08.23
#47 : フィラデルフィア - 友愛(2005年9月2日)
フィラデルフィアとは、古代小アジアにあった都市の名前だそうだ。「The City of Brotherly Love(友愛の都市)」を意味するという。
その美しい名を受け継いだ米国ペンシルバニア州フィラデルフィアは、米国独立宣言起草の地として名高い。人口約150万人、商業や海運がこの都市の主な産業である。
映画「フィラデルフィア」は、この都市に住む人々の表情で始まる。街を行き交う人々、縄跳びに興じる女の子たち、遊び戯れる子供、車で移動するカメラに向かって手を振る児童の群れ、前庭で落ち葉をかき集める男たち、消防署員……。人種も年代も職業も様々な人々が、レンズの前を通り過ぎる。どこにでもある町の表情だ。
だが、見続けているうちに、なんだか心が温かくなる。ほのぼのとした気分に包まれる。みんな明るい。レンズに向けて吸い込まれそうな笑顔を見せる。生きることを疑う必要なんてない。ただ毎日の暮らしを楽しむだけさ。フィラデルフィアは人々にそんな暮らしを用意し、人々はそんな幸せを当たり前のこととして受け取っている。
いい町だ。
そのフィラデルフィアで、能力を高く評価されていた若手弁護士、アンディが、法律事務所を突然解雇された。仕事の遂行能力に疑問がある、との理由だ。
そんな! 実績は着々と積んできた。とびきり優秀な弁護士という評価も受けてきた。解雇の理由は別にある、とアンディは直感する。彼はホモセクシュアルであり、エイズ患者だった。解雇の本当の理由は、ホモとエイズに違いない。
アンディは、法律事務所を不当解雇で訴えることを決意する。訴えるには弁護士がいる。ところが、訪ねていった弁護士たちは、誰も引き受けてくれない。10人目、最後に訪ねたのが、小さな事件で敵味方に分かれたことがある弁護士、ジョーだった。ジョーは、テレビでコマーシャルを流す、何でも屋の俗物弁護士なのだ。まともに考えれば、依頼したくなる相手ではない。
しかしジョーも腰を引いた。アンディがホモであり、エイズであると聞いて弁護を断ったのである。彼にまで断られては、もう弁護を頼める弁護士はいない。
仕方がない。こうなれば自分でやるしかない。アンディは単身、訴訟の準備を始めた。かつてその一員であった、フィラデルフィア最大の法律事務所が相手……。
これは、ホモとエイズで差別された白人弁護士と、ホモとエイズを毛嫌いする黒人弁護士が、手を組んで差別に挑む姿を描いた社会派ドラマである。
(余談)
ま、私もホモセクシュアルを苦手としている人間であることは、「シネマらかす20 : 男の体は美しい - ホワイトナイツ/白夜」などですでにご存じのこととは思いますが。
いえ、だからどうだという話ではございません。
ホモセクシュアルに対する差別は許されるか?
エイズ患者に対する差別は許されるか?
ほとんどの人は、差別を許してはいけないと思っているはずである。
だが、あなたの隣にホモセクシュアルの人がいたら? エイズ患者がいたら? その時、あなたの真実が顔を出す。あなたは、立て前と本音の間で揺れ動くことはないだろうか?
「フィラデルフィア」は、空疎な正義の鉄拳をいたずらに振り回したりしない。ホモセクシュアル、エイズへの差別と偏見は、我々の世界に幅広く、しっかりと根付いている。私も差別する側にいる。その差別の被害者が目の前に現れたとき、私はどうすべきなのか?
