2017
08.31

#67 生きる― ああ、戦後民主主義(2006年8月17日)

シネマらかす

「お父さん、黒澤の映画でどれが一番好き?」

息子の唐突な問が私を襲った。

「1本だけか?」

質問に答えるに質問でもってする。時間稼ぎの常道である。

「うん、1本だけ」

即座に返事が返ってきた。私が稼ぎたかった時間を与えない。まったく、気配りがない。この性格は親譲りか?

「1本だけねえ……」

脳裏を、これまでに見た数々の黒澤作品が駆けめぐった。

七人の侍? 世評ではこれがベストという人が多いようだな。
羅生門? 確かに強い印象が残っている。
赤ひげ? あのヒューマニズム、いいなあ。
天国と地獄? 新幹線を使った身代金の受け渡し……。
用心棒? あの太刀さばきはすごい。
椿三十郎? これもいい映画だ。
蜘蛛巣城?  三船敏郎の首に飛んできた矢がグサリと刺さったっけ。

酔いどれ天使? 静かなる決闘? 野良犬?……。

いかん、どれもこれも、月並みな表現だが、素晴らしすぎる。この中から1本だけ? それは……。
俺は優柔不断なのか? いいものに取り囲まれると、その中から1つだけ選び取ることができないのか? 27人のいい女に取り囲まれて全員から愛を告白されたらどうする? 一度に全員は愛せないぞ、特に体力的には。
あ、これは可能性ゼロだから心配する必要はないか。

こういう時は、これに限る。

「お前はどれだ?」

答えが見つからない質問には同じ質問を返す。これも常道である。
息子は親に似ず、決断力のあるタイプらしい。

「俺? 俺は『生きる』だよ。『生きる』が最高さ。ほかの映画も素晴らしいけどね」

私も、こんな明瞭な判断力、決断力がほしいと思う。身につけるための時間は、もうそれほど残されれてはいないが。

で、今回は「生きる」である。

その前に、ひとこと断っておきたい。
映画界はこれまで、何人かの天才を出してきた。私が知るのは、それほど多人数ではない。外では、チャップリン、スピルバーグ程度である。そして、内では黒澤明監督しかいない。黒澤監督への私の愛は、「シネマらかす#65 シュリ―いま、すごく逢いたい。逢いたい」で少し触れた。お読み頂いた方もいらっしゃると思う。
では、これまで「シネマらかす」で取り上げなかったのはなぜか?

畏れ多いのである。私ごときがむやみに触ってはいけない。多層に展開する黒澤作品を闇雲に触っては、群盲象を撫でる、の愚に陥りかねない。黒澤作品と向かい合う力量が私にあるとはとても思えないのである。だから、敬して遠ざけてきた。

その禁を、今回は破る。「生きる」と向かい合ってみる。息子に背中を押されたためだ。しかし、うまく行く自信はない。ま、恥をかくのが人生さ、と割り切って筆を進める。

風采の上がらない市役所市民課長、渡辺勘治が主人公だ。が、彼に名前があってもなくても、世の中は全く困らない。それほど存在感の薄い初老の男である。
役所に入って30年というから、年の頃は50代か。20年前まではそれなりにやる気があった。が、役所では何をやってもムダだと思い知った。あとは時間つぶしに課長の椅子に座る。市役所とは、地位を守るには何もしない方がいいという世界であるらしい。
胃の具合が悪い。胃薬が手放せない。とうとう、役所に入って初めて休暇をとって病院の門をくぐった。胃のレントゲン写真を撮り、医者の診断を待った。

「軽い胃潰瘍です。手術の必要はありません。不消化なもの以外なら何を食べてもいいですよ」

普通なら、肩の荷を下ろして病院の門を出るところである。ところが渡辺の頭には、診断を待っていた待合室で聞いた話がこびりついていた。

「軽い胃潰瘍です。不消化なもの以外何を食べてもいい、っていわれたら、それは胃ガンですよ。手術は必要ないとまでいわれたら、ま、せいぜいあと半年か、長くて1年の命ですな」

