2017
08.12

#27 : ライフ・イズ・ビューティフル - 軽薄の勧め(2005年3月25日)

シネマらかす

「あなた、嘘ついてたのね。奥さんも子供もいるんじゃない!」

などという心臓に悪い一言を言われたことがおありだろうか? ことがことだけに、家族に知られるだけでなく、裁判なんてことになるかも知れない。慰謝料? 示談金? 銀行にいくら金があったっけ……?
などという体験は、幸いながら私にはない。経験された方には、心からの同情を申し上げる。

ことほどさように、は嫌われる。自分でも時々嘘を言うくせに、誰かにだまされたと知った瞬間、何ともいえない嫌な気分になって、時には怒り心頭に発する。

だが、なのである、お立ち会い。嘘は人生の香辛料なのであります。嘘のない人生なんて、わさびのない刺身なのであります。

程度に考えていた。しかし、「ライフ・イズ・ビューティフル」を見て、考えが変わった。
時と場合によっては、「」は、限りなく美しい。限りなく気高い。私も、こんな嘘がつける人間になりたい。

主人公グイドは、ユダヤ系イタリア人だ。田舎町で育った彼は友人と2人で町に出る。町で書店を開くのが夢なのだ。1939年、ファシスト党が政権を持ち、戦時色が強まっていた時代である。
町に着くやいなや、偶然出会った小学校の教師ドーラにたちまち恋をする。既に婚約者がいるドーラだったが、グイドは気にしない。押しの一手でドーラの心を手に入れた。そのあたりの手練手管は、さすがイタリア男! の一言だ。

やがて一粒種、ジョズエが生まれた。目が大きく、戦車のおもちゃが好きな可愛らしい男の子だ。グイドは書店を開き、ドーラは教師を続け、豊かではないが幸せに包まれた日々だった。だが、ドイツ軍のポーランド侵攻で幕を落とした第2次世界大戦はこの町にも暗雲を広げ、ユダヤ系住民への嫌がらせが強まる。そしてとうとう、グイドとジョズエは強制収容所に送られた。イタリア人のドーラも、連行されるグイドとジョズエを追いかけ、収容所行きの汽車に無理矢理乗り込む。収容所に入る夫と子供と別れて暮らすなど、彼女には考えられなかった。

ドイツ兵に銃で小突き回される収容所。健康な成年は重労働を課せられる。働けない子供と老人にはガス室が待つ。この世の地獄である。この地獄で、グイドは、なんとしてでもジョズエを守ると決心した。
ジョズエの身の安全は、もちろん守らなければならない。加えて、汚れを知らない心も守り通さねばならない。恐怖を感じさせてはならない。恐怖を味わった心は小さく萎縮してしまう。
だが、収容所で、どうしたら……?
とっさに思いついた。「嘘」である。グイドの、命をかけた嘘が始まった……。

(余談)
本論に入る前にひと休みを。
もうずっと昔のことだ。何という本で読んだのかは記憶にない。具体的な文章など忘れ去っている。でも、趣旨だけはくっきりと記憶にある。
イタリア男は、女と見れば誰彼かまわず口説く。イタリア男にとって、女に言い寄るのは礼儀である。
女には近寄る。褒める。褒めるのがいかに難しい相手であれ、とにかく褒める。褒めてもいいポイントを発見するのは、イタリア男の能力を測るバロメーターである。
で? いいのだ、結果なんか。話がうまく運べば世の中がバラ色になる至福の時が始まる。うまく運ばなくても気にすることはない。次の女を褒めればいい。
女は見られて美しくなる。褒められて輝きを増す。女を美しく、輝く存在にするのは、男のまなざしと言葉と行動である。
教えられた。共感した。なるほど、比べてみれば日本の男どもは努力が足りない。であれば、私が改革の旗手になる!
実行に移した。いや、移そうとした。とてつもなく大きな壁にぶつかった。どう考えても、どう知恵を絞っても、褒めるポイントが見いだせない大群に私が囲まれていることを知ったのである。
つくづく思う。
私はたいした人間ではない。
イタリア男は限りなく偉い!

