02.12
2019年2月12日 総支配人 その20
ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございます。読んできて、どのようなご感想をお持ちでしょうか?
ひょっとして
「あれだけ嫌がってついた職にもかかわらず、あんた、結構楽しんだんじゃないの?」
ピンポーン! そう、いつの間にか私は、朝日ホール総支配人という仕事を楽しんでいた。人生である。仕事である。1日の3分の2前後の時間を注ぎ込む仕事を楽しまなくて、どうして人生が楽しくなる?
楽しんで様々なことをしたが、もう一つ、まだ書いていないことがある。
朝日いつかは名人会
というホール落語の会をどこかでお聞きになったことはないだろうか? 首都圏で朝日新聞を購読されている方々は、おそらく年に数回、目にされているはずである。次の「いつかは名人会」が近付くと、社会面の下に小さな広告が出るからだ。
きっかけは単純だった。
有楽町ホールで年に10回(だったと思う)開く落語の会、「朝日名人会」が毎回チケット売り切れの大好評で、
「ホールの収支改善に、これを使えないか?」
と考えたのだ。
そんな使い方をするには、いくつかのやり方があるだろう。まず、「朝日名人会」の回数を増やす。しかし、増やしたとしてもせいぜいあと2回、年間12回が限度である。それ以上増やせば間が近すぎて、毎回通う常連客も
「忙しくてやってらんないよ」
になりかねない。
それだけでは収入増は微々たるものだ。
だから、もう一つ落語の会を立ち上げよう、というのが私の思いつきだった。しかし、同じような名人を揃えた落語の会を立ち上げれば、「朝日名人会」の責任者である私の手で、「朝日名人会」のライバルを作ってしまう。これは下の下の作戦である。共倒れになりかねない。どうしたらよかろう?
ふと思いついた。幸いなことに、世は落語ブームといわれている。であれば、まだ「名人」とは呼ばれない若手落語家の会を作ったらどうだろう? これなら「朝日名人会」のライバルになることはない。しかも、若手落語家が高座に上る機会を増やして育てることが出来る。
朝日新聞は、高校野球をはじめとするアマチュアスポーツを支援すると唱えてきた。ま、通りの良いキャッチフレーズということで使っていたのかも知れないが、若手落語家を育てるといえば、その建前上かもしれない朝日新聞の姿勢にも合うではないか。
あのソニーKさんに相談した。何事をするにしても、事前に専門家の意見を聞くのは大切である。それに、本当に若手落語家の会を始めることになったら、ソニーKさんの力を借りねばならない。
「ああ、いいですね、それ」
ソニーKさんはにこやかに答えてくれた。
「それで、どこでやるんですか?」
「はい、若手落語家の会ですから、700人入る有楽町ホールでは大きすぎるでしょう。客席に客がまばらでは、若手の士気を阻喪しかねない。だから築地の浜離宮ホールを使います。いえ、音楽ホールではなく小ホールです。ここだと400人ほどの小屋になります」
「適度な大きさですね」
相談はスムーズに進んだ。
「それで、何ですが、どんな落語家さんに出ていただいたらいいんでしょうかねえ?」
若手落語家の会を開くとはいったが、実は、落語の世界にどんな若手がいるのか、私にはトンと知識がない。しかも、400人の客席を埋めるほどの落語会にするにはどんな工夫をしたらいいのかもまるで分からない。
分からないことは専門家に聞く。というより、頼りになる専門家を使い倒す。それが私のスタイルである。
しばらく考えていたソニーKさんが口を開いた。
「こうしませんか。客を呼ぶにはそれなりに育った若手を真ん中に据えるしかない。つまり、フレッシュで将来性のある真打ちをひとり出します。そして、その真打ちに『あんたが将来を見込んでいる二ツ目を連れてこい』って人選を投げちゃうんです。彼らも必死で考えてくれますよ。自分に人を見る目があるかどうかが問われるんですからね」
面白い。次の落語界を担うかも知れない若手の真打ちと、その真打ちが見込む二ツ目。これなら話題になりそうだ。
「それで、そのあたりのギャラっていくら位なんですかねえ?」
これは収支計算をして入場料を決めるのにどうしても必要なデータである。
「ええ、若手の真打ちは○○円程度、二つ目なら▽円も出せばいいんじゃないでしょうか」
○○、▽は企業秘密である。秘密は墓の中まで持っていかねばならない。あ、私は
「墓なんかいらない」
と子供たちにいってある。では、どこに持っていったら良かろう?
いずれにしてもその程度なら、入場料は2000円、あるいは2500円か。それで十分採算が取れるはずだ。
「では、申し訳ありませんが、有楽町と同じように、こちらでも出演者選びなどをお願いしたいのですが」
こうして若手落語家の会を開くことは大筋決まった。決まれば準備に取りかからねばならない。
必要なのは、高座、座布団、背景になるついたて程度だったと思う。いろいろなことをソニーKさんに教わりながら一つ一つ進めた。
会の名称も決めなければならない。ホールの事務室でみんなの知恵を求めた。しかし、ネーミングというのは難しい。私が出す無理難題をこなしてくれた担当員、一緒に働く朝日建物管理の仲間も首をひねるばかりだ。もちろん私に、そんなネーミングセンスがあるはずはない。
「社内で公募しましょうよ」
と言い出したのは誰だったか?