渡辺は、末期の胃ガンだと信じた。不幸なことに、彼は本当に末期の胃ガンだった。余命は半年。

あと半年か1年の命。そう思いこんだ渡辺は、翌日から役所をずる休みした。なけなしの預金から5万円を引き出し、同居する息子夫婦には出勤するふりをしながら町を放浪した。夜になると、飲み慣れない酒を飲む。酔えば目前に迫った死を忘れられるかもしれない。
5日目だった。酒場で小説家と知り合った。ついつい末期の胃ガンであると告白する。息子にはとうとう切り出せなかった話だ。どうせ他人だとの気安さもあった。誰かに話さねば自分は狂ってしまうとの思いもあった。
一度開いた口からは、胃ガンと思いこんだ日から抱き続けてきた思いがほとばしり出る。遊びも知らない。趣味も熱中することもない。5万円の使い方さえ分からない。私はこの歳まで何のために生きてきたのか……。

酒に酔った作家は渡辺の話に文学的感性を刺激されたらしい。人生を楽しみに行きましょう。私がおごります。2人はパチンコ、ビアホール、ショットバー、キャバレー、ストリップ、ダンスホールとハシゴし、ダンスホールの女から春を買う。

(余談)
ギャンブル、酒、女。男が考える人生の楽しみって、やっぱ、こんなもんなのかねえ……。即物的で分かりやすいけど。
なったことがないから想像も付かないけど、女だったら何を考えるんだろ?

 それで渡辺の心は晴れたか? 晴れるはずがない。

翌朝、渡辺は荒淫の疲れと、相変わらず重い心を抱えたまま家路にあった。その時である。

「課長さん!」

若い女の声がした。市民課にいる部下だった。役所を辞めたい。判子をください。渡辺は自宅に伴い、辞表に捺印する。彼女の靴下にできた穴に気が付いたのは、彼女が帰ろうとした時だった。同情した渡辺は一緒に家を出て、靴下を買い与える。
満面の笑みで靴下を握りしめ、嬉しさのあまりか、父親ほどに年の離れた渡辺に腕を絡めてくる彼女が、渡辺の心にをともした。無断欠勤のまま連日の逢瀬を繰り返し始めたのはそれからだ。いや、逢瀬というほど色っぽいものではない。遊び回るのだ。パチンコ、スケート、遊園地、映画、そして料亭での夕食。

貧しさしか知らなかった彼女にとっては天国のような日々だったろう。だが、毎日が天国だと、気分が落ち着かなくなるのも人間だ。薄汚れた中年男が、何でこれほど親切にしてくれるのか? 薄気味悪くなって離れようとすると、渡辺は彼女の再就職先まで押しかけて会ってくれと迫る。ストーカーの先駆者である。

息子は話を聞いてくれない。息子と嫁の関心は俺の退職金だけだ。妻を亡くして男手1つで慈しみ、育ててきたというのに。
仕事は時間つぶしにすぎず、家族はそっぽを向いたまま。心躍る趣味もない。何にもない渡辺には、だから初老の男と遊んでくれる彼女がありがたかった。
ありがたかっただけではない。彼女がまぶしかった。自分がなくしてしまった若さ、活気、天真爛漫さ、明日への希望、笑い、そして何より、これからもずっと続いていく命。彼女には、渡辺がなくしてしまったものがすべてある。渡辺は、彼女と一緒にいると心から笑えた。もう何十年も忘れていたものだ。

渡辺は彼女に惹かれた。老いらくの恋、というより、目前の死期を悟った男の、生命の最後の燃焼だった。
彼女は、渡辺のマリア様だった。

(余談)
私に死が迫ったとき、マリア様は現れてくれるのか?
マリア様になってもいいという方、是非ご連絡をいただきたい! 面接の上、後日当否をご連絡します。

 「本当に今度だけよ」

といわれた喫茶店での逢瀬で、渡辺はとうとう救いを求めた。ワシはもうすぐ死ぬ。胃ガンだ。あと半年か1年の命だ。君は若い。活気がある。どうしたら君のようになれるのか?

「私、働いて食べるだけよ。私、こんなもん作ってるだけよ。こんなもんでも作ってると楽しいわよ。日本中の子供と仲良しになった気がするの。ねえ、課長さんも何か作ってみたら?

現れたのはたわいもないウサギの玩具だった。ねじを巻くと、ピョンピョン跳ねる。

「何を―、もう遅い―」

絞り出すようにつぶやく渡辺の中で、だが、何かがカチリと音を立てて必要なところにはまった。ある、ある。ワシが生きた証を残せる方法が、1つだけある。この女はやっぱりマリア様だ!