 グイドとジョズエは、自宅からトラックの荷台に載せられ、強制収容所行きの汽車が待つ駅に向かう。世の流れを知るはずもないジョズエに恐怖はない。

「どこへ行くのか教えて」

グイドの心は、これからの行く末にあれこれ想像を巡らし、恐怖の嵐が吹き荒れている。

「どこへ行くかって……、あそこだよ。今日は何の日だ? お前の誕生日だろ? 旅行がしたいといっていたからずいぶん前から準備したんだ。行く先はね、いわないとママに約束したから……」

旅行。ジョズエを片腕で抱きながらとっさに出た嘘である。内心の動揺を押し隠してついたである。笑顔でジョズエに語ったである。
並みの人間なら、いや、ほとんどの人間は、荒れ狂う内心の不安で、しつこく問いただす息子を叱りとばす。叱りとばすことで、自分の内心に巣くう不安を紛らわせようとする。
自らの恐れを押し殺して嘘をつくグイドは強い。限りなく強い。限りなく強いから息子を心から愛せるのか。心から息子を愛するから限りなく強くなれたのか。

「ここでゲームをするの?」

収容所に着くと、ジョズエがいった。「嘘」の方向が決まった。そうだよ、これは大がかりなゲームだ。ここにいるみんなが参加する。みんなで競争する。エラーをすると家に帰されるよ。1等賞の賞品は戦車だ。ピッカピカの新品の、本物の戦車だ。得点が1000点たまったら本物の戦車がもらえる。

営舎にドイツ軍の伍長が入ってきた。ドイツ語を通訳できる人間を求めた。いかん、正確に翻訳されては、ジョズエが本当のことを知ってしまう。グイドは通訳を買って出た。ドイツ語? そんなもの、分かるはずがない。

伍長 : 全員よく聞け。一度しか話さんから。
グイド :ゲームを始める。全員が参加者だ。
伍長 : 諸君がここへ連れてこられたのは、ただ1つの目的のためだ。
グイド :1000点が1等賞で、賞品は本物の戦車だ。
伍長 : 労働せよ。
グイド :素敵だ。
伍長 : 労働妨害は死刑だ。前の中庭で銃殺される。
グイド :得点はあそこの拡声器で知らせる。最低得点のものは背中に「バカ」と貼る。
伍長 : 諸君は、偉大なるドイツ帝国建設のために働くという特権を持っているのだ。
グイド :我々は悪人の役だから怒鳴る。怖がると減点!
伍長 : 大事な規則は3つだ。1つ、収容所から逃げようとするな。2つ、すべての命令に文句を言わずに従え。3つ、反乱を計画するものは死刑である。分かったか?
グイド :減点になるのは、まず泣き出す者、ママに会いたがる者、おやつをほしがる者、分かったか!
伍長 : ここで働くことを幸せと思わねばならない。規則に従っていれば悪いことは何も起きない。
グイド :腹ぺこは減点されやすい。私も40点減点された。ジャム付きパンがほしかった。
伍長 : 服従せよ!
グイド :杏ジャムだ。
伍長 : もう一ついっておく。
グイド :彼はイチゴ。
伍長 :  警笛を聞いたときは、全員直ちに営舎から出よ。
グイド :飴は、全部我々が食べる。
 伍長 :  全員2列に並ぶ。
グイド :昨日は20個食べた。
 伍長 :  しゃべってはいけない!
グイド :腹をこわした。
 伍長 :  毎朝……。
グイド :うまかった。
 伍長 :  点呼がある。
グイド :本当だ。
 伍長 :  労働地区はあそこだ。いずれにせよ、収容所の中がどうなっているかはすぐに覚えられるだろう。
グイド :今日はかくれんぼをするのでこれで終わる。

見事な翻訳、いや誤訳である。
一度つき始めた嘘は、どこまでもつき通さねばならない。嘘に気づいたら、ジョズエは絶望するだろう。グイドを信じなくなるだろう。誰も信じられなくなった幼子がどうなるか。それだけは、死んでも許してはいけない。

ある日グイドは、番号が刻印された囚人服を着て、フラフラになりながら労働から戻ってくる。腕には、同じ番号の入れ墨がある。

「ごらんよ、いい服だろう? ゲーム登録したよ。登録しに行ったら審判員がいて『あなたと息子さんは名簿に載っていない』というんだ。驚いたよ。『家に帰れ』というから、『名簿にあるはずだ』とやっとこの番号をもらったんだ。念のために腕にも番号を」

グイドの体は、いまにも倒れそうに疲れ切っている。だが、頭はジョズエでいっぱいだ。心配させてはならない。自分たちが囚人であると知られてはならない。
必死に紡ぎ出す嘘である。

(余談)
普通はこのあたりで涙腺がゆるみ始めます。

 どれほど隠しても、事実はやがて伝わる。

「僕たちはボタンや石けんにされる。竈で焼かれる。男の人が泣きながらいってたよ」

ある日ジョズエが話しかけた。余分なことをジョズエに教えたヤツがいる。つき通してきた嘘がばれる!