エイズを発症し、日々衰えていく肉体と戦いながら裁判に臨むアンディと、ホモセクシュアルを嫌い、エイズを恐れながらもアンディの弁護に力を尽くすジョーの姿は、すべての面で一枚岩ではなくなった現代社会における共生の可能性を探る試みともいえる。
事件が起きる10日ほど前のことだ。アンドリュー・ベケット(アンディ)は1つの訴訟を任される。著作権を巡って大手企業に立ち向かうハイライン社の訴訟代理人になるのである。請求額は3億5000万ドル。超大型の裁判だ。アンディの力を高く評価しての抜擢だったことは疑いない。
張り切ったアンディは、夜を日に継いで訴状を書き上げた。提出期限の前日、ほとんど徹夜で仕上げたアンディは、プリントアウトした訴状をデスクの上に置いて帰宅する。だが、訴状の提出日、プリントアウトした訴状が消え失せた。それだけでなく、パソコンに残しておいたはずの訴状のファイルもない。そして彼は、事務所長のチャールズからクビを言い渡される。
Charles : | Let me put it this way, Andy. Your place in the future of this firm is no longer secure. We feel it isn’t fair to keep you here when your prospect is limited. (こういうことだ、アンディ。この事務所における君の将来はもはや確固たるものではない。君の昇進の可能性が限られたものである以上、君をこの事務所に縛り付けておくのは道義に反すると我々は考えたわけだ) |
(余談)
リストラ、が日常語として定着してしまった悲しい日本でお暮らしになる皆さん。もしあなたが、クビを言い渡さねばならない立場になったら、これ、使えるかも知れません。
驚天動地の出来事だった。そういえば、ハイライン社の訴訟の担当を言い渡された日、事務所のウォルターが、アンディの額にできた発疹に気がついたようだった。ウォルターのいたワシントンの事務所には、輸血でエイズに感染した女性がいた。ということは……。
アンディは、真実を見抜いたと思った。そして、戦いに立ち上がる。
ジョーは、ホモが嫌いである。アンディが事務所を訪れた日、自宅に戻ったジョーは、妻のミラーに自分の偏見を冗談交じりで話す。ナニをするとき混乱しないのか? それ、あなたの? 私の? って。
それに、
“I don’t wanna be in bed with anybody who’s stronger than me.”
(俺、俺より強い奴とベッドに入るなんて思っただけでゾッとするぜ)
ジョーは、ごく普通の、ヘテロセクシュアルの感覚を持ち、社会に蔓延する差別感を共有する男なのである。
だが、法を守る弁護士としての良心はあった。アンディが事務所を去ったあと、すぐに診療所に予約を取り、医者からエイズについての正しい知識を仕入れた。それまでのアンディは、エイズは服の上からでも感染すると思いこんでいる男だった。事務所でアンディがエイズであると告白したとき、思わず腰が引けてしまったのはそのためだ。
そうか。エイズは服の上からは感染しないのか。握手をしても大丈夫なのか。その程度感染力しかないのか。だったら、アンディと握手はしたが、このまま家に帰って子供を抱ける。
そこまでは理解した。だが、アンディの弁護を引き受ける気はない。ヤツはホモなのだ。一緒にいたい類の人間ではない。
その偶然がなければ、ジョーとアンディが手を組むことなんかなかったに違いない。
その日、ジョーは図書館で調べものをしていた。そこに白人の男が通りかかった。たまたま目が合った。男は目線をそらさず、ジョーをにらみつけながら通り過ぎた。
何? 黒人が法律の調べものだって? お前ら、いつからそんな偉いさんになったんだ? このクロンボ野郎!
男の目は、雄弁に黒人差別を語っていた。米国社会には、根強い黒人差別が生き続けている。だが、ジョーは慣れっこだった。いつものことに過ぎない。
ジョーが、隣のテーブルで調べものをするアンディに気がついたのはその時だ。訴訟の準備をしているのだろう。だが、関わりのないことだ。
そこへ図書館の係員が本を持ってやってくる。アンディが探すよう頼んでいたものだ。
「『HIVに対する差別』のところにありました」
その瞬間、アンディの近くで本を読んでいた来館者の目が変わった。HIV? こいつ、エイズ患者か?