もうマリア様は必要なかった。市役所に駆け込んだ。暗渠があったところから水がしみ出し、湿地になっている。ここを子供用の公園にしてほしいという陳情書があったはずだ。役所のたらい回しと政治的な思惑、様々な利権が絡み合い、誰からも無視されて山のように積み上げられた書類の中で埋もれていた。
これだ。ワシがやる。ワシが作ってみせる。ワシが生きたという証を。
渡辺は猛烈な勢いで仕事を始めた。

公園が完成した。雪が降っていた。その夜、日付が変わるころ、渡辺は公園のブランコで息絶えた。なぜ、そんな日に、そんな時刻に、そこにいたのか。知る人は1人もいなかった。だが、ガンで痩せ衰えた渡辺の顔は、満足感に輝いていた……。

この映画に、黒澤監督は様々なテーマを重層的に埋め込んだ。分厚い、奥行きの深い作品である。なのに、最後まで観客の目を釘付けにする娯楽作品に仕上がっている。黒澤監督の腕の冴えだ。

だから、見る側はその時の自分の関心に従って、様々に受け取る。

渡辺親子に、戦後の家族制度の崩壊を見る。ここから、近年はびこっている

「生んでくれって頼んだ訳じゃないわよ」

の世界までは歩いて数分である。

非効率の象徴であるお役所仕事、利権が絡まり合う行政を痛烈に批判した映画ととらえる。役人は倦(う)まず弛(たゆ)まず働かず。現実がどうかは別として、このイメージはいまだに強い。

渡辺のマリア様になる小田切嬢や息子の妻に、たくましくなった戦後の女性像を見出す。この映画に登場する男たちは、それこそどぶネズミやヤクザばかり。生き生きしているのは女性だけである。

不治の病に冒された人間の苦悩と再生のドラマでもある。いつかは必ず死に迎えられるのが人間だが、普段から死と向き合う人はほとんどいない。それが突然、死と向かい合わざるを得なくなったら?

もちろん、生きるとは何か、というメッセージが一番強烈だ。ただ息をして、飯を食い、出すものを出して子を作る。それだけで生きてるっていえるのか? 君がこの世に生を受けた証はどこにある? 人というのは、人の役に立って初めて生きているといえるのではないか? そう、人のために役に立てる道を見つけた時、人は本当に人になる。死と真剣に向かい合ったとき、人は人になる。
小田切の話にヒントを得て喫茶店を飛び出す渡辺の背景で、誰かの誕生パーティのための「Happy Birthday」が合唱されるシーンは、黒澤監督からの強烈なメッセージだ。この時、渡辺は人として初めて生まれたのである。

どれもこれも重いテーマである。どの1つを取り上げても、かなり長い論文ができる。
だが、私は別のものを見てしまった。黒澤監督の中で輝いていた戦後民主主義である。

黒澤監督の第1回監督作品は1943年の「姿三四郎」である。
時代は戦争一色に塗り込められていた。恐らく黒澤監督は、時代の流れに乗って戦争を賛美することに耐えられなかった。だが、時代を支配する軍部の目は厳しい。そこで、お目こぼしに預かる方策としてスポ根ものでデビューした。ギリギリの抵抗ではなかったか。
が、それにも限度があったようだ。2作目の「一番美しく」は戦意高揚映画であるらしい。「らしい」というのは、まだ見たことがないからである。新進の映画監督として、1本でも多くの映画を撮りたい。だが、本当に撮りたい映画は当局の検閲を通らない。戦争に協力する映画しか撮れないとすれば、私はどうしたらいいのか?
黒澤監督に鬱屈した気持ちがあったことは容易に想像できる。

戦争が終わった。軍部が権力の座から滑り落ちた。間もなく、米国の押しつけとはいえ、民主主義が入ってきた。短期間に、めまぐるしく動く歴史は、黒澤監督の目にキラキラ輝いて見えた。こんな世界がある。すべての人が自由だ。私も自由だ。本当に撮りたい映画が撮れる。それが民主主義だ!

渡辺の通夜の席のシーンをみた時、1952年に「生きる」を撮りたかった黒澤監督が理解できたような気がした。黒澤監督を突き動かしたのは、戦後民主主義への賛歌ではなかったか?

公園が完成した。地域住民は渡辺がこの公園を作った最大の功労者であることを知っていた。その渡辺が公園で死んだ。聞きつけた新聞記者が数人、通夜に出席していた助役に取材に来る。地域の人たちは渡辺が作ったと信じている。渡辺が公園で死んだのは、公園建設に理解を示さなかった市上層部への無言の抗議ではないのか?

