09.20
体力には限界があることを思い知らされた今週であった。
いやまあ、ちょっと聞いて欲しい、というか、ちょっと読んで欲しい。私は今、疲労困憊の極にある。いや、原稿を書き始めたぐらいだから、極から少し戻って北緯80度ぐらいまできたところか。
今週は酷な週であった。
3連休で火曜日から始まった週だが、その火曜日から群馬大学関連のベンチャー企業の合宿が始まった。親父が6人(うち1人はずいぶん若いのだが、まあ、原稿を書く都合上、親父の中に加えておく)、すぐ近くの薮塚温泉に泊まり込み、ビジネスプランを練る、という趣旨である。
その趣旨だけでも疲れるのに、その前日の16日は私を訪れる者があった。
「大道さん、明日は早朝から桐生で仕事があるので泊まります。だから晩飯を食いましょう」
晩飯を食うとは、ともに酒を飲むことである。誘われたら、断る勇気を持てない私である。休日の夜、営業している店が少ない中、見つけた焼き鳥屋で焼き鳥を頬張り、
「ラーメンを食おう」
と歩き出したらジャズ・ライブの店がやっていたのでふと立ち寄り、その後ラーメンを食って別れた。
最近の私は、この程度のナイトライフを過ごすと、翌日は二日酔いになる。情けないとは思うがそれが事実で、それが分かっていながらなかなかライフスタイルを変えられないのが、私の欠点といえば欠点である。
その二日酔いの状態で、翌17日は午前10時から合宿の準備。討議資料の最終確認である。かくして薮塚の温泉宿で午後1時、合宿の幕が切って落とされた。
歯に衣を着せぬ議論の応酬(中には、上手に薄衣をかけたものもあったが……)は疲れる。2度ほど休憩を取ったが疲れることにそれほど変わりはない。午後6時過ぎまで続いた討論はいったん休憩に入り、入浴時間を取って午後7時から夕食であった。
夕食とはいえ、集まった親父連の共通話題は仕事しかない。飲みながら、食いながら、やっぱり議論が続く。そして夕食が終わったから解放されるかというと、そのような自由はない。
「2次会に行きましょう」
温泉宿の中にある居酒屋に場所を変えただけで、同じメンツで同じテーマが論じられる。部屋に戻ったのは11時を過ぎてからであった。
以上の話で肝要なのは、
1)17日を私は二日酔いで迎えたこと
2)夕食から2次会まで、当然酒を飲み続けたこと
である。
そうそう、2次会の席で
「あ、俺、この酒飲んでみよう」
と私が注文したのは「久保田」の万寿であった。注文した後で聞くと、コップ1杯3000円。価格を知った全員から冷たい視線を浴びせられながら飲んだ万寿はしかし、
「これ、美味くない!」
周囲にいた2、3人にも味見をさせて同じ意見を聴取したから、この判断に大きな狂いはない。2度と「久保田」は飲まない。
まあ、それはいいとして、部屋に戻った私は当然布団に入り、眠りについたわけだが、どういうわけか眠りが浅い。夜中に2、3度目が醒め、午前5時半に目が醒めた後はどうしても入眠できず、そのまま起きてしまった。長時間の議論で脳が活性化しすぎ、眠りを受け入れられなかったと思われる。
合宿2日目は午前9時開始である。前日の議論を引き継ぎ、正午過ぎまで喧々囂々(けんけんごうごう=パソコンは楽である。こんな難しい漢字も勝手に変換してくれる)の議論を続け、正午過ぎから昼食。これが何と、桐生名物と言われる「ソースカツ丼」であった。
すでにご想像いただいていると思うが、二日酔いで合宿に入り、その夜もしたたかに酒を飲んでしまった私は2日連続の二日酔いである。その挙げ句に「ソースカツ丼」とは……。
体調をべつにしても、この「ソースカツ丼」なる食べ物は
「トンカツなら別の皿で出せば良い。どうしてご飯の上にソースに浸したトンカツを載せねばならないのか!」
と私が桐生に来て以来、敬遠し続けた一品である。それを、トンカツなど脂っこいものは避けたい最悪のタイミングで口にしなければならなかった私の胸中を察していただきたいものである。
合宿明けは18日の午後1時過ぎであった。いかに2日連続の二日酔いとはいえ、それで終わっていたら体力の限界など感じなかったに違いない。合宿から解放された私には、まだまだ仕事があったのである。まず、この会社の社長さんを前橋までお連れしなければならなかった。いや、それは車を運転すれば済むことである。だから、ここまでならまだましだったであろう。
「今日午後6時から仕事の打ち合わせがるので出てください」
午後6時からの打ち合わせとは、飲み会の別命である。当然酒が入る。
同じことを繰り返すが、それでも、この飲み会が最後の予定だったら、今日の私はもっと元気なはずである。
一連の仕事の最後に控えていたのが、奈良への出張だった。19日午後1時に、奈良県大和高田市のJR高田駅まで出向かねばならなかったのだ。