『ジョズエ、だまされたな! お前は利口な子だろ? 石けんにされるって? 冗談じゃない! 信じたのか? 明日の朝はバルトロメオ(同室の囚人)で顔を洗おうって? ボタンのフランチェスコ(同)がちぎれて落ちたっていうのか? 人間がボタンに? お前はだまされたんだよ。竈で焼くのは薪だ。人間じゃない。薪がないからこの弁護士を焼こう。乾いてないから煙がひどい。バカな話を信じるなよ』

体力を使い果たして働けなくなれば、グイドはガス室に送られる。労働力たり得ないジョズエは、見つかればガス室に送られる。希望など持てない絶体絶命の状況にいながら、必死に考えるである。

そして、最後の夜が来た。営舎の外が騒がしい。ドイツ兵が引き上げる。戦争は終わったらしい。助かったのか?
そうではなかった。強制収容所の証拠を隠滅するため、ドイツ兵は囚人たちをトラックで運び出し、どこかで殺戮 (さつりく) しているらしい。
ドーラが危ない。グイドはジョズエをつれて営舎を出る。収容所の片隅にあったボックスにジョズエを入れると、

「ゲームは明日の朝終わる。今夜見つからなければ60点だ。いま940点だから見つからなければ1000点だ。エラーをするなよ。外に出ていいのは、すごく静かになって、誰もいなくなってからだ」

と言い残し、ドーラを探して収容所の中を駆け回る。トラックに乗ってはいけないとドーラに伝えたいのだ。が、ドーラを見つける前にドイツ兵に発見された。銃を突きつけられてジョズエの隠れるボックスの前を通り過ぎた。ジョズエと目があった。

グイドは、手を大きく振り足を高く上げるアヒル歩きを始めた。収容所に入る前、ユダヤ系のグイドは何度も役人に呼び出された。不安そうに見送るジョズエは、アヒル歩きをしてみせると、いつも安心したかのように笑顔を返した。
グイドと兵隊が角を曲がった。すぐに数発の銃声が聞こえた。だが、父のアヒル歩きを見たジョズエは不安を感じない。アヒル歩きをした父は、いつも帰ってきたではないか。
アヒル歩きは、グイドがつくことができた最後の嘘となった。

翌朝。収容所は森閑とした。ジョズエはそっとボックスから出る。まもなく、地響きがし始めた。何だろう? じっとそっちの方を見る。すると……。
角を曲がって戦車が来た。米軍の戦車だ。ジョズエは目を大きく見開いた。笑みがこぼれた。
本当だったんだ。僕たち、1等賞だ。賞品の、僕の戦車だ!

“Hi, boy! You are alone? What’s your name? You don’t understand what I’m saying, do you? I’ll give you a lift. Come on! Come on, get up here.”

初めて聞く米国兵の声だった。初めて聞く英語だった。自由の声だった。だが、ジョズエには、賞品の戦車を運んできた係員の声に聞こえたのに違いない。

戦車で収容所を出た。道路脇を、収容所を出た囚人たちが歩いている。

「ママ!」

ドーラがいた。

「ママ! ママ!」

戦車を降りたジョズエはドーラのもとに駆け寄った。

「勝ったよ! 1000点取ったんだ、すごいよ。1等賞の人は戦車でうちに帰るんだ。勝ったよ!」

ドーラに抱き寄せられたジョズエは両手を高く空に突き上げた。ジョズエは自由になった。いや、ジョズエは父の嘘に守られてずっと自由であり続けたのである。

(余談)
ここまで来ると、もうあきまへん。映画館であればポケットのハンカチを、自宅であればテーブルにのっているティッシュペーパーを、手探りしなければなりません。

 にしても、と涙をぬぐいながら考える。
どうしてグイドは、あれほど淀みなく嘘をつき通すことができたのか?
しばらく考えて、ハタと思い当たった。
軽さである。軽薄さである。軽くて軽薄な、典型的なイタリア男だからこそ、嘘をつき通せたのだ。

(謝罪)
イタリアの男性方、ひょっとして気を悪くされました? 筆者としては、ここは褒めているつもりで、何故軽薄さを褒めるのかをこれから書くつもりなので、もうしばらく読み続けられんことをお願い申し上げます。

 重厚さを尊ぶ我が社会では、軽薄な男は軽くあしらわれる運命をたどる。

「ああ、あいつはいいヤツだけど、軽薄だからね。人間が軽いんだよ」

かくして、イタリア男に学ぼうという我が人格は否定され、様々な不利益が降りかかる。仕方なく、見かけだけは重厚な、話す中身がないから、何を話していいのか閃かないから口を開かない、日本男児に戻る。

だが、軽薄さとはそれほど唾棄すべき人間のあり方であるのか?
軽薄な人間はよくしゃべる。よくもまあ、あれほど口が動くものだ、話題を思いつくものだ、と感心するほどしゃべる。おいおい、もう少し落ち着いたらどうかね。そんなにしゃべり通しでは喉も渇くだろう、といいたなるほどしゃべる。結果、どうにも落ち着きのないヤツだとのレッテルをいただく。それでおしまいだ。
映画でもドラマでも、軽薄男は主役の引き立て役。美女に思いを寄せながら、主役と美女をくっつけるキューピッド役をおおせつかる。2人が仲良くなったのを見て、顔で笑って心でなく。損な役回りだ。