市民課長は市民の要望を担当部署に取り次ぐのが仕事だ。公園を作る権限はない。役所の機構に理解のない新聞記者連中は困ったものだ。
と助役がうそぶいていると、公園建設の陳情書を出していた主婦たちが焼香に来る。彼女たちは、居並ぶ助役、市の幹部たちには目もくれず、霊前で涙を流して渡辺の死を悼む。

「生きる」の世界では、金と権力に目がくらんでいる偉いさんたちに真実はない。彼らにあるのは、表面上は合理的に聞こえる空疎な理屈、あらゆるものを自らの権力欲のために利用しようとする卑しさである。真実を担うのは民衆なのだ。それは、戦後民主主義を支えた価値観の1つである。

(余談)
偉いさんに真実がないのは、戦後60年以上たった今でも変わらないようであります。皆さん、毎日の会社勤めで実感していらっしゃるでしょう?

 主婦たちの姿にいたたまれなくなったのか、助役をはじめとした幹部連中はそそくさと席を立ち、待たせていた車に乗り込んだ。残されたのは役所のペーペーと遺族だけ。酒が入り、放談会が始まる。話の焦点は、誰が公園を作ったのか、である。
もう偉いさんはいない。誰に遠慮をすることもない。酒の力で口は軽い。

偉いさんはいたたまれなくなったんだよ。なんと言ったって、公園を作ったのは渡辺なんだから。
いや、役所には縄張りがある。市民課長が公園を作るなんてあり得ない。
公園の設計、予算、工事の執行はすべて公園課がやった。渡辺が作ったなんてとんでもない。
公園ができたのは偶然だ。選挙が迫ってなけりゃ、こんなにトントン拍子には進んだはずがない。
 渡辺の頑張りが、公園計画を逆にこじらせた面もあったぜ。

当初は「常識」派が大勢だった。というより、大衆は、権力者の価値観を、自分の価値観と勘違いして生きるものである。ペーペーは助役を筆頭とする幹部連中と同じ見方をしてしまう。自分たちが権力者ではないことを自覚するには、何かのきっかけがいる。

でも、渡辺は何で急に変わったんだ?

この場では、それがきっかけになった。話がどこに進むか全く自覚しないまま、それぞれが自分の知る渡辺を描き出し始めた。

胃ガンだと知っていたのではないか? 
そんなことはあり得ない。 
女だよ。ホルモンの作用で一時的に若返ったんだ。
公園課では、課長が首を縦に振るまで黙って座り続けていた。
逃げ回る土木課長を追い掛けていた。 
課員にまで丁寧に頭を下げて頼み込んでいた。 
陳情書を出した主婦を引き連れて助役と渡り合った。 
病み衰えてふらつく体で庁舎内を歩き回り、公園建設現場に通っていた。 
 特飲街を作れと圧力をかけに市役所に来たヤクザの脅しに屈しなかった。

1人1人が知っている渡辺は、渡辺の断片でしかない。だが、数は力だ。断片も数が多くなるとジグソーパズルのピースになる。やがてそれぞれのピースが収まるところに収まる。すると全体像が見えてくる。

いえ、いま、急にその、思い出したんですがね。

記憶の水面に浮かび上がった渡辺の言葉は、こんなものだ。

「いや、ワシには人を憎んでなんかいられない。ワシにはそんな暇はない」

 「おー、美しい。実に美しい、ワシは夕焼けなんて、この30年、すっかり……。いや、しかし、ワシにはもうそんな暇はない」

渡辺は、自分の胃ガンを知っていた。だから異様な熱心さで並はずれた行動力を発揮した。公園は、死期を悟った渡辺が、命の灯火が消える速度と闘いながら必死に作り上げた遺産だったのだ。
渡辺の本当の姿が、いま全員の胸に落ちた。

通夜の席で、酒に酔って口角泡を飛ばしているのは、何の夢も、希望も、抱負も、責任感もなく、ただただ役所の机にへばりついているだけの、どうでもいい連中がほとんどだ。だが、そんな連中でも、率直に語り合い、それぞれが持っている事実を出し合えば真実に到達する。名誉欲、金銭欲に駆られた連中には決して見えない本物を見る。

小学生のころ、毎週1回学級会の時間があった。委員長が議長となり、何かのテーマを設けて各人が意見を発表する。さあ、皆さん、自分の考えを発言しましょう。みんなに聞いてもらいましょう。
みんなは発言している友達の意見に耳を傾けましょう。賛成ですか? 反対ですか? それも手を挙げて発言しましょう。さあ、みんなの意見はまとまりましたか?