「この落語会、私に担当させてください」
申し出て担当に就任した副支配人ではなかったか?
公募した。新しく始める落語会のチケットを景品にしたら、結構な応募があった。
「これですよ、これ」
担当に決まった副支配人が取り出したのは
朝日いつかは名人会
である。
そうか、これなら「朝日名人会」のブランド力が生かせる。それに、ここに出るのは「いつかは名人」になる若手の落語家であるという意味も含められるし、ここの高座に登る落語家は、いつかは「朝日名人会」で出るんだという意気込みで芸を磨いているんだというアピールも出来る。
気に入った。
「うん、これにしましょう」
以上は、朝日いつかは名人会誕生秘話である。秘話? それほどのものでもないか。
最初に登場していただいた真打ちは、柳家喬太郎師匠だった。
「彼が今日下見に行きますから、会場を説明してください。高座に登る側としてここはこうして欲しい、という思いもあるでしょうから、話を良く聴いてやってください」
とソニーKさんにいわれた日、背中にデイパックを担ぎ、ジーパンにスニーカー姿で野球帽を目深にかぶった中年の男性がホール事務所を訪ねてきた。見たことがない顔である。この人、コンサートのチケットでも買いに来たのか? ここでは売っていないんだけどなあ。
「こんにちは。柳家喬太郎といいます」
えっ、落語家ってこんな格好をするの? 和服を着こなしてくるんじゃないんかい
彼を小ホールに案内し、舞台を見せ、高座をその上にしつらえた。その上に座布団を置く。
靴を脱いで高座に登り、座布団に座った喬太郎師匠は目線をあちこちに動かし、
「それで、お客様はどのように座られるんですかね?」
と私に尋ねたような記憶がある。それに答えて、収納式の階段席(使わないときは壁の奥に収まっていて、使うときは電動式で出てくる)を出し、その階段席の端から舞台までは折りたたみ椅子を並べると説明した、というのも曖昧な記憶である。
いずれにしても、彼は納得してくれたようで、来たときと同じ格好で
「じゃあ、失礼します」
とホールを去った。
そして、第1回朝日いつかは名人会の日。さて、どれだけの客が来てくれるのだろうと待っていると、開場前からホールの前に人だかりができた。全く知らなかったが、喬太郎師匠は追っかけもいる人気落語家だったのである。そして、開演の午後7時が近付くと400の客席がすっかり埋まった。
前半は若手二ツ目2人の高座である。それが終わると喬太郎師匠も舞台に出て3人での舞台トーク。落語家とは常に客を笑わせることを考えている人種らしく、会場は笑いに包まれた。
そして、中休みを挟んだ後半は喬太郎師匠の高座である。出し物は「抜け雀」であった。貧しい絵描きが宿を取り、金が払えないので絵を描くといってついたてに描いた雀が、朝の光を浴びるとついたてを飛び出してえさをついばんでくる。それが評判を呼んで、その宿屋がたいそう繁盛する。その絵を高齢の絵師が見に来て……、という、有名な古典落語だ。
喬太郎師匠は新作落語に力を入れていると聞いた。しかしまあ、喬太郎師匠が演じる古典落語の面白いこと! この面白さを書き表せる言葉を持たないのが残念だが、私はこの一席だけで、すっかり喬太郎ファンになってしまった。
それから数ヶ月して、喬太郎師匠を酒席に誘った。ソニーKさん、それに副支配人と一緒だった。場所は東京・原宿の魚の店「小菊」である。「小菊」は「グルメらかす」に何度も登場した店だから、ひょっとしたら記憶していただいている方もいらっしゃるかも知れない。
「喬太郎師匠を、そんな大衆酒場に連れ出したのか!」
と驚かれる方もおいでになるかも知れない。しかし、親しき人と飲むのは肩肘張らないこんな店がいい。
喬太郎師匠、芸達者である。頼みもしないのに先輩落語家のものまねから言葉遊びまで、2時間ほどの酒席には笑いしかなかった。こんなに笑い転げた酒の席は、後にも先にも、これだけである。
いま喬太郎師匠は、時折「朝日名人会」の高座にも登っている。まだ「名人」と呼ぶには若すぎるかも知れないが、私は彼が、いつかは「名人」と呼ばれるようになって欲しいと願っている。いや、私が願わなくても実力でそうなるさ、と信じてもいる。
朝日いつかは名人会はいまでも健在だ。いまネットでググってみたら、今年は1月29日が幕開けで、その次は4月16日午後1時半から。何と、喬太郎師匠が出るそうだ。
行きたいなあ。
朝日ホールの支配人とは、そんな楽しみがある職であった。