しかし、なのである。
絶え間なくしゃべるには、それなりのデータの蓄積と、頭脳の回転と、相手の気分を見抜く観察眼と、相手をさらさぬ話術と、自分が楽しむより先に相手を楽しませるというサービス精神が必要なのである。どれ1つとっても、おいそれと身に付くものではない。生得の頭脳の優秀さに加えて、不断の努力がなければ、軽薄男にはなれない。

グイドは、絵に描いたようなイタリア男である。軽薄男である。だからこそ、危機に身を置いても、当意即妙の嘘がつけた。嘘をつき続けることでジョズエを守ることができた。
どんな状況に置かれても限りなく軽薄であり続ける勇気があれば、世界の誰よりも気高い人間になれるのである。

だが、日本の社会は軽薄男を見下す。つくづく思う。
私はたいした人間ではない。
イタリア男は限りなく偉い!
そして、日本の社会は息苦しい!

ロベルト・ベニーニ監督は、自ら脚本を書き、主役のグイドを演じて、素敵なファンタジーとしてイタリア男の心の強さを見せてくれた。細部まで念入りに練り上げられた脚本は、悪く言えばご都合主義の固まりだが、完璧な作り話が、写実的な作品と同等に、いや同等以上に感動をもたらすことを教えてくれた。真の暴力を描き、告発するのに、暴力シーンは1つもいらないことを証明したのも印象深い。
ありがとさん、ベニーニ監督!

と、ここで筆を置いてもいいのだが、ちょいとサービス精神を発揮する。書き留めておきたい、読んで頂きたい素晴らしい台詞が、この映画にはたくさんあるのだ。

民族問題について。
グイドが文部省の監察官 に化けて小学校にやってくると、校長がイタリア民族の優秀性を生徒に教えてくれという。

校長 : 私たちがいかに優秀な民族であるか教えてくださるのです。
グイド :  私より美男がいるか? 私より美男がいるかね? 私こそ純血アーリア系優秀民族そのものだ。子供らよ、もっとも当たり前のことから話そう。まず耳だ。この完璧な耳をご覧。この耳介には小さな鈴がついている。ご覧、折りたたみ式の軟骨だよ。これ以上美しい耳があるかね? フランスでは憧れの的だ。民族とはこういうものだ。(下着だけになってヘソを見せながら)おへそだよ。なんと美しいおへそ! 見事な結び目! 民族主義の科学者でもほどけなかった、まさにイタリア民族のおへそだ。見てごらん、この筋肉。一頭筋、二頭筋、三頭筋、美しいだろ?

「ユダヤ人と犬はお断り」と書いて店頭に張り出された紙を見たジョズエに、

「何故?」

と聞かれて。

グイド : あの店はユダヤ人と犬が嫌いなんだ。あっちの金物屋はスペイン人と馬が入れない。向こうの薬局は中国人の友達と行ったら、中国人とカンガルーはお断りだと。お前が嫌いなものは? 蜘蛛か。パパは西ゴート族が嫌いだ。うちの店は蜘蛛と西ゴート族はお断りだ。

愛の言葉。
婚約者の車に乗るつもりのドーラが、乗ってしばらくしてグイドの車であることに気がつく。

「嘘でしょ、説明して」

というドーラに。

グイド : 君こそ説明してくれよ。空から降ってきたり、僕の自転車とぶつかったり、学校視察に行っても会う。夢にも出てくる。いい加減にしてくれよ。すっかり私に惚れたね。仕方ない、降参だ。君の勝ちだよ。

デートして別れ際に。

グイド : 言い忘れた。あなたを抱きたいが、そんなことは誰にも言えない。言いづらいことだが、あなたを何度も抱きたい。でも、絶対に言わない。あなたには言えないが、いまここでずっと抱きたい。

いかがです?
是非見て頂きたい1本です。

【メモ】
ライフ・イズ・ビューティフル (LA VITA E BELLA)
1999年4月公開、上映時間117分
監督:ビリー・ワイルダー Billy Wilder
出演:ロベルト・ベニーニ Roberto Benigni = グイド
ニコレッタ・ブラスキ Nicoletta Braschi = ドーラ
ジョルジオ・カンタリーニ Giorgio Cantarini = ジョズエ
ジュスティーノ・デュラーノ Gustano Durano = ジオ叔父さん
セルジオ・ブストリック Sergio Bustric = フェルッチョ
アイキャッチ画像の版権は松竹富士=アスミック・エースにあります。お借りしました。