まだ、戦後民主主義が健全だと思われていたころに小学生時代を過ごした人なら、そんなシーンのいくつかが記憶にあるはずだ。あのころ、学級会は民主主義の学校であった。

「生きる」で黒澤監督は、大衆が真実に到達する道筋として、そんな「学級会」を描いた。
権力者に怯えることなく、自由に、闊達に、それぞれの意見を述べ合おう。そうすれば、権力者が押しつけた嘘が見抜ける。本当のことが見えてくる。我々はいま、それが可能な時代に生きている。民主主義を自分の血肉化しよう。そして、新しい、素晴らしい世界を我々の手で築き上げよう。
これが戦後民主主義賛歌でなくて何だろう?

黒澤監督がこの映画を撮って、すでに54年がたった。いま、かつてはあれほど輝いていた民主主義が、ひょっとしたら手垢に汚れていいないか?
学級会は、論敵を言い負かすことだけに力を注ぐディベートの場になったと聞く。健全な民主主義は、時の首相に80%を超す支持を与えたりはしない。就任から5年、いまだに、まともに論理の噛み合った議論ができない首相に、50%近い支持を与え続けたりしない。

日本人の血で購った民主主義ではなく、外から与えられた民主主義だから、結局日本人の血肉になることはなかった。
公民としての権利の主張だけで、それに伴う義務を教えてこなかった戦後教育のせいだ。
ブルジョア民主主義とは、所詮、その程度のものである。
メディアの異常な発達が、民主主義を衆愚主義にしてしまった。
そもそも民主主義そのものが、不完全なシステムなのだ。

手垢に汚れた原因をどう解釈しようと、何かが違ってしまったという違和感は残る。我々はどこに行こうとしているのだろう?

戦後民主主義を絶賛したかに見える黒澤監督だが、実は我々と同じ不安を、早くも1952年に抱き始めていたらしい。通夜の席で酒に酔った全員が、渡辺の実像を見出したあとに、黒澤監督は実に苦い現実認識を示しているのだ。

その場のほとんど全員が感極まって、次々と決意宣言する。

僕はやる。断じてやるぞ! 
渡辺さんの後に続け! 
あのですね、渡辺さんの死をムダにしてはですね……。 
僕はね、生まれ変わったつもりでやるよ。 
 自己を滅して万民の公僕たれ、だ!

一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし
(ヨハネ伝第12章24節にあるキリストの言葉)。

渡辺の死と民主主義が、多くの後継者を作った。かのように見えた。だが……。

亡くなった渡辺のあとを襲って、大野が新しく市民課長に就任した。通夜の席で

「僕はね、生まれ変わったつもりでやるよ」

と声高に宣言した男である。
その大野が座った市民課長席に部下が来た。

課長、木崎町で溢れ出た下水の水がそのまま隣の高尾町の……」

 「土木課」

 「はあ」

受付窓口に戻った部下は、陳情にやってきた住民に説明する。

「あの、お話しの件は8番の土木課へどうぞ」

市役所は何も変わらない。地に落ちて死んだ一粒の麦は、何も生み出さない……。

語り合うとは何なのか?
みんなで真実を発見するって、何の意味があるのか?
何も変わらなければ、すべては無駄ではないか?

戦後民主主義の到来をあれほど喜んだかに見える黒澤監督だが、わずか7年にして、早くも民主主義の虚妄に気が付いていたのではなかったか。

日本に日本国憲法を押しつけ、民主主義と平和主義を根付かせようとした米国は、朝鮮戦争を機に日本に再軍備を求め始めた。1950年、警察力の不足を補うとの名目で、戦車まで持つ武装部隊の警察予備隊が発足し、52年には保安隊に改組される。
この間、51年にはソ連や中国、インドを除いたまま講和会議が開かれ、サンフランシスコ平和条約に49カ国が署名。日本では1952年4月に発効した。日本がまた、きな臭い道をたどり始めたといわれた時代である。

「生きる」は、そんな時代に撮られた映画である。

【メモ】
生きる
1952年10月公開、上映時間 143分

監督:黒澤明
出演:志村喬=渡辺勘治
小田切みき=小田切とよ
左卜全=小原
藤原釜足=大野
中村伸郎=助役
伊藤雄之助=小説家
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