「だから、打ち合わせが終わったらその足で東京に行き、ホテルで1泊して19日朝の新幹線で新大阪まで行き、JR高田駅に向かいます」
JR高田駅といってもご存じの方は少なかろう。私はもともと関西には土地勘がないし、奈良県は分かっても大和高田市は分からない。その分からないところまで行かねばならなかったのだ。
JR桐生駅を出たのが午後8時半。高崎で新幹線に乗り換え、東京・八重洲口のホテルに投宿したのは午後11時だった。桐生で飲んだ酒はすでに冷めかけている。自動販売機で買った缶ビールを1缶あけると、ベッドに潜り込んだ私であった。
さて、前夜の眠りが浅かったと書いたことをご記憶であろう。脳が活性化しすぎていたためではないかとも書いた。そして18日も、私の脳が前日とほぼ同じ状態であったことは、この間のスケジュールを咀嚼していただいた方々にはご理解いただけると思う。そうなのである。身体はかなり疲れているはずなのに、この日も豊かな眠りは訪れてくれなかったのだ。夜中に数度目覚め、最終的に起き出したのは午前6時である。疲れがどんどん体内に蓄積されている。そんな実感を持ちながらホテルの朝食を口に運んだ私であった。
東京駅から新幹線に乗り込んだのは、確か午前8時半前後。新大阪駅までの車中ではほとんど本を読んでいたが、時折活字がかすむ。不思議なもので、かすみ始めた活字はどんどん脳内で増殖し、私の脳は目から受け入れていた活字の情報が途絶えると、勝手に先の活字をつくってしまう。つまり、私の脳が勝手にストーリーをつくり出してしまうのである。そして、
「なんか不思議な話だな」
と脳の別の部分がいぶかり、ふと注意が本に戻ると、先ほどまで脳内にあったストーリーは本のどこにもない。あ、そうか、あれは私の脳が勝手に作りだしていたのかと思いながら先を読み始め、再び自作ストーリーができはじめ……。不思議な旅である。
新大阪から大阪に出て回転寿司で昼食。すぐにローカル線に乗り込んでひたすら高田駅を目指す。到着したのは午後1時直前であった。
高田で打ち合わせを済ませる。そこから現場となる櫟本(いちのもと)駅まで移動する。そして現場での打ち合わせ。その間私はカメラマンとして様々なショットをカメラに収める。
「4時2分の電車で奈良まで行き、そこから京都に出る。その後は新幹線」
といいうことでローカル線の乗客となり、京都からは新幹線の乗客に変身して東京、そこから新幹線で高崎、両毛線で桐生。タクシーで自宅に帰り着いたのは午後10時半を過ぎていた。
その間、横浜の瑛汰から電話が入る。
「ボス、ちょっと分からない数学の問題があるんだけどさ」
といわれても、まだ乗客の身分である。高崎駅でホームに出て
「問題をメールで送れ」
と指示。すぐにメールが来て関数とグラフの問題だった。一次関数が2つあり、与えられた座標から2つの一次関数を求め、次に2つの直線の交点を求める。それだけの問題だが、解くのに難渋したらしい。
解き方をメールで送り、桐生駅に着いて電話をした。
「瑛汰、お前はボスより頭がいいんだよな。この程度の問題は自力出とけないと困るんだが」
とはいいながら、関数とグラフはこれから数学を理解するには欠かせないポイントである。電話で話しても、
「これで理解できたか?」
と不安が残る。だが、時間が時間だ。それ以上の会話は断念して自宅へ。直ちにシャワーを浴びる。
疲れた。全身がグチャグチャになるほどの疲れを感じる。
「だったら、すぐに布団に入ったんだよね」
というのは甘い見通しである。疲れていた。電車の中では何度もうたた寝をした。なのに、自宅に着いたらどうもすぐには寝付けそうにない。
「映画を見るか」
90分ほどの映画をリクライニングチェアに全身を横たえながら鑑賞し、午前0時過ぎに布団に入った私だった。
疲れた。この程度の仕事で疲れる年代に達したらしい。その疲れは今日になっても残っている。
だが、疲れたからと行ってリクライニングチェアで1日ぐったりしているのは私のスタイルではないようで、今日は朝から2件訪問、数件の電話で最新の情報を仕入れ、夜は元市長さんとの飲み会に顔を出した私である。
ねえ、疲れたからって引きこもっていては人生を楽しめないではないか。疲れ果てて動けなくなったのなら仕方がないが、いかに疲れていようとも、やった方がいいことはやった方が明日につながる、と考える私である。
でもなあ、うん、その飲み会からさっき戻ってきたが、やっぱり疲れた。今日は頭もそう使ってはいないから脳もそれほど興奮していないだろうし、疲れに応じた深い眠りを楽しめると信じてこれから布団に入る私である。
明日は元気になっている……と信じたい。まだ高齢者の仲間入りは御免である。