明のできない暖かな気持ちに包まれるのである。
体どころか、脳味噌まで筋肉でできているようなゴリラ男に、人並み優れた人間味がある。この小説に奥行きを与えているエピソードである。それだけでなく、この女の子への愛情が、実は彼の身の破滅につながって、明かしてはいけなかったジャッカルの存在を政府側に教えることになるのである。
映画でウォレンスキーと呼ばれるこの男に、こうした背景はない。単なる人間の形をしたゴリラである。街で襲われ、拷問でジャッカルの存在を口走るだけの男である。話のつじつまを合わせるだけの、面白くもおかしくもない存在にすぎないのである。
というぐらい、原作と映画の間には開きがある。まるで、まず本を読んでくれ、映画で足りないところは本で読んだことで補ってくれ、といわんばかりである。
それに。
キャスティング、もう少し何とかならなかったでしょうか?
まず、ジャッカルさんに、凄みがないのであります。殺しのプロ、超一流のスナイパーである以上は、ゴルゴ13とは言わないまでも、非情さであるとか、怜悧な頭脳であるとか、なにか常人と違ったものがあるはずなのだ。でも、このエドワード・フォックスさん、どうもビジネスマンにしか見えないのである。
じゃあ、誰だったら、となるが、こいつが難しい。昔、高倉健さんがゴルゴ13をやっていたが、あれもミスマッチ。ジャッカルねえ……。
それに、ハベル警視を演じたミシェル・ロンダールさんも、ちょとキャラが違う。恰幅がよく、鼻ひげまで蓄えられては、自分の出世には無関心、一見田舎者に見えるが、実はかみそりのような頭脳を持ち、蛇のように執念深いお巡りさんには、どうしても見えないのである。
ピーター・フォーク? 違うなあ。昔、テレビでやっていたアメリカ版逃亡者のジェラード刑事。俳優さんの名前は知らないが、あの人なんかピッタリではないかという気がするが。
どっかに、原作を越えた映画はないものか!
などと文句をたれながら、でもレンタルビデオを何度も借り出し、大枚2500円も払ってDVDまで買ってしまう私って……。
ふむ、人間とは不可思議な存在である。
【メモ】
ジャッカルの日(THE DAY OF THE JACKAL)
1973年公開、上映時間142分。
監督:フレッド・ジンネマン Fred Zinnemann
出演:エドワード・フォックス Edward Fox = ジャッカル
ミシェル・ロンダール Michel Lonsdale = ハベル警視
アイキャッチ画像は芸術大全サイトからお借りしました。