それに気がついた図書館の係員は、個室に移るようアンディに勧める。事情を察したアンディは、だがきっぱりと断る。
その時だった。ジョーの中でむくむくと沸き上がるものがあった。差別に対する怒りである。自分は黒人であることでいまでも差別を受ける。では、アンディは? ホモであり、エイズであることで白い目を向けられている。こいつ、俺と同じじゃないか? ホモが嫌いだからといって、エイズが怖いからといって、こいつに対する差別を許していいのか? こいつのために戦うのは、黒人の弁護士である俺の使命じゃないか?
“Beckett, how are you doing?”
(ベケット、調子はどうだ?)
ジョーは自分の席を離れ、アンディに話しかけた。アンディと同じテーブルにいた来館者は、うさんくさそうな目をしてテーブルを離れた。
ホモとエイズへの差別感情は捨てきれない。だがジョーは、アンディとともに、差別と戦うことを決心したのである。法律上の根拠は最高裁の判例だった。’73年の連邦雇用法で、雇用主の求める業務を行うことができる障害者の差別は禁じている、と判示していた。クビの本当の理由がエイズなら、裁判に勝てる。
この映画は奥行きが深い。話がここまで進んでも、ホモとエイズを差別する社会をきちんと描き続ける。
裁判が進むに連れて、ジョーは時の人となる。エイズにかかったホモを弁護するヤツ。それがジョーだった。
酒場で、最近歩き方が変わってきたとからかわれる。お前、ホモセクシュアルになったのか?
スーパーマーケットでは、法学部の学生だという男の子が近寄り、露骨にベッドに誘ってくる。
ジョーの敵は、法廷にだけいるのではなかったのだ。周りは好奇心と差別の固まりなのだ。
その社会の対極として描かれているのが、アンディの家族だ。提訴を決めたアンディは、ジョーを伴って両親の40回目の結婚記念日に出向く。親戚中が集まっていた。アンディがホモでエイズにかかっていることは、ここでは周知の事実だ。なのに、全員が嫌な顔一つせず、アンディとキスを交わし、ダンスをし、握手をする。アンディが幼い子供を抱き上げて頬擦りしても、誰も気にとめない。
パーティが終わって、アンディは訴訟に踏み切ることを家族に告げる。様々な嫌がらせや圧力が家族に及ぶ恐れがあると考えたのだ。だが、家族は雄々しくこれを受け止める。
“You are my kid brother. That’s all that matters, O.K?”
(お前は俺の弟だ。大切なのはそれだけだ)
といったのは長兄だ。父は、
“I don’t believe that anything that anyone says would make us feel anything. But I’m incredibly proud of you.”
(誰が何を言おうと、何とも思わないよ。私はお前を誇りに思っているんだ)
と励ます。ホモとエイズに対する偏見が蔓延している中、この家族の強さは並大抵ではない。息子が、兄弟がホモ。あげくにエイズに罹患した……。恐らく、悩み苦しんだ末の優しさなのだろう。この強い家族があってこそ、アンディは戦いに立ち上がることができたのである。
(余談)
しかし、家族愛というものはこれほど強いものなのでしょうか。もし私が同じ立場だったらと考えると、ウーンとうなってしまいそうなのが私の弱さです。
裁判は、法律事務所がエイズを理由にアンディを解雇したと主張する原告側と、職務遂行能力の問題だと主張する被告側の主張が、お互いに決定的な証拠を示せないまま審理を終え、陪審の判断に委ねられる。陪審の流れを決めたのは、1人の男性の話だった。
”Say, I’ve gotta send a pilot in the enemy territory. He’s gonna be flying plane that costs 350 million dollars. Whom I’m gonna put in this plane?”
(仮に、だ。私が敵の領土に飛行機を飛ばすとする。3億5000万ドルもする飛行機だ。さて、私はどんなヤツに任せるかな?)
法律事務所がアンディにハイライン社の訴訟を任せたのは、彼が有能だったからか、それとも単に若手弁護士にチャンスをやろうという配慮だったのか?
実にわかりやすい例えである。この話で陪審の流れが決まった。アンディは優秀な弁護士だったから任されたのだと、ほとんどの陪審員が確信したのである。
陪審員の評決が出た。
法律事務所は、
未払いの報酬、給料として 14万3000ドル
精神的苦痛に対して 10万ドル
懲罰的損害賠償として 478万2000ドル
をアンディに払うべし。
総額502万5000ドル。日本円にすると、5億6000万円近く。ワオーな金額である。アンディとジョーの主張が認められたのである。
(余談)
そういえば、日本でも「裁判員制度」なるものができるそうですね。中身はよく知りませんが、さて、私ら素人が、専門教育を受けてきた裁判官以上の判断を下せるのかどうか。この訴訟で、5億円払えという判断ができるかどうか。 もっとも、権威と権力を持った専門家であるはずの裁判官の判断も、ちょっと待ってよ、といいたくなるものが散見されるご時世ですから、どちらがいいとも一概に決められませんけどね。
だが、裁判が終わったとき、アンディの体は既にボロボロだった。法廷審理の最後の日、アンディは法廷で昏倒し、病院に運び込まれていた。
評決を聞いて見舞いに来たジョーを迎えたアンディは、ベッドに横たわっていた。酸素吸入用のマスクをつけ、起きあがることもできない。そのアンディが左手の親指を立てた。喜びの表現だ。そして、なぞなぞを出す。
“What do you call the 1000 lawyers chained together at the bottom of the ocean?”
(鎖でつながれた1000人の法律家が海の底にいる。これなーんだ?)
“I don’t know.”
(分からないや)
“Good start.”
(未来は明るい)
アンディの最後のジョークだった。ジョーが病室を去ると、恋人のミゲルに
“I’m ready.”
と言い残して息を引き取る。
(余談)
上のなぞなぞ。「lawyers」の代わりに我々の職業を入れても、十分通用するかも知れませんです、はい。
いくつもの欠陥がある作品であるとも思う。
何度も出てくる裁判のシーンは盛り上がりに欠ける。腕利きの弁護士であるアンディ、その代理人であるジョーの2人の力を合わせた訴訟なのに、原告側は不当解雇であったとの立証に成功したとは言い難い。事実と論理を積み上げて真実に迫る緊迫感に欠けるのだ。陪審員の中に、あのパイロット選択の話題を出した男がいなかったら、原告敗訴もあり得た裁判である。
アンディの家族が全員アンディを支えるというのも、何だかなあ、だ。美しい家族愛に涙腺は刺激されるものの、この家族、あまりに強すぎて現実味が薄い。
俗物弁護士のはずのジョーも、デンゼル・ワシントンが演じると、良心派、良識派の有能な弁護士に見えてしまう。デンゼル・ワシントン、あまりにも顔立ちが美しく、ノーブルなのだ。
だが、それにもかかわらず、「フィラデルフィア」は見て頂きたい1本である。
世に不正義が行われた。私と違う価値観を持った人間が被害者である。この類の人間とは、同席することさえためらわれる。その時どうするか? 不正義を見て見ぬふりをするのか? それとも……。
この映画には米国の良心と、フィラデルフィアの語源である友愛がいっぱい詰まっている。
【メモ】
フィラデルフィア (PHILADELPHIA)
1994年4月公開、上映時間125分
監督:ジョナサン・デミ Jonathan Demme
作詞作曲:ニール・ヤング Neil Young ”philadelphia”
ブルース・スプリングスティーン Bruce Springsteen ”Streets of Philadelphia”
出演:Tom Hanks トム・ハンクス = アンドリュー・ベケット
Denzel Washington デンゼル・ワシントン = ジョー・ミラー
Jason Robard ジェイソン・ロバーズ = チャールズ・ウィーラー
Antonio Banderas アントニオ・バンデラス = ミゲル・アルヴァレス
Joanne Woodward ジョアン・ウッドワード = アンディの母サラ
Charles Napier チャールズ・ナピアー = ガーネット